完全無欠のパーフェクトフード 1-4
ジーンが扉を開ける。からん、とベルが鳴った。
「あら。お客様ですの?」
扉の向こうに、頭から雨よけに布をすっぽりとかぶった人物が立っていた。背は低く、ジーンよりもさらに小さい。
「ども。パン、持ってきました」
ぶっきらぼうな声と、背後には同じく雨よけに布をかぶせたカートが置いてある。ジェビィ氏のところの弟子だ。たしか名前は、
「ダフネさん。ありがとう、濡れてるでしょ。入って入って」
「あら。夜営業のぶんのパンですのね。美味しそうな香りですの。――では、わたくしはこれで」
「うん。またね、ジーン」
ジーンと入れ替わりで、少し濡れた少女が入ってきた。布の濡れ具合を見る限り、雨はほとんど降っていないようだ。パンの配達がいつもより一時間ほど早い。
フードを外すと、肌の焼けた少女の顔が現れた。毛先が縮れた茶髪が落ち着いた表情によく似合っている。ジェビィ氏の弟子というから、彼と同じように陽気な子かと思っていたけれど、似ても似つかないクールっ子で――しかし、弟子入りを断り続けたジェビィ氏の店に一年間毎日通って独学で彼の技術を盗み見、試行錯誤の末に家で焼いてきたパンをジイさんに見せて弟子入りを認められたという、非常に心の熱い子でもある。
「ありがとう。悪いね、雨の日なのに」
「雨、弱くなってたので。風向きと雲の薄さもいい感じだったから、はやめに来ました」
「しっかり者だ。――今日、ジェビィさんは?」
いつもはあの老人がやってきて、ひとしきり駄弁っていくのだが。
「師匠は湿気で腰痛がひどいらしいので、店番です」
「あー……そっか。いつも跳ね回ってるから、体はめちゃくちゃ元気なんだと思ってたけど、けっこう歳だもんね。ジェビィさん」
「師匠がめちゃくちゃ元気なのは、みなさんと話すときと、パンを焼くときだけです」
「それ以外は?」
「一段下がってめちゃ元気です。今日も腰痛さえなければ跳ね回っていたと思います」
「なら安心」
少女はカートの布を外して、詰まれていた木箱をおろした。
「夜用のバンズが五十です。あと塩バターロールが二十と、あとはよろしければこちらを」
営業用のパンとは別に、ダフネは布に包まれた丸いものを差し出す。
「新作です。味の感想をいただければ」
「ああ、ありがとう。――ダフネさんが作ったの?」
「はい。生地に刻んだベーコンとチーズを入れてあります」
「へぇ。それはうまそうだ」
布を外すと、ふっくらと焼かれたパンが顔を出した。表面で溶け出て固まったチーズとベーコンが軽く焦げていて、その香りに食欲をそそられる。――昼飯を食べたばっかりだけど。
背後からプリムが、
「お! ダフネちゃん、また新しいパン作ったの?」
「はい。売り物になればいいのですが」
「きっと売れるよ、塩バターロールもめちゃくちゃ人気あるし」
「あれは師匠が改良したものですから。私ひとりのものではないです」
淡々と、そして真面目に話す。
「ダフネさん、いくつだっけ」
「先週、十五歳になりました」
「しっかりしてるね……僕らとは大違いだ」
「マリウス、その僕『ら』には、ひょっとしてあたしも含まれてる?」
そこで、僕はあるもののことを思い出した。
「そうだ、誕生日祝い――には、ちょっと遅いけど、いいものをあげよう」
「マリウス? あたしも含まれてる? ねえ」
魔冷庫から、昨晩作っておいたものを三つ取り出す。手のひらに収まる大きさの、コルク木の栓をした小さなガラス瓶だ。「あ、ジーンにもお土産で渡せばよかったな……」と少し後悔する。話に夢中で忘れてしまっていた。
瓶の中には、黄色いものが詰まっている。液体ではない。気泡はなく、滑らかな仕上がりで固まっている。
「これ。なにかわかる?」
「……いえ。見たことがありません。カスタードクリームのようですが、かなりしっかり固まっていますね」
「いま食べてみる?」
「ぜひ」
静かで、落ち着いているけれど、その瞳には好奇心が渦巻いている。新作のパンを多数作っている少女だ――こういう珍しいものには、きっと創作意欲が掻き立てられるだろう。スプーンと一緒に瓶をひとつ手渡してあげる。
「プリムも食べる?」
