セオドアの物語 2
パトリシアを守ると決めた私は、彼女に部屋を用意し、身の回りの世話をするメイドをつけた。
恐縮し申し訳ないと繰り返すパトリシアに、頼れと言ったのは私なのだからと言って安心させたが、妊娠期の女性の感情の揺れもあるのだろう、不安が隠せない様子だった。
身分差、親族の不始末、そういった事で愛する男との別れを決意をして、その身一つで逃げ出してきたのだ。それは勇気のいる決断だった。不安があるのは当然の事。そんな中で、私への誤解があって謝罪する為だとはいえ、一番に自分を頼ってくれてた事を嬉しく思った。
自分の為に生きなさいと彼女に言った。その彼女が行く宛を無くして、目の前で肩を震わせて、それでも必死で涙を堪えている。
私は思わず彼女を抱きしめた。泣くのを我慢しなくていいのだよと、悲しみや辛さを、ここでは我慢する必要はないのだよと、回した手で背中をとんとんと叩いた。まるで幼子をあやすかのように。
「わたしは、どうしたら良かったのでしょう。クリスティアン様は、身分に釣り合う高貴な方との縁談が進んでいて、わたしには居場所が無くなってしまいました。わたしはこの子を守る為にも逃げ出すしかなかったのです」
「君とお腹の子どもはわたしが守る。とにかく今は体を休めなさい。しっかり食べて良く寝て、元気な赤ん坊を産む事を考えなさい」
状況は違うが、愛する者を失った者同士なのだ。私はパトリシアを保護して、外の情報を耳に入れる事なく穏やかに過ごせるように心掛けた。
日に日に大きくなるお腹とパトリシアの体調を案じてオロオロしてしまう。お腹の子の父親でもないのにそんな事を思うのだからおかしなものだ。
誰かを愛し子を成す事など考えてもみなかったが、こんな私でも父親になれるかもしれない。こんな感情を与えてくれたパトリシアを愛しく感じるようになるのは必然だったのかもしれない。
*
パトリシアを匿い無事に出産するまでには、色々な事があった。
ケイン子爵家やデュバリ伯爵夫人のアンナからは、パトリシアを匿っているだろうと問い詰められた。
クリスティアン・ダンスタブルからの問い合わせもあったが、我が家だけではなくこの辺りの貴族全てに確認しているようなので、行方は知らないと返した。
ケイン子爵は屋敷に乗り込んで来ようとしたが、支援金の返済は不要、その代わりにパトリシアとは縁を切ったものと考えて欲しい告げると、あっさりと承諾した。また、パトリシアの居場所を公爵家に知らせないようにと、釘を刺すのも忘れなかった。
あの父親なら、再び娘を利用しないとも限らない。その上子どもまでいるとなると、養育費だの何だのと、図々しくも公爵家に乗り込んで、返り討ちに合いかねない。それを防ぐ意味もあった。
支援に関しては、管理人を入れて返済計画を立てていたのに、金に余裕ができると、馬鹿みたいに騙されて投資し失敗するケイン子爵にほとほと呆れて、これ以上の支援はしないと決めた。その代わりに、パトリシアの支度金として纏まった額を渡して納得させたのだった。
万が一、あの公爵子息に知らせでもしたらどうなるかお判りでしょうなと軽く脅すと、ケイン子爵と嫡男ヒューバートは怯えた様に頷いた。
私はパトリシアに、結婚という形を取れば君を守りやすくなると正直に告げたところ、彼女もそれを受け入れてくれた。
結果的に借金の見返りにその身を差し出させた形になってしまったが、ゆくゆくは彼女を解放するつもりだった。彼女の再婚に差し支えるなら、生まれた子を自分の手元に置いて、我が家の跡取りにすれば良いと考えていた。その考えは早々に捨て去る事となる。
乳飲子をその腕に抱くパトリシアの、聖母のような慈愛に満ちた眼差しは、私の心を揺さぶり落ち着かなくしただけではなく、豊かにした。
初めはまだ、愛情というよりは憐憫と言った心持ちだったと思う。あの公爵家によって人生を狂わされた同志、或いは彼女に対する庇護の感情とでも言うのだろうか。私は保護者のような心持ちでいたつもりだった。
いや、正直になろう。私は既にパトリシアに愛情を感じ始めていた。悲しみにくれ窶れた彼女を、私が幸せにしてやりたいと思った。
それは、過去に愛した人を失ってから忘れていた、自分の中に芽生えた感情だった。
恋人を不幸な出来事で亡くしてから、彼女以上に愛せる人が現れるとは思ってもみなかった。そして生まれた子は、ダンスタブルの血が流れている事など全く関係なく、私の天使となった。
愛がこれほどまでに私の人生を彩ってくれるとは。
私は何度でも神に感謝しよう。パトリシアとリリスを私に与えてくださった事を。
パトリシアは娘を出産した。金髪に緑の瞳をして、顔立ちは母親に似ているし、あの男に似ている気もする。当然だが私に似ているところは一つもない。それでも腕の中の小さな命の温もりは、私に大きな喜びを与えてくれた。
この子を我が子として愛し育てよう、そしてパトリシアの事も必ず幸せにしようと、心に誓った。
私達は娘に、リリスという名前をつけ、正式に婚姻の届出を出した。
子が生まれ婚姻したとなれば、さすがの公爵家も手出しは出来ないだろう。
あとは、パトリシアの従姉妹アンナへの対応だ。
幸い、ジョルジュ・デュバリ伯爵とは旧知の仲である事から、妻を押さえておくようにと念を押した。
*
リリスが生まれてのち、私の生活は一変した。子どもというのがこれ程可愛いものだとは思ってもおらず、また自分が子煩悩である事を知って少なからず動揺した。とにかくリリスが可愛いらしく、まるで天使のごとくマイヤー家に幸福を運んで来てくれた。
そしてその幸福を与えてくれたパトリシアが愛しくてたまらず、私は彼女へ愛情を正直に伝えようとした。
「君と初めて会った時は、親の為に不幸になる事はない、幸せになる権利があると、デカい口を叩いてしまったが……パトリシアは今、幸せだろうか?」
「こんなわたしを妻にしてくださったセオドア様には感謝しかありません。幸せですよ」
パトリシアははにかみながら答えるのだが、私が無理やり言わせているような気がして、それ以上は言えなかった。15も年上の男と仕方なく結婚したのかもしれないのに、愛しているなどと言って困らせてはいけない。もしや未だに、公爵子息を忘れられず慕っているのでは?と考えると、私からの愛情は押し付けにならないだろうかと悩んだ。
それゆえ夫婦となったものの、パトリシアに触れるのは抱擁と軽い口付けだけで、それ以上求める事はしなかった。
*
交流を絶ったケイン子爵家は、その後大きな損失を出していた。
パトリシアの弟の代になって、王都で覚えた女遊びやギャンブルに興じたヒューバートは、瞬く間にケイン家を没落させたのだ。姉に会わせてくれ、なんとか援助してくれと門前で騒ぐヒューバートを警備隊に引き渡した時、パトリシアは呆れたように呟いていた。
「身の丈に合わない事はするべきじゃないと、気が付かなかったのね」
それはかつて、パトリシアが母から言われた言葉であるらしい。彼女の母親とはリリス誕生の際に、密かに娘や孫と引き合わせたのだが、夫や息子の度重なるやらかしに心身共に弱っていたらしく、それが最後の機会となった。
絵に描いたような没落。それがケイン子爵家の末路だった。各所から借りた金の返済のため領地を売却し、爵位も返上して、彼らは行方知れずになった。
私はパトリシアが悲しむかもしれないとその事実をなかなか伝えられずにいたが、あのアンナ・デュバリがまたやってくれた。
そもそも、私がケイン子爵に返済を迫り、期限が守れないならパトリシアを差し出せと無茶を言ったという、アンナの書いた偽りの手紙のせいで今がある。
結果的に、私自身としてはパトリシアをダンスタブルから救い出したと思っているが、アンナにはそんな思惑はない。自分より立場が良くなる事を妬んでの行動なのだ。
アンナという女性は、自分が一番でいなければ気が済まない性質のようで、過去に私がアンナからの婚約の申し込みを断った事を根に持っていたらしい。
事あるごとにパトリシアに悪意を向けていたようだが、温厚なパトリシアは波風立たずに受け流していたと言っていた。
ジョルジュによって外出を制限されていたアンナだったが、ある時、パトリシアに合わせろと押しかけてきた。それも自分の娘を連れて来たものだから、無碍に追い返す事も出来なかった。
「だって、この子達、再従姉妹になるのですもの、交流がある方が良いに決まってるわ」
アンナの考える事はさっぱりわからないが、彼女が目をつけたのは、パトリシアやリリスではなく、私だという事に気がついた時には、既にアンナの策略が巡らされていた。
アンナは私の寝室に忍び込み、既成事実を作ろうとしていたのだ。
「セオドア様とパトリシアは真の夫婦ではありませんわよね。夫婦の寝室を使っていないのでしょう?わたくしなら、セオドア様を労って差し上げられますのに」
ベッドに横たわるアンナを、私は憎しみを込めた目で睨みつけた。彼女が何をしたいのかさっぱり理解できなかった。
その後部屋からアンナを追い出して、翌朝に娘とともにデュバリ伯爵家へと追い返した。私はジョルジュの気持ちを考え、この出来事は心に秘める事としたが、聡いパトリシアには勘づかれていた。
*
パトリシアは泣いていた。
「わたしが汚れた女だから、セオドア様は……」
「何を言っているんだ、パトリシア。私は君を愛している」
「ですが夫婦になってリリスも生まれ、わたしの体調はもう何ともないのです。それなのにセオドア様は夫婦の寝室を使おうとなさらないわ。
やはり、わたしは……他の男の子を産んだ女だから相応しくないのでしょうか」
「違う!一体誰がそんな事を言ったのだ?私はいつだってパトリシアを自分のものにしたいんだ。だけど君は、生きるために仕方なく私と結婚したのだろう?
まだ気持ちはあの公爵子息にあるのではないかと不安で堪らなかったのだ。
口付けを受け入れてくれても、それ以上を求めて拒絶されるのが怖かった。愛する人に受け入れられなければと怖かったんだ……」
「セオドア様。お慕い申しております。わたしは貴方の妻なのです。どうかわたしを愛してください」
結果的に、アンナの愚行が私達夫婦の仲を深めるきっかけとなった。
お読みいただきありがとうございます。
再びのアンナ登場です。やらかしました。
セオドアは意外とおしゃべりです。