プロローグ 世界を救った賢者の憂鬱
魔王との戦争が終わったのは、陽暦八五二年のことだった。
人々は歓喜した。
長く続いた戦争が終わり、焼け落ちた街には少しずつ活気が戻り始めた。王都では勝利を祝う祭りが開かれ、魔王を討ち倒した勇者一行は、国中から英雄として称えられた。
しかし、その英雄たちの中で、ひとりだけ浮かない顔をしている男がいた。
王宮魔法研究所の奥。
大量の書物と魔法陣に囲まれた研究室で、男は机に突っ伏していた。
「……もう嫌じゃ」
男の名はケン。
王国最高の魔法使いにして、数々の魔法を生み出してきた大賢者である。
彼の研究によって戦争を有利に進められたことは、一度や二度ではない。勇者カミトたちが魔王軍の幹部を倒せたのも、ケンが開発した魔法道具や術式のおかげだった。
だが、本人に英雄願望など欠片もなかった。
ケンが望むものは、ただひとつ。
誰にも邪魔されず、好きなだけ研究をする時間である。
「ようやく戦争が終わったんじゃ。これからは研究に没頭できると思っておったのに……」
机の上には、未処理の書類が山のように積まれていた。
魔法研究の報告書。戦争で使った魔法道具の管理記録。各地の復興支援に関する資料。さらには、貴族たちから届いた魔法指導の依頼まである。
そのすべてに、ケンの名前が書かれていた。
「なぜじゃ。なぜ儂が、魔法と関係のない書類まで処理せねばならんのじゃ……」
ケンはため息をつき、書類の山を見つめた。
そのとき、研究室の扉が勢いよく開いた。
「ケン殿! ここにいたのか!」
現れたのは、勇者カミトだった。
剣を腰に下げた青年は、以前と変わらない明るい笑顔を浮かべている。
「カミトか。見てのとおり、儂は忙しいんじゃ。用があるなら、そこに置いていくがよい」
「いや、そういうわけにはいかないんだ。実は陛下から新しい任務が――」
「断る」
「まだ何も言っていないだろ!」
「任務という言葉が聞こえた時点で、答えは決まっておる」
カミトは困ったように頭をかいた。
「そんなことを言わずにさ。戦争が終わったばかりなんだ。ケン殿にしかできない仕事も多いんだよ」
「それが問題なんじゃ!」
ケンは勢いよく立ち上がった。
「何でもかんでも儂に押しつけおって! 魔法の研究なら喜んで引き受ける。じゃが、報告書の作成やら貴族の相談やら、そんなものまで儂の仕事にするでない!」
「それは……ごもっともです」
「分かったなら帰るがよい。儂はこれから研究を――」
その瞬間、研究室の扉が再び開いた。
今度は王宮の使者だった。
「ケン殿。陛下がお呼びです。至急、謁見の間までお越しください」
ケンの顔から表情が消えた。
「……何の用じゃ」
「詳しいことは、陛下から直接お話しになるとのことです」
「そうか……」
ケンはゆっくりと椅子に座り直した。
嫌な予感しかしなかった。
*
王宮の謁見の間。
玉座に座る国王は、ケンの姿を見るなり満足そうにうなずいた。
「来てくれたか、ケン。実は、お前に頼みたいことがある」
「陛下、申し訳ありませんが、現在進めている研究が佳境を迎えております。できれば、ほかの者にお任せいただけないでしょうか」
「そう言うと思っていた」
国王は苦笑した。
「だが、今回ばかりはそうもいかない。北方の古代遺跡で、強力な魔力反応が確認された。調査隊を派遣したいのだが、現地の結界が特殊でな。お前の力が必要なのだ」
ケンは目を閉じた。
古代遺跡。
特殊な結界。
聞くだけなら興味をそそられる話だった。
問題は、その後である。
「……調査には、どれほどの日数が必要でしょうか」
「そうだな。往復を含めて、ひと月ほどだろう」
「ひと月……」
ケンは心の中で計算した。
研究の遅れ。未処理の書類。帰還後に待っているであろう追加任務。
どう考えても、ひと月では済まない。
「陛下。今回の調査は、魔法研究所の別の研究員では難しいのでしょうか」
「残念だが、難しい。もし遺跡の魔力が暴走すれば、周辺の町にも被害が及ぶ可能性がある」
国王の表情は真剣だった。
ケンは小さく息を吐いた。
「……分かりました。引き受けます」
「助かる。お前なら、そう言ってくれると思っていた」
「ただし、帰還後は研究に専念させてください」
「もちろんだ」
国王は即答した。
その言葉を聞いて、ケンはほんの少しだけ安心した。
しかし、その安心は長く続かなかった。
「それと、調査の報告書も頼む。ついでに、各地の魔法設備の点検計画もまとめてほしい」
「……陛下?」
「お前ならできるだろう?」
ケンは無言で天井を見上げた。
――この国に、儂の休みは存在せぬのか。
*
その夜。
研究室に戻ったケンは、机に積まれた書類を見つめていた。
魔王との戦争は終わった。
世界は平和になった。
それなのに、ケンの生活は以前より忙しくなっていた。
「……もう限界じゃ」
彼は引き出しの奥から、一冊の古い魔法書を取り出した。
表紙には、誰にも読めない文字で題名が記されている。
それは、ケンが長い年月をかけて研究してきた、魂と時間に関する秘術の記録だった。
「まだ完成には遠い。じゃが……」
ケンは魔法書を開き、記された術式を指でなぞった。
「このままでは、儂の人生が仕事だけで終わってしまうわい」
窓の外では、王都の灯りが静かに揺れていた。
ケンはまだ知らなかった。
この夜の決意が、五百年後の世界を大きく変えることになると…
はじめまして!
一色 翡翠と申します。
私の初投稿作品をご覧いただきありがとうございます!