「うん。――って答えるの、わかってて三つ出したでしょ」
そうです。しかしながら、三つめは僕のぶんではない。
「ジェビィさんにお土産。持って行ってもらってもいいかな?」
「ありがとうございます。渡しておきます」
言って、ダフネはひとつをコートのポケットにしまい、もうひとつの蓋を抜いた。
「いただきます」
と、スプーンをその黄色いものに差し込む。ひとさじ掬えば、スプーンの上にふるりと緩く震えるものが載った。
「ゼリーでしょうか。あるいは、なにかの煮凝り?」
「どう思う?」
「まだわかりません」
ダフネはスプーンを口に含み、抜いた。しばらく静かにそれを味わい、ひとつ頷いた。
「甘い。そして滑らかです。クリームのようですが、固まってもいる。これは――卵ですね? それと牛乳と砂糖。……しかし、たまごは焼いても凍らせてもこんな風にはなりません」
舌もいいらしい。しっかりと言い当ててくる。将来有望な弟子だ。
「……これは、なんという料理なのですか?」
「プリン、だよ」
えへん、となぜかプリムが胸を張って答えた。
「あたしの名前に似てるおやつ。美味しいでしょ」
「ええ、とても。――どうやって作ったのです?」
「それはね――」
と、僕は素直に答えかけたけれど、ふと思い至った。
「――いますぐ答えた方がいい? それとも、日を改めようか?」
聞いてみると、ダフネは口角を上げてにやりと笑った。こういう顔もできるんだ、と少し驚く。
「では、明日教えてください。また来ますので」
「わかった。ジェビィさんによろしく」
パンのお代を手渡すと、彼女はまたカートを牽いて帰っていった。プリムが面白そうに笑った。
「今、答えを聞かないんだね」
「好奇心と向上心と真面目さ。なるほど、ジェビィさんが弟子に取るわけだ。ああいう子が弟子になると、どれだけ面白いか――」
プリムは口にスプーンをくわえ、空になった瓶を手でもてあそびつつ、じとーっとした目で僕をねめつける。相変わらず食べるのがはやい。
「それはそれとして――マリウス。また若い女の子に餌付けしたね」
「言い方」
「あたしがマリウスに初めて餌付けされたときもあのくらいの年齢だったなぁ」
「言い方……!」
「マリウスはあのくらいの年代の子が好み、と……」
「いや、だからそういうつもりじゃないし、だいたい僕が好きなのは――」
――僕が好きなのは。
目の前で言葉の続きを待つ女の子なのだ。
「……好きなのは?」
そして、言葉を待つプリムもわかっている。頬を赤くして、恥ずかし気に目を伏せつつ、しかし時折、不安そうにちらちらとこちらをうかがいつつ。
「――あ」
テックさんに言われたこと。好きです、とか。言ってないんじゃないかって。それだけじゃない。五年前、帝都を発つ直前。僕は――プリムに言おうとして。けれど、その続きは帰ってきてから言って、と。
そうだ。
この五年――彼女は、その言葉の続きを、この店でずっと待っていたんだ。なのに、帰ってきた僕は、彼女を待たせ続けた挙句、不安にさせるような言動ばかり。なにをやっているんだろう、僕は。ぜんぜん成長していないじゃないか。一歩踏み出すことの大事さを、すっかり忘れてしまっている。――でも、いま、ちゃんと思い出した。あとは踏み出す勇気だけ。
息を大きく吸って、ゆっくりと吐く。
「……マリウス?」
「プリム。僕は君のことを、一人の女性として愛し――「大変だ! 大変だぞ、カリムくん!」――大変なのはこっちなんですけど! なんですか、いったい!?」
どたどたと扉を開けて駆け込んできたのは、なんと驚いたことに老紳士のサニーさんだった。肩と頭が少し雨に濡れている。扉の向こうから、乗ってきたと思われる馬が所在なさげにこちらを見ていた。すまん、うちに馬小屋はないんだ。
「……サニーさん。どうかしたんですか?」
すっと、プリムが布を差し出しつつ、冷静に聞いた。なんだろう。僕はわりと気合を入れて挑んだ告白が邪魔されて、ちょっと混乱がひどいんだけれども、プリムは余裕しゃくしゃくな感じだったんだろうか。
「なにが大変なのか、聞かせてください。――思ったよりも大変じゃなかった場合、あたしは暴れます」
一周回ってるだけだった!
