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東京・下町漂流記 2026——中国人留学生、孤独の共鳴  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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2/12

プーさんが来た日(回想編)

物流センターから帰り、仮設のプレハブ作業員寮の共用洗面所で、敖翔は顔を洗っていた。冷たい水が、一日の埃と汗とをわずかに洗い流す。彼は顔を上げ、割れた鏡に映る自分自身の顔──疲労で引きつり、無表情に固まった男の顔──を一瞥した。その時、鏡の端に、ぼんやりと映り込んだ黄色い物体が目に入った。

彼の背中にぶら下がった、擦り切れた帆布のリュックサック。そのサイドポケットのファスナーに、紐でしっかりと、しかしどこか間の抜けた感じで結び付けられた、小さなぬいぐるみ。黄色い熊。ディズニーの、あの「プーさん」だ。ただし、これは店で売られているような可愛らしいものとはかなり違っていた。黄色の毛並みは所々薄れ、茶色く汚れ、日に焼けて褪せている。片方のプラスチック製の目は、糸が切れてぶらりと垂れ下がり、もう片方もぐらりと不安定だ。全体的に、長い間、過酷な扱いを受けてきたことを物語っている。

彼は、顔を拭う手を止め、じっとそのプーさんを見つめた。水が、彼の顎から滴り、洗面台の汚れた陶器の上に、ぽた、ぽた、と落ちる音だけが響く。その小さな、みすぼらしい姿が、彼の記憶を、三年前のある雨の夜へと引きずり戻した。


あれは、日本に来てまだ一年も経っていない頃の、とある真冬の夜だった。寒さが骨まで浸透し、冷たい雨が細かい針のように降り注いでいた。敖翔は、建築現場での一日の日雇い労働を終え、寮へと戻る途中だった。重い足を引きずりながら、人気のない路地を歩く。街灯のオレンジ色の光が、濡れたアスファルトにぼんやりと広がり、所々に水たまりが鏡のように光っていた。彼の靴は既にびしょ濡れで、足元の冷たさは、全身の疲労と結びついて、底知れぬ倦怠感をもたらしていた。

道端の側溝のふち、雨で溢れんばかりの泥水に半分浸かっている、何か黄色いものが、ちらりと視界に入った。通り過ぎようとした彼の足が、自然に止まった。最初はゴミだと思った。ペットボトルか、ビニール袋か。だが、何かが引っかかった。形が…不自然だ。

彼は、ためらいがちに近づき、腰をかがめて覗き込んだ。泥と枯れ葉にまみれて、確かに、小さな熊の形をしたものが見える。片方の耳だけが泥の上にひょっこり出て、もう片方は泥の中に埋もれている。雨に叩かれ、汚水に浸され、見るも無残な姿だった。

通り過ぎればいい。そんなものにかまっている暇はない。明日も早朝から働かねばならない。そう頭で考えながらも、彼の体は動いた。彼は、濡れたズボンの裾をもう一方の手でたくし上げ、しゃがみ込み、冷たく汚れた水の中に手を突っ込んだ。指先が、柔らかく、びしょ濡れの布地に触れた。彼はそれを掴み、ゆっくりと引き上げた。

それは、確かにプーさんだった。とはいえ、ほとんど原型をとどめていないほどに汚れていた。黄色い体は泥で茶色に染まり、ふわふわだったはずの毛は雨と泥でびっしりと固まり、所々に枯れ葉や小さなゴミが張り付いていた。何より、片方の目の部分が、ぽっかりと空洞になっている。もう一方の、黒いプラスチックの目も、かすかに黄色い布から外れかかっていた。

彼は、そのみすぼらしい姿のぬいぐるみを手に持ち、立ち尽くした。雨が、彼の髪や肩を叩き、手の中のプーさんをさらに濡らす。通りを一台の車が、水しぶきをあげて走り去った。

なぜ拾うのか?自分でもわからなかった。ただ、その、片目を失い、泥まみれで道端に捨てられた小さな存在が、どこか、あまりにも…見捨てられているように見えた。それだけだ。

彼は、ため息をつくと、プーさんを、自分が持っていたビニール袋(弁当の空き容器を入れていた)に、そっとしまい込んだ。そして、再び歩き出した。手にした袋の重みは、ほんのわずかしか増えていないのに、なぜか、足取りが、先ほどよりもほんの少しだけ、確かなものに感じられた。


当時、彼が暮らしていたのは、今の寮よりもさらに粗末な、風の通るすきま風の入る木造の長屋の一室だった。六畳一間に、見知らぬ男たちが三人、雑魚寝している。自分のスペースと呼べるのは、布団一枚分だけだ。

