パトリシアの物語 3
ちょっと長いです。
王都から少し離れた静かな郊外に建つ屋敷、そこがわたしの新しい住まいだ。
あのパーティの後、なし崩しのようにわたしはクリスティアン様と共に移動をする事になった。喜ぶ父と戸惑う母、そして何故かセオドア様までもが居並ぶ我が家の狭い応接室で、クリスティアン様は高らかに宣言した。
「私は必ずやパトリシア嬢を幸せにいたします」
「それは次期公爵夫人として迎えていただけるという事で?」
「勿論そのつもりです」
クリスティアン様は、その形の良い眉を少し顰めた。父の確認が気に障ったのかもしれない。
「失礼、ダンスタブル公爵子息殿、卿には隣国との縁談が持ち上がっていると、末端貴族の私でも存じ上げておりますが、はて、その場合パトリシア嬢の立場はどのようなものになりますかな?彼の国に連れて行くわけにも参りますまい」
それはいきなりの問いかけだった。セオドア様は穏やかな口調だったけれど、その視線はなかなか厳しいものだ。
「……マイヤー男爵。不躾な発言で答える必要を感じませんが、爵位を持つ年長者として私より立場が上の貴方に指摘されると、真摯にお答えせねばならないでしょうね。
その話は無くなります。彼の国にも釣り合う年齢の高位貴族子息がおられる。何も他国の人間を入れる必要はないのです。彼の国側で調整している事でしょう。ご心配痛みいりますが、私にパトリシア嬢を任せてはいただけませんか?」
父は慌ててセオドア様に出て行ってくれるようにと促した。父にすればせっかくの玉の輿を邪魔されたくないのだろう。
たまたま我が家に訪れていたセオドア様は、きっと保護者のような気持ちでわたしの事を案じてくれているのだと思うと、ありがたくて涙が出そうになる。
わたしはただの恋する愚かな娘で、憧れの貴公子から望まれて愛されているという優越感とか虚栄心とか、そういったもので目が眩んでいた。
それでも動き出した歯車を止める事は出来なくて、クリスティアン様に連れられて、ダンスタブル家の持つ郊外の屋敷へと馬車はひた走り、わたしはケイン子爵家を出て行った。
*
こんなに幸せで良いのかと、パトリシアは思っていた。この屋敷に来て半年、世の女性を虜にする貴公子からの愛情を一身に受けて、お腹にはその愛する人の子どもがいる。
身の回りの世話をしてくれるメイドも調理人も、とても親身だし、クリスティアンは花束や装飾品といったプレゼントと共に、週末には必ず戻ってくる。
そんな時に、アンナからの手紙を手渡してきたのは、自分と歳の頃の変わらない若いメイドだった。パトリシアは彼女を見たことがなかったが、いつも世話をしてくれるメイドのケティが、里帰りをしている間の手伝いだと言った。なんでも家令の親戚の娘らしい。
そのメイドからこっそりと渡された白い封筒の中身は、なんと、従姉妹のアンナ・デュバリからの手紙だった。アンナは既にジョルジュと結婚して、デュバリ伯爵夫人となっていた。
クリスティアンは、パトリシアがケイン子爵家やアンナとの交流をさせないように気を配っていた。そもそも居場所も知らない筈のアンナからの手紙を、臨時のメイドが渡した時に警戒するべきだった。
その手紙の内容はパトリシアの運命を左右するものだった。
あのマイヤー男爵が、実家へ支援金の打ち切りと返済を催促している?まさか、嘘でしょう?
セオドア様は、変わらぬ支援を約束してくださったし、滞りなく領地が運営できるように人を派遣してくれた筈。返済計画も立てて少しずつ返済しているものだとばかりに思っていた。
パトリシアは震える手で手紙を読み進めた。
『ヒューバートが王都で騙されて借金を背負わされたみたい。ケイン子爵は畏れ多くも、ダンスタブル公爵家へ支援して貰えないかと手紙を出したらしいの。それを断られて、次はマイヤー男爵に更なる支援を申し込んだそうよ。
だけどマイヤー男爵にも断られて、しかも娘をくれるという約束も守らない家は信用ならない、すぐに返済されたしと使いを寄越したらしいわ。
パトリシアが居なくなってしまった事で、マイヤー男爵はお怒りだし、ケイン子爵家は大変な事になっているのよ』
そんなわけがある筈がない。セオドア様は、困ったら自分を頼れと仰ってくれるくらい優しい方だし、そもそも仮婚約だからと逃げ道を作ってくれたのだ。
『それに貴女はうまくやってるつもりでも、所詮愛人じゃないの?