「あたしはいま冷静さを欠いています」
「深呼吸しようか。ね。大きく吸ってー、吐いて―、はい」
「……スゥー……ハァー……。よし、これでいつでも暴れられるよ、マリウス」
一周回って挙動が狂ったプリムにツッコミを入れたら、なんだか僕の気持ちが落ち着いてしまった。手渡された布で額の水滴を拭うサニーさんに、「それで――なにがあったんです?」と、再度問う。
「サニーさんらしくない、そんなに慌ててくるなんて」
「いや、失敬――だが、どうしても急ぐ必要があった。勧告よりも先に、キミに伝えなければならないと思って」
勧告……? とは、なんだろう。なにか、国が新しい政策の発布でもするんだろうか。
「先ほど、アントワーヌ家から情報が出た――いいかい、マリウス・カリム。落ち着いて聞くんだ」
サニーさんは今まで見たどの表情よりも険しい顔で、言った。
「キミは、このままだと結婚することになる」
……。
…………。
「あ、はい、ええと、照れちゃうな。――そのつもりです」
「え……!? マリウス、それってもしかして……!」
色めく僕たち。
「違う!」
鋭く制止するサニーさん。
苛立つように頭を振って、彼にしては本当に珍しいことだが、「ああ、くそ」と悪態までついた。
「いいか! アントワーヌ家が、隣国貴族との婚姻を画策している! シャルワ家のご令嬢、それも家督継承権第一位の長女だ! 王家とも血縁のある大貴族だぞ! 意味が分かるか?」
「……ジーンが女の子同士で結婚するってことですか?」
「馬鹿者! 貴族の結婚は血をつなぐためにやるんだ! 同性で子ができるか!」
馬鹿者とまで言われてしまった。
「アントワーヌ家は、シャルワ家に対して自家の長男を提示した。いいか、理解しろ。つまり――」
つまり、だ。
アントワーヌ家は、僕とジーンの二人しか子がおらず。そして、ジーンは僕の妹であるから、この場合の長男と言うのは。
「マリウス・カリム――いや、マリウス・アントワーヌ。キミが、シャルワ家のご令嬢と結婚する――ということだ」
その言葉を聞いてから、脳がうまく意味を読み込めない時間があった。え? 僕が――だれと、結婚するって? プリム以外のひとと? 会ったこともない貴族と? なんで?
「……ちょっと、待ってもらっていいですか?」
サニーさんに手のひらを立てて制止し、天井を見上げる。木製だ。光術符の照明が吊り下げられていて、夜でも明るい。そろそろ点ける時間だ。夜営業、メニューはどうしようか。昼と同じものに……そうだ、トッピングの目玉焼きを有料でつけてみようか。白銅貨一枚で、目玉焼きひとつ。利率的にも悪くないだろう。
ふとプリムを見ると、まじめな顔で「マリウス」と呟いた。
「夜は有料でチーズソース増量ってどうだろ」
「さすがだ、プリム」
「えへへ」
「二人そろって現実逃避をするんじゃない、馬鹿者……!」
二度目の馬鹿者が飛んできた。サニーさんは息を荒くしつつ、近くの椅子にどっかりと座った。
「……急いで、帝都を出たまえ。いや、帝都どころではないな。帝国を出るんだ。一度捕まれば、あとは向こうのいいようにされるだけ。私も協力しよう。二人で、どこか遠くに――」
はっ、とサニーさんが扉を見た。音がしたのだ。僕にも聞こえた。馬のいななき――それも、複数頭。車輪のひずむ音。馬車が、店の前に停まっている。老紳士は顔をゆがめた。
「馬鹿な、早すぎる!」
早すぎるのは話の展開だと思う。急にどうしてこうなるの。現実についていけず、ぽかんとしている僕らを放って、時間というやつは無情にも進んでいく。
扉を開けて入ってきたのは、白髪を生やしたアントワーヌ家の執事。――久々に見た。本当に、久々に。僕とジーンの世話をしてくれていたひとだ。ちらりとサニーさんを一瞥して、なにも言わずにこちらを見た。
「……お久しぶりですな、坊ちゃん」
「……うん。久しぶり、スラックマン」
「ジョンソン様がいるならば――話は、おおよそ聞いておりますな?」
執事スラックマンは懐から手紙を出した。アントワーヌ家の印章が捺された一枚の紙。
「受け取ってください、坊ちゃん」
「ええと、僕まだ現状をちゃんと理解できていないんだけど……」
どことなく視線をさまよわせると、サニーさんが首を横に振っているのが見えた。
「……受け取りたくないって言ったら?」
「受け取ってくれるまで、この爺、ここから一歩も動きません」
まっすぐにこちらを見る。冗談の気配はひとつもないし――この人は、やると言ったらやるタイプのジイさんだ。
「僕をとっ捕まえて、実家に連れて行ったりするのかと思ったけど」
「羽ばたく鷹は気高く強く、咥えたバラは気品を示し、囲う茨は規律と束縛。あなたに流れる血は、その誇りを確かに受け継いでいる。お逃げになることも、受け取らないことも、ありえませんな」
耳が痛い。僕は比較的逃げ腰の人間だと知っていて、この言い方を選んでいるな。
「……だけど、僕は勘当されているから、その家訓には縛られないよ」
