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第1話 糸のない男

 人には、糸がある。


 親子なら淡い金。友なら青。恋人なら赤――なんて、そんな単純な話じゃない。人と人との間に伸びるものはもっと雑多で、もっと身勝手だ。


 好意と嫉妬が同じ糸に絡みつくこともある。十年連れ添った夫婦の糸が、昨日会ったばかりの二人より細いこともある。


 そして、死にかけた人間の糸は白くなる。


 だから俺は、その男を見た瞬間に足を止めた。


 王都中央庁舎の大理石の階段。黒い外套。腰には長剣。周りを歩く役人たちが、無意識に道を空けている。


 背が高い。肩幅もある。顔は――腹が立つほど整っていた。冷たい灰色の目。黒髪は短く、飾り気がない。


 問題は、そこじゃない。


 糸がない。


 一本も。


「……は?」


 俺は声に出した。


 男が振り向いた。


 目が合う。


 その瞬間、胸の奥が焼けた。


「っ……」


 反射的に胸元を掴む。


 見えた。


 俺の胸から一本だけ、細い銀赤の糸が伸びている。


 まっすぐ、男へ。


 俺は二十四年間、他人の糸を見てきた。


 自分から伸びる糸だって当然見える。


 でも、こんな色は知らない。


 銀でも赤でもない。光の角度によって色を変える、血の底に月を沈めたような糸。


 しかも相手には、それ以外の糸が一本もない。


「おい」


 低い声がした。


 男が俺の前まで来ていた。


「今、何を見た」


「何も」


「嘘が下手だな」


「初対面の人に褒められるほどじゃないです」


「褒めてない」


 知ってる。


 俺は一歩下がった。


 糸も、ぴんと張ったまま一歩分伸びた。


 切れない。


 嫌な予感しかしない。


「ノア・リーヴェル」


 背後から上司の声が飛んだ。


「そこで何をしている。早く来い」


 助かった。


「はい、今行きます」


 男に軽く頭を下げ、横を抜ける。


 腕を掴まれた。


 反射で振り払おうとして、固まった。


 触れた場所から、糸が光った。


 男もわずかに眉を寄せた。


「……今のは何だ」


「静電気です」


「せいでんき?」


「北方の言葉です」


「お前、北方語を話せるのか」


「話せません」


「……」


「じゃ」


 腕を引く。


 離してくれない。


「名前」


「今、上司が呼びましたよね」


「聞き取れなかった」


「嘘が下手ですね」


 男の口元が、ごくわずかに動いた。


 笑ったのかと思ったが、たぶん気のせいだ。


「ノア・リーヴェルです」


「カイ・ヴァルクハイト」


 知っている。


 知らないほうがおかしい。


 王国最年少で近衛騎士団長になった男。北境戦争を二十七歳で終わらせた“黒剣”。国王の甥で、ヴァルクハイト公爵家当主。


 ついでに、人を睨むだけで三人くらい殺せそうな男。


「存じています」


「そうか」


「なので、離してください、公爵閣下」


 ようやく手が離れた。


 俺は今度こそ歩き出した。


 十歩。


 二十歩。


 角を曲がる直前、振り返る。


 カイはまだそこにいた。


 俺を見ている。


 いや。


 俺と彼の間に伸びる、見えるはずのない糸を見ているような目だった。


 その日の午後、俺の机に王命が届いた。


 差出人は王室警護局。


 内容は一行。


 ――命糸鑑定官ノア・リーヴェルを、カイ・ヴァルクハイト公爵専属の調査官として召集する。


「……最悪」


 隣の席のミラが菓子を食べながら覗き込んだ。


「何が?」


「人生」


「いつものことじゃん」


「今日は特に」


 紙の端で指を切った。


 小さな血の珠が浮く。


 同時に、胸から伸びる銀赤の糸が、遠く庁舎のどこかへ向かって強く光った。


 まるで、向こう側で誰かが引いたみたいに。


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