仲間たちがうるさくトランプをしている隣室をよけ、彼は共有の流しに行った。古びた電球の光が、コンクリートの洗い場を鈍く照らす。彼は、拾ってきたプーさんをビニール袋から取り出し、水の下に置いた。

まずは、表面の大きな泥とゴミを、手でそっと払い落とした。そして、彼は、自分用の、毛先が擦り切れた歯ブラシを取り出した。少量の固形石鹸(寮で支給される、最も安価なもの)を水で少しぬらし、ブラシにつけた。

彼は、腰をかがめ、プーさんの体の、ほんの小さな一部分に、ブラシの先を当てた。そして、信じられないほどに優しく、慎重に、円を描くように動かし始めた。泥と水が混ざり合い、茶色いしずくとなって流れ落ちる。彼は、その部分の汚れが少し落ちたのを確認すると、きれいな水でそっと流した。そして、隣の部位に移動する。同じ動作を、飽きることなく、無限の忍耐力をもって繰り返した。

流しの上に置かれたプーさんは、小さく、無力だった。彼の、傷だらけの、ごつごつした巨大な手と、その手に握られた子供用のような歯ブラシが、それに触れる様は、不釣り合いですらあった。しかし、彼の動きには、一切の雑さがなかった。それは、まるで傷ついた小鳥の羽を整え、あるいは、貴重な機械部品の汚れを落としているかのようだった。彼の眉は、仕事中のそれとは異なり、深く結ばれてはいなかった。ただ、ひたすらに集中している。額に、ほんのりと汗の光るような、緊張した集中だった。

時間が過ぎる。流しの排水口から、泥水が流れ出ていく。やがて、黄色い布地が、少しずつ、その本来の色を現し始めた。茶色いシミはまだたくさん残っている。目は片方なく、もう片方も危うい。縫い目はほつれ、中綿が所々からはみ出している。それでも、確かに、これは「道端のゴミ」ではなく、「プーさんのぬいぐるみ」の形を取り戻しつつあった。

最後に、きれいな水をたっぷりとかけ、全体の石鹸を流し終えた。彼は、蛇口を止め、びしょ濡れのプーさんを両手でそっと包み込むようにして持ち上げた。水が、彼の手のひらから、ぼたぼたと落ちる。

彼は、自分のスペースに戻り、古いタオルでプーさんをそっと包み、水分を押し出すようにして吸い取らせた。完全に乾くには時間がかかる。彼は、ストーブのそば(ただし直接あたらないように)に、乾いた布の上にプーさんを寝かせた。

そして、しばらく、じっとそれを見下ろしていた。

ストーブの弱いオレンジ色の光が、まだ湿って色の濃いプーさんを照らす。片目を失い、体じゅうに古傷のようなシミを抱えたその姿は、どこか間が抜けていると同時に、どこか痛々しかった。

敖翔は、ゆっくりと、片膝をついた。そして、人差し指の腹を、そっと、プーさんの頭の、乾きかけた毛並みに触れた。ごつごつした、ひび割れた皮膚が、柔らかい、もさもさとした感触に触れる。彼は、そのまま、指先で、ほんの少し、毛並みを整えるような、撫でるようなしぐさをした。

その瞬間、彼の、いつも鉄仮面のように硬く、疲労と苦痛とで歪んだ顔に、ほんの一瞬、変化が現れた。口元が、微かに、ごくわずかに、上に向かって引きつった。目尻の、深い皺が、ほんの一線だけ、柔らかな弧を描いた。それは、笑顔と呼ぶにはあまりにもかすかで、短すぎる表情の変化だった。まるで、長年錆び付いていた機械の部品が、ほんの一瞬だけ、ぎいっと悲鳴を上げて動いたかのようだ。それは、無意識のうちに現れた、子どもが何かを愛おしげに眺める時のような、無邪気で、そしてどこか恥ずかしげな表情だった。

次の瞬間、彼は我に返ったように、ぱっとその表情を消した。周囲をきょろりと見回す。隣室のトランプの勝ち負けの声が聞こえるだけだ。彼は、自嘲するように、あるいは自分自身への警告のように、小さく舌打ちをした。ばかばかしい。こんなものを…。


翌朝、プーさんは完全に乾いていた。まだ湿っていた時よりは、ふっくらと、はっきりと熊の形を取り戻していた。ただ、片目の穴と、全身のシミ、ほつれた縫い目が、その受難の歴史を物語っていた。

敖翔は、自分のリュックサックを前に置いた。それは、何年も使い込んだ、軍綠色の帆布のリュックで、所々に補修の跡があり、色も褪せていた。彼は、工具箱から、丈夫な麻紐の切れ端を取り出した。そして、プーさんの首の後ろの、縫い目のしっかりした部分に、しっかりと、しかしきつく締め付けないように、紐を通し、結んだ。もう一方の端を、リュックサックのサイドポケットのファスナー金具に結び付けた。

彼はリュックを持ち上げ、少し離れてみた。ごつごつした労働者のリュックの横に、小さな、色あせたプーさんがぶら下がっている。それは、明らかに不釣り合いで、不似合いで、どこか滑稽な光景だった。

長屋の壁に掛かった、ひび割れた小さな鏡の前に立った。鏡に映るのは、無精ひげがぼうぼうと生え、目の下に深いくまがあり、風雪と労苦に刻まれた、四十に手の届かんとする男の顔だ。その男の肩から、色あせたリュックが下がり、その横には、片目でこっちを見ている、幼稚なテディベアが揺れている。

彼の表情は、一瞬、硬直した。恥ずかしさと、照れくささと、そして「こんなものをつけて外出するのは正気か?」という自問が、一気に渦巻いた。彼は、無意識に、リュックからプーさんを外そうと手を伸ばしかけた。

しかし、手が結び目に触れた時、彼は動作を止めた。

昨夜、ストーブの傍で、無意識に浮かべた、あの子どもじみた微笑みを、ふと思い出した。泥まみれで、片目を失い、道端に捨てられていたこの小さなものを、彼が拾い上げ、丁寧に洗い、ここまで連れてきた理由を、改めて考えようとした。

(小雅…)

心の中で、娘の名前がよぎった。遠い故郷にいる、あの愛しい娘。彼女がまだ二歳の頃、町の露店で見かけた、安物のクマのぬいぐるみを、泣きながら欲しがったことを。彼は、その日、日雇いの賃金が思わしくなく、どうしても買ってやれなかった。娘の失望した顔が、今でも焼き付いている。彼女は、十二支でいうと、寅年…虎ではない。彼女が好きだったのは、アニメで見る、のんびりとした、蜂蜜が大好きな、あのクマだった。

このみすぼらしいプーさんは、あの露店のクマではない。小雅に渡せるようなものでは決してない。しかし、彼は、これを洗い、乾かし、結びつける一連の行為の中に、何か、埋め合わせのような、つながりのような、愚かで直感的な感情を感じていた。それは、言葉にできない、父親としての無力感と、愛おしさと、後悔とが入り混じった、ごちゃまぜの感情だった。

彼は、深く、深く息を吸い込んだ。そして、ため息のように吐き出した。

手を結び目から離した。鏡の中の自分が、相変わらず、疲れ切って無愛想な男のままなのを確認した。ただ、リュックの横にぶら下がるプーさんが、彼の、何も語らない、何も表現しない頑なな側面に、一点の、小さな、そして完全に不合理な「何か」を加えているように思えた。それは、彼の内側に、まだ完全には消え去っていない、あるいは消えてはならない、柔らかく、子供じみた、そしてわずかに恥ずかしい「何か」の、外部への漏れ出しのように感じられた。

彼は、最後に鏡の中の自分──と、その横にぶら下がる小さな黄色い同行者──を一瞥し、背を向けた。リュックを背負う。プーさんが、彼の腰の辺りで、軽く揺れた。

その日から、この色あせた、片目のプーさんは、敖翔のリュックの、そして彼の人生の一部となった。どんなに汚れ、どんなに擦り切れようと、彼はそれを外そうとはしなかった。それは、単なる飾りではなかった。それは、彼がこの過酷で非情な異国の地で、必死に持ち続けようとしている、ある「人間らしさ」の、かすかで、滑稽で、しかし確かな証だった。冷たい現実に対する、静かで、頑固な、そして誰にも気付かれない抵抗の印だった。

洗面所で、冷たい水の感触に我に返った敖翔は、顔を拭うタオルをゆっくりと下ろした。鏡に映る自分の顔は、再び、あの無表情で疲労に満ちたものに戻っていた。しかし、リュックの横で、ぶらりと揺れるあの小さな黄色い存在は、三年前の雨の夜と同じように、汚れ、色あせ、片目を失いながらも、確かにそこにあった。

彼は、何も言わず、背中を向けて自分の部屋へと歩き出した。プーさんが、彼の歩みに合わせて、軽く、規則正しく揺れた。それは、この重苦しい寮の廊下で響く、彼の足音に混じる、かすかで、柔らかいリズムだった。

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