完全無欠のパーフェクトフード 2-8
打ちのめされている――というのは自覚しているけれど、僕が自覚しているよりもよっぽどひどい顔色をしていたのだろう。帰り道、見かねたダフネがテックさんの店まで屋台を戻すと買って出てくれた。こんな夜遅いのに女の子ひとりは心配だ、と思ったけれど、ハーマンが付き添った。
「いまのあなたのほうが心配ですよ。まっすぐ帰ってくださいね」
と、彼にしては珍しく、素直に心配されてしまった。面目ない――もとより、僕に立てる面目などどこにもないんだけど。
夜営業の終わった『マリウス』にたどり着くと、店内はテーブルの上に椅子がさかさまにあげられていて、掃除もなにもかもすべてが終わっているとわかる。光術符もその機能をオフにされていて――唯一、キッチンとカウンター上の灯りだけがついていた。カウンターにはプリムが座って、ティーカップを傾けていた。赤毛が光を反射して、煌めいている。
「……おかえり、マリウス」
僕の顔を見て、察したのだろう。彼女はいたわるように言って、自分のとなりの椅子を引いた。
「ちょうどいま、紅茶淹れたの。飲む?」
「……ただいま。うん、飲む」
僕は丸椅子に座って、プリムがカップに紅茶を注ぐ様をぼうっと見ていた。
差し出されたカップに口をつける。味がいい。香りもいい。高くはないけど、それなりにいい茶葉を使っている。喉に熱さが塊になって流れ込んできて、みぞおちのあたりに着地する。
「……美味しい?」
うん、と頷く。そして、ふとプリムに聞きたくなった。
「ねえ、プリム。美味しいって、どういうことだと思う」
「え? 美味しいは美味しいじゃん」
たしかにそうだ。プリムらしい答え。
「でも、えーと、ちょっと待って。……うん、美味しいは、嬉しいかな。踊りたくなっちゃうみたいな。それから、美味しいは、楽しいでもあるよね。食べた人が笑顔になって、いい気持ちになって……そういうもの、かな」
嬉しくて、楽しくて、美味しい。――つまりそれらが、僕がジーンから奪ってしまったものである。彼女が価値を感じられなくなってしまったもの。ぐるぐると渦巻く体の中の感情は、いつまで経っても落ち着いてくれる気配を見せない。それでも、僕は行動しなきゃならないとわかっていた。時間は待ってくれない――時間だけじゃない。誰もかれも、僕自身でさえ、僕を待ってはくれないのだ。僕がジーンを待たなかったように。
「……ね、プリム。聞いてほしいんだ。今日、ジーンとどういう話をしたのか。なにがあったのか。僕が――どれだけひどいやつかってことをさ」
プリムは静かにうなずいた。僕はカウンターの木目を見ながら、うまく回らない口で話した。僕が逃げてしまったこと。僕が押し付けてしまったこと。それから、僕の存在がストレスとなって、ジーンが味覚を失ってしまったこと。
プリムは黙って聞いていた。話し終えた僕は、ただじっと待っていた。プリムなにか言うのを。あるいは――僕は、プリムに責められたかった。叱られたかった。だれかに、おまえはどうしようもないやつだと突きつけられたかった。
だけど、プリムは僕の右手を取って、優しく両手で包んだ。柔らかい感触と温かな体温が手のひらを伝って流れ込んでくる。
「あたしはさ。生まれたときから平民……というか、孤児だったし、ストリートでバカやってたガキに過ぎないし、貴族の責務がどうとか、なにもわかんないよ。ジーンちゃんが味覚を失ってしまったのがマリウスのせいだって言われても、ピンとこない。それはひどいね、って思うけど、本当のところは理解できない。わたしにはわからないことばかりだから」
バカだから――とプリムは少し自虐っぽく笑った。僕は笑わなかった。
「だけどね、マリウス。あたしにもわかることがあるの」
ゆっくりと顔を上げて、彼女を見る。見たことのない笑顔があった。プリムらしくない、笑顔が。
「あたしはそれをマリウスにもらったんだよ。美味しいことの意味を、マリウスにもらったの。美味しくて、嬉しくて、楽しくて……そういうものを、あなたにもらったんだ」
だから、と一息入れて、プリムは続けた。笑顔を、作って。
「あたしはもう、十分もらってるの。たくさん、もらったんだ。大切なものを。だから、いいよ。あたし――マリウスと一緒なら、それでいい」
「……プリム?」
プリムは――作り物の痛々しい笑顔で、僕に言った。
「あたし、妾でいい。あなたのそばにいられるなら、それでいいから――」
だから、これ以上自分を責めないで、と。彼女は笑いながら――泣きながら震えていた。
「――ッ」
僕は思わず、プリムを抱きしめていた。ぎゅう、と。力いっぱいに。僕は愚かだ――何度だって同じ間違いを繰り返しては、そのたびに後悔して、成長した気になって……でも根っこのところはなにも変わらない。変われない。愚かでどうしようもない。
責められたかったし、叱られたかった。……楽になれるから。それだけで、許された気になれるから。
逃げられる、から。
それじゃいけないんだって、学んできたはずなのに。
「うそ、つくなよ」
震える声が出た。
「うそじゃないよ。あたし、ホントに妾でもいいの」
「……プリムさ。おぼえてる? 五年前に、レイチェルとハンバーガーで勝負したとき。プリム、言ったんだ」
僕の心に突き刺さり、僕を正したそのセリフを。心を打ち震わせた言葉を。
「『あたしは、うそを、つかない』――僕と、僕の料理に言ったんだ」
「……ごめんね」
プリムの声も震えている。僕はもっと強く、あらん限りの力で彼女を抱き寄せた。しっかり抱きしめておかないと、ばらばらになって空気に溶けてしまうような気がした。
「謝らないでよ。うそをつかせたのは、僕なんだ……僕が、至らないから。僕が、バカで、愚かで、逃げてばっかりなままだから――キミにうそをつかせちゃったんだ。ごめん、プリム。ごめん――だから、お願い」
背中に手が回る。彼女もまた、僕を強く抱きしめている。痛いくらいに。僕がほどけて消えてしまわないように。
「言ってよ。ホントの気持ちを」
泣いていた。ぼろぼろと子供みたいに涙を流していた。僕は――プリムは。どうしていいかわからない、大人になっても子供から抜け出せない僕と彼女は。
だけど、逃げちゃいけないんだって……痛みに向き合っていかなきゃいけないんだって、わかっていたから。
「あ――あたし。あたしは……マリウスの一番がいいの……っ!」
進まなきゃいけないんだ。
「――僕もだよ、プリム。僕もプリムがいい」
右手でそっと彼女の頬に触れる。涙を指で拭う。温かさが肌を伝って、流れていく。
「――すきなんだ。僕は、プリムのことが、すき」
ずっと言えていなかった言葉。五年前も――帰ってきてからも。ようやく言えた。
前に、進めた。
プリムはどんな顔をしているんだろうか、と思ったけれど――唇に柔らかい感触が触れたので、僕は目をつむることにした。いまはそれで十分だと思ったから。
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