「この紙を読んでいただければお分かりになりますが、勘当はすでに解除されております」
「……それでも、逃げるって言ったらどうする?」
スラックマンはやれやれと肩をすくめた。
「しかし、もしお逃げになるのであれば――こちらも、応えねばなりますまい」
ふと、執事が後ろを振り返った。背中と後頭部しか見えない姿勢は、そのまま、こちらの言い分には耳を貸さないという表明か。
「そういえば、老爺がおりましたな。パン屋の。たしか……ジェビィ・エルでしたか。新しい弟子もとったそうで、腕利きのパン屋が無事継承されるのであれば、これほど嬉しいこともありますまい。それから、野菜ギルドの――いまは野菜の卸しでしたな――トーアという男。もうすぐ、初めての子が生まれるのでしたかな。ああ、肉屋のテックも商売が順風満帆、酒屋のコロンは育ち盛りの子供たちに囲まれているそうで。いやあ、商人円街もどんどんと新しい風が吹いておりますなぁ」
――肝が冷えた。アントワーヌ家の情報網は広い。だけど、この言い方じゃ、まるで――。
「脅しじゃないか……!」
「まさか。ただ、近況を述べただけです。人聞きの悪いことを言いなさるな。ですが、」
執事は首だけ振り返って、こちらの目をじっと見た。その威圧感に、僕は思わず後ずさってしまう。
「坊ちゃん。私とて、心を捨てたわけではありませぬ。どうか、私に人聞きの悪いことをさせなさるな」
「……わかったよ。受け取ればいいんだろ、受け取れば。」
手紙を受け取る。そこに書かれているのは、勘当を解除する旨、そして婚姻を命じる旨、婿入りなので僕が隣国へ赴く旨――長ったらしい貴族の文法で壮大に脚色されてはいるけれど、つまりはその三つ。こちらが拒否することとか、一切考慮していない文面だ。拒否権はない――そういうことだろう。
「坊ちゃん、いきなりでは酷でしょうから、そうですな――挨拶も荷造りも、一ヶ月もあれば十分でしょう。一ヶ月後、使いを寄越しますので、準備をしておいてください。お迎えに上がります。お嬢さん、ジョンソン様。お騒がせしましたな」
そう言って、用は済んだとばかりに去ろうとするスラックマンを、
「……あの。ひとつ、聞いてもいいですか」
と、プリムが低い声を出して制止した。
「なんでしょうか。この老爺が答えられることならば、お答えしますが」
「あたしは……どうなりますか」
スラックマンはプリムを見て、首を傾げた。
「それは――あなたと坊ちゃん次第でしょう。貴族は、あまり公にすることでもありませんが、妾を持つ人もいる。お嬢さん、あなたが望めば、そういう立場に収まることもできましょう」
「……そう望まなかったらどうなるんです」
「もとに戻るだけでしょうな。つまりは、貴族と平民に。――そも、たとえ坊ちゃまが勘当されたままだとしても、婚姻は困難であったと思われますが。勘当したとはいえ、その血は貴族の血。平民と混ざるなど、到底許されることではない。貴族の血は貴族のもの――平民と貴族の結婚など、夢のまた夢ですな」
淡々と述べるスラックマン。プリムは黙って俯き、目を閉じた。僕はなにかを言おうとして、けれど、なにを言えばいいのかわからなくて、口をつぐんだ。――でも、五年前と違って、なにをすればいいのかはわかる。僕のプリムの隣に行って、その手を取り、握りしめた。
大丈夫。僕はここにいる。きみのとなりに。
サニーさんが手を上げた。
「――スラックマン。キミは今からアントワーヌ家に戻るのかね?」
「その予定ですが」
「私も同行させていただく。この件に関して、納得いく説明が頂きたい」
「失礼ながら申し上げますが、ジョンソン様は部外者であらせられましょう。なにを納得させろ、と?」
むぅ、とサニーさんが唸り、「しかしだな――」と続けようとしたけれど、僕が止めた。
「サニーさん、いいんです。それは――僕が、聞くべきことですから」
正直、いまの僕は頭がいっぱいいっぱいで、情報の奔流にどうにかなりそうだったし、自分がいまどういう状況なのかも、わからない。ならば、だからこそ。
「一週間後なんて待ってるつもりはないです。明日、そちらへ伺います。――僕が直接、母と……シルヴィア・アントワーヌ様と話します」
ぎゅっ、と。手が強く握られた。プリムも言っているのだ。あたしもここにいる、と。だったら、不安に思うことなんてなにもない。一緒にいるのだから。
スラックマンは「ほう」と感心したように頷いた。
「承りました。では明日、アポイントメントを取りつけておきましょう。奥様もすでに隠居の身。昼過ぎからは、時間も取れましょう。ただ――」
そこで、スラックマンは不思議なことを言った。
「――坊ちゃま。貴族も家族も一筋縄ではないのです。この言葉、ゆめゆめお忘れなさるな」
それは僕が生まれる前からアントワーヌ家を見守ってきた執事の忠告だった。
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