第3章:特撮という形式の中の巨大ロボット
―操縦型ロボットの興奮と現実感のはざまで―
1. 操縦型ロボットの系譜
レッドバロンという存在が、「乗り込んで操縦する巨大ロボット」という概念を確立させたことは、前章で述べた通りである。そして、その後に続いたのが、マッハバロンなどのロボット群である。
これらはすべて、人間が内部に乗り込み、直接操縦することを前提とした設計であり、もはや「巨大な道具」ではなく、「拡張された身体」として機能する存在だった。
操縦席からの視点、計器の動き、発進のプロセス、ロボットの中で繰り広げられる操作演出――これらすべてが「自分が操っている」感覚を増幅させた。そしてこの感覚こそが、我々が巨大ロボットに求めるリアルな快楽である。
2. 特撮という現実と幻想のメディア
だが、これらのシリーズにはもう一つの共通点がある。そう、すべてが特撮ドラマだった、ということだ。
つまり、巨大ロボットは「アニメ」ではなく、「実写」作品として描かれていたのだ。特撮には、実写だからこその臨場感があり、ロボットの出撃や合体、基地の演出などにおいて、スタッフの情熱と創意工夫がふんだんに注ぎ込まれていた。
とくに、出撃シーンや格納庫のギミックなどは、観ていてたまらなくワクワクする。これは男子小学生の心を撃ち抜く「儀式」であり、「憧れ」だった。
しかし、その一方で、特撮には避けがたい“ある種の視点”がある。
3. 特撮を見る視線
私は正直に申し上げたい。特撮は特撮として、ちゃんと楽しむのである。
つまり、「これは現実の戦いではない」「これは特撮である」というメタ視点を常に持ちつつ楽しむのである。ロボットが格好いいとか、基地が素晴らしいとか言いながらも、心のどこかでこう考えてしまうのだ。
「このスーツ、背中にジッパーあるよな……」
「仮面ライダーの目の下の黒いとこ、あそこが視界なのか」
「撮影どうやってるんだろう? このミニチュア、いい出来だな」
つまり私は、映像としての完成度や工夫、あるいは演出の面白さで特撮を楽しむタイプだった。ウルトラマンが格好いい、ではなく、「ウルトラマンという演出が面白い」のである。
そういう視点で見ていたから、小学生時代、クラスメートが「将来ウルトラマンになりたい!」などと言っているのを聞いて、最初は冗談かと思った。しかし、どうやら本気で信じていたらしく、私は内心、深く動揺したものである。
「え、君……ほんまに思ってるの……?」
我々はすでに特撮をフィクションの形式として理解する年齢になっていた。しかし、世の中には、それを「リアルな夢」として信じる子もいた。これは、特撮が持つリアルとファンタジーの境界の曖昧さゆえであろう。
4. 次章への予告
話がやや脱線してしまったが、ここまでで「操縦型巨大ロボット」の魅力と、その表現形式としての特撮というジャンルについて述べてきた。つまり、「操縦の快感」と「リアリティの限界」を特撮ロボットは共に抱えていたのである。
もうちょっとつづきます…。