愛人の家に、公爵様が援助してくれると思ってるの?愛人なんて若いうちはいいけれど、歳をとれば捨てられて路頭に迷うだけよ。
貴女がすべき事は、マイヤー男爵に頭を下げて怒りを鎮めていただいて、その身を差し出す事くらいじゃないかしら。
ああ、男爵は随分と理解のあるお方だから、貴女が純潔でなくても気にしないと思うわ。頭を下げてお願いしたら、妻は無理でも使用人くらいにはしてくださるわよ』
アンナの手紙を握りしめて真っ青になったパトリシアに、メイドが声を掛けた。
「お嬢様、どうされました?お加減がよろしくないのですか?」
パトリシアは緩く首を振り、大丈夫だと答えた。
ここでは真綿に包まれるように大切に扱われているパトリシアだが、自分の置かれている状況を理解していないわけではない。
ダンスタブル公爵からは認められておらず、こうやって世間から隔離されひっそりと暮らしている。クリスティアンの事は心から愛しているが、自分のせいで彼が不幸になってはいないだろうかと、不安になる時だってあるのだ。
それに加えて実家の問題だ。ヒューバートは王都で享楽的な生活に慣れて騙された。今回は何とかなっても、領地の厳しい節約生活に拒絶反応を示すかもしれないそして困ればその度に、資産家のマイヤー男爵を頼るつもりなのだろう。
『たとえ今が幸せでも、愛人のままで一生過ごせるわけじゃないわよ。それにケイン子爵家の不幸の原因が自分だなんて、想像しただけで辛いでしょう?』
アンナの言葉が胸に刺さった。
「帰らなければ……」
パトリシアの呟きに、メイドが反応した。
「お嬢様がお望みなら、誰にも知られずにここから出して差し上げますよ」
メイドの言葉に何かを感じ取ったパトリシアは思わずお腹を押さえた。メイドに対して恐怖を覚えたのだ。
「わたしはお嬢様の味方です。このままここに囲われて、籠の鳥のように暮らす事が恐ろしくはありませんか?
お嬢様の産むお子様は庶子に過ぎません。公爵様が庶子をお認めになるとは思えません。
もちろん代替わりした時には、クリスティアン様はお嬢様を正式な妻にお迎えになる可能性はございますが、その頃には公爵家の直系の立場から、その家柄に相応しいご令嬢を妻に迎えられておられますでしょう?
第二夫人と言えば聞こえは良いですが、愛人となんら変わらぬ立場なのですよ。
隣国の王配をお断りになった際に、公爵様は二度と我儘は許さないと仰られたそうですしね」
何故、メイドの彼女が公爵家の内情を知っているのか?思わず後退りしてメイドから離れる際も、パトリシアはお腹を守るように身を屈めた。
「貴女は誰なの?公爵閣下の差金で、わたしとお腹の子を害しに来たの?」
「とんでもございません。わたしはお嬢様を助けに来たのです。
先ほどのお手紙、ご実家が大変な事になっておられる…ようですね。お嬢様の弟のヒューバート様が、タチの悪い輩に騙されたそうで」
「貴女、何故それを知っているの?」
「王都の学生の弟さんが騙されるって不思議に思いませんか?」
「…まさか、ヒューバートは嵌められたの?そしてそれを指図したのがダンスタブル公爵……」
「頭の回転が早い方で助かります。このままここで過ごしていると、公爵閣下はさらに過激な方法で、お嬢様が自ら身を引くように追い込む事でしょう。
クリスティアン様が実権を握るまで、どこかで身を隠しておられた方が賢明だと思うのです。
わたしはその為の手助けが出来ます。お嬢様をこの屋敷から出して差し上げます」
「でも、お腹の子を楽しみにしているクリスティアン様に、何も告げずに去る事はできないわ」
戸惑いを見せるパトリシアを急かすようにメイドは言う。
「決断されるなら今しかございません。馬車を手配して、わたしが貴女様の行きたい場所に送り届けます」
「貴女を信用できる証拠はないわ。わたしはどこかに打ち捨てられるか、或いはお腹の子共々殺されるかもしれない。悪いけど、迂闊に信用は出来ないわ」
「そう仰ると思いました」
そう言いながら、薄く開いていたドアから入ってくる人物を見たパトリシアの絶望は、より一層深くなった。
「そう、これはこの屋敷の総意なのですね」
音もなく入っていたのは、クリスティアンが幼い頃から仕えていたという家令だ。
「いえ、私の独断でございます。私共はクリスティアン様の幸福を願っております。それゆえクリスティアン様の愛するお方を不幸にしたくはありません。
しかしながら、公爵閣下はそれすらお許しにならない。
このままだと、クリスティアン様が大事に思うパトリシア様の身も危ないかもしれません。それ故の苦渋の選択でございます」
「アンナの手紙の内容は本当なのですか?」
「残念ながらアンナ・デュバリ伯爵夫人の手紙は、一部真実でございます。弟君がある男爵に借金を申し込み断られた、これは事実でございますが、その男爵がパトリシア様を妻として望んでいるかどうかは、私にはわかりかねます」
「ヒューバートを騙したのは公爵閣下の指図なのですか?」
「閣下はパトリシア様がご自分の意思でここから去る事を望んでおられます。デュバリ夫人の手紙を利用したのは、パトリシア様のお気持ちに変化を齎す内容が書かれてございましたので」
家令の冷静な言葉を聞いて、パトリシアは決断を迫られていた。
「いずれにしても、わたくしがこの屋敷を出る事で、家族もクリスティアン様も守る事が出来る、というわけですのね?
お腹の子はどうなります?この子は望まれない子だとしても、命まで取り上げようとなさるのですか?」
パトリシアはまだ薄いお腹を手で覆って守っていた。その姿には母の決意が滲み出ている。
「生まれたお子様を、ダンスタブル家と関わらせないのなら、その安全は保証致しましょう。私とてパトリシア様と産まれるお子様の不幸など、決して望んではおりません。
ご実家の事はお任せください。こちらで対処致します」
「信用しても良いのですね?」
「……お坊ちゃんの血を分けたお子様を、