物語の始まり
気がついた時には、もう遅かった。
真っ白な、体長一メートル程のイモムシのようなモンスターが、俺の首に牙を突き立てていた。
「ぐ……っ!?」
声にならなかった。
いや、声を出すための空気が、喉から逃げていく。
熱い。
首が熱い。
次の瞬間、噴き出した血が、俺の視界の端を赤く染めた。
巨大な魔獣を倒した直後だった。
雷の上級魔法を三発叩き込み、奴の巨体がようやく地面に崩れ落ちた、その瞬間。
勝った。
そう思った。
その油断が、命取りだったのだろう。
倒れた魔獣の影から這い出してきた白い幼虫のような何かが、俺の正面から飛びついてきた。
反応は、出来なかった。
剣を振る余力も、魔法を唱える余裕もなかった。
ただ、喉を食い破られ、血を撒き散らしながら、俺は膝をついた。
まずい。
これは、まずい。
俺はまだ死ねない。
俺には、レイシアがいる。
五つ年下の、まだ幼さの残る婚約者。
彼女との婚約に反対する連中を黙らせるために、俺はここまで来たのだ。
魔法学院の優等生。
イーブルナイツ伯爵家の次男。
兄が病で倒れた今、次期当主となるべき男。
そういう肩書きの全てを背負って、俺はこの魔獣討伐に挑んだ。
それなのに。
それなのに、こんな白いイモムシに――。
そこで、俺の意識はぷつりと途切れた。
はずだった。
「……え?」
気がつくと、俺は同じ場所に倒れていた。
空は青い。
雲が流れている。
風が、頬を撫でた。
しばらく、俺はそれをぼんやり眺めていた。
生きている。
まず、その事実が理解出来なかった。
俺は確かに首を食い破られたはずだ。
血が噴き出していた。
呼吸も出来なかった。
どう考えても、死んでいた。
なのに。
「……生きてる?」
声が出た。
喉に手を当てる。
傷はない。
痛みもない。
というか、身体のどこにも痛みがない。
上半身を起こして、俺は自分の身体を見下ろした。
素っ裸だった。
「……は?」
全裸である。
由緒正しきイーブルナイツ伯爵家の次期当主候補、アロー・イーブルナイツは、魔獣討伐の現場で見事に全裸になっていた。
威厳も何もあったものではない。
しかも、身体中が血と、何かぬめぬめした体液で濡れている。
とてもではないが、部下たちに見せられる姿ではなかった。
「いや、待て。落ち着け。まずは状況確認だ」
自分に言い聞かせるように呟き、俺は水魔法を発動させた。
球状に集めた水を頭上から落とし、全身の血と体液を洗い流す。
冷たい水を浴びたところで、ようやく頭が少しはっきりしてきた。
周囲には、ズタズタに引き裂かれた俺の装備が散らばっていた。
魔法学院の演習用ではない。
今回の討伐のため、実家から持ち出した実戦用の防具だ。
頑丈な魔獣革の胸当て。
魔法防御を施した外套。
父上から借り受けた腕甲。
それらが、見るも無惨に破れ、裂け、砕けていた。
「……弁償、どうしよう」
最初に出てきた感想がそれだったので、我ながら少し嫌になった。
もっと他に考える事があるだろう。
なぜ死ななかったのか。
あの白いイモムシは何だったのか。
俺の身体に何が起きたのか。
だが、現実逃避というものは、人間の心を守るために存在するのだと思う。
そうでなければ、全裸で立ち尽くす自分など直視出来ない。
幸い、剣だけは無事だった。
少し離れた場所に転がっていた愛剣を拾い上げ、刀身を確認する。
刃こぼれはあるが、折れてはいない。
「よし。お前は無事か」
剣に話しかける男は、少し危ない。
だが、全裸で剣に話しかける男は、かなり危ない。
俺は慌てて収納魔法を開き、中に入れていた予備の服を取り出した。
下着。
シャツ。
ズボン。
ブーツ。
予備の革鎧。
順番に身につけていく。
貴族の子弟としては、もう少し優雅に着替えたいところだが、森の中で全裸だった男に優雅さなど求めてはいけない。
身支度を終えた俺は、ようやく巨大な魔獣の死骸へと向き直った。
山のような巨体だった。
黒い毛皮に覆われた、熊とも狼ともつかぬ異形の魔獣。
討伐対象、グランベルク。
近隣の村をいくつも襲い、王都にも討伐依頼が出されていた危険個体である。
学院の学生が挑むには無謀だと何人にも言われた。
父上にも止められた。
だが、それを倒せば、俺の武勲としては十分すぎる。
レイシアとの婚約に横槍を入れている連中も、黙らざるを得ない。
そう考えて、俺は討伐隊を率いてここまで来た。
そして、実際に倒した。
倒したのだ。
途中で全裸になった事を除けば、見事な勝利である。
「……途中で全裸になった事を除けば、な」
自分で呟いて、少し悲しくなった。
俺は風魔法を発動させた。
鋭い風の刃が、魔獣の分厚い肉を切り裂いていく。
本来なら討伐隊全員で解体するべきなのだが、この巨体をそのまま運ぶ事は出来ない。
最低限、討伐証明となる魔石だけは確保しておく必要があった。
硬い。
普通の魔獣なら、胸部か腹部に魔石がある。
だが、グランベルクの肉体は常識外れに頑丈で、風刃を何度叩き込んでも、なかなか奥まで届かなかった。
「死んでからも面倒な奴だ」
愚痴りながらも、魔法を重ねる。
やがて、裂けた肉の奥に、鈍い紫色の光が見えた。
俺は慎重にそこを切り開き、両手で魔石を取り出す。
「……でかいな」
思わず声が漏れた。
両腕で抱えるほどの巨大な魔石だった。
これほど大きなものは、学院の資料でも見た事がない。
この魔石を王都に持ち帰れば、俺の功績を疑う者はいないだろう。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
勝った。
俺は本当に勝ったのだ。
これで、レイシアとの婚儀も決まる。
彼女を不安にさせずに済む。
五歳下の彼女は、まだ十三歳だ。
貴族同士の婚約としては珍しくない年齢差だが、それでも周囲は色々とうるさい。
イーブルナイツ家は古い家柄だが、近年は勢いを失っている。
一方、レイシアのミスルランド公爵家は王国有数の名門だ。
俺との婚約を快く思わない者は多い。
中には、あからさまに俺を見下す者もいた。
『魔法学院の優等生と言っても、所詮は机上の才でしょう』
『イーブルナイツ家の次男に、公爵令嬢は荷が重い』
『婚約を続けたいなら、それに相応しい働きを見せていただかねば』
笑顔で言われた言葉ほど、腹の立つものはない。
だから俺は、示した。
俺に力がある事を。
レイシアを迎えるに足る男である事を。
……たぶん。
全裸になった事は、誰にも言わなければ問題ない。
俺は魔石を収納魔法に入れ、野営場所へと戻った。
森を抜ける間、妙な感覚があった。
身体が軽い。
いや、軽すぎる。
足場の悪い森の中を歩いているのに、まるで平地を行くようだった。
何度か倒木をまたいだが、思った以上に足が上がり、危うく跳び越えすぎるところだった。
「……疲れて感覚がおかしくなっているのか?」
そう思う事にした。
死にかけた直後なのだ。
多少、感覚がおかしくても不思議ではない。
野営地に近づくと、見張りの兵が俺に気づいた。
「あ、アロー様!」
その声で、他の者たちも一斉に振り返る。
次の瞬間、歓声が上がった。
「やったのですね、アロー様!」
「おめでとうございます!」
「さすが、イーブルナイツ家の次期当主様だ!」
次期当主。
その言葉に、俺は少しだけ眉を動かした。
正式には、まだ決まっていない。
兄上が病に倒れ、回復の見込みが薄いとはいえ、父上が俺を後継者にすると明言したわけではない。
だが、今回の功績があれば、流れは変わる。
変えられる。
俺は収納魔法から巨大な魔石を取り出した。
地面に置いた瞬間、周囲の者たちがどよめく。
「こ、これは……!」
「こんな魔石、見た事がありません!」
「本当に、あのグランベルクを……!」
皆の顔に、驚きと尊敬が浮かんでいた。
その視線が、少し心地よかった。
魔法学院では、俺は優等生として扱われている。
だが、優等生というのは案外、羨望よりも反感を買う。
努力をしても、才能があるからだと言われる。
失敗すれば、優等生なのにと笑われる。
だから、こうして素直に称賛されるのは、くすぐったくもあり、悪くない気分だった。
「すぐに王都と実家へ先触れを出せ。グランベルク討伐成功。魔石を確保した、と」
「はっ!」
部下の一人が馬に飛び乗り、野営地を発った。
続けて、実家へ向かう者も出る。
俺はようやく腰を下ろした。
途端に、腹が鳴った。
かなり大きな音だった。
周囲が一瞬、静まり返る。
「……魔力を使いすぎたらしい」
俺が真顔で言うと、部下たちは慌てて頷いた。
「す、すぐに食事を用意します!」
「ああ。頼む」
用意された食事は、干し肉と豆のスープ、硬いパン、それに少しばかりのチーズだった。
普段なら、討伐遠征中の食事などこんなものだと割り切れる。
だが、その日は妙に物足りなかった。
一杯目を食べ終えても、腹が満たされない。
二杯目。
三杯目。
干し肉も追加で食べた。
パンも食べた。
チーズも食べた。
それでも、まだ腹の奥に空洞があるような気がした。
「アロー様……まだ召し上がりますか?」
「いや、もういい」
さすがに部下の分まで食い尽くすわけにはいかない。
俺は水を飲み、無理やり食事を終えた。
身体が疲れていたのだろう。
横になると、すぐに眠気が襲ってきた。
眠る直前、ふと首に手を当てた。
やはり傷はない。
滑らかな肌があるだけだ。
あの白いイモムシは何だったのか。
なぜ俺は助かったのか。
考えようとしたが、眠気の方が強かった。
まあ、いい。
生きている。
勝った。
それで今は十分だ。
翌朝、目覚めた時には、気分は晴れ晴れとしていた。
森の空気は澄み、朝日が木々の隙間から差し込んでいる。
部下たちはすでに出発の準備を整えていた。
俺も顔を洗い、身支度を整える。
何も問題はない。
少なくとも、その時の俺はそう思っていた。
「王都へ向かう」
俺が告げると、部下たちが力強く頷く。
グランベルクの魔石は収納魔法の中にある。
武勲は確かにこの手に掴んだ。
これで父上も認めるだろう。
ミスルランド公爵家も、レイシアとの婚儀を正式に進めるはずだ。
俺は馬にまたがり、王都へ続く道を見た。
胸が高鳴っていた。
だが、その高鳴りが、勝利の喜びだけではない事に、俺はまだ気づいていなかった。
首筋の奥で、何かが小さく脈打っている。
腹の底で、得体の知れない空腹が眠っている。
俺の身体に何が起きたのか。
あの白い幼虫が、何を残していったのか。
その答えを知るのは、もう少し先の話になる。
この時の俺はただ、晴れやかな気持ちで王都を目指していた。
婚約者のレイシアに、胸を張って会うために。
そして、自分がすでに人のままではなくなり始めている事など、少しも知らないままに。
読んでいただいて、ありがとうございます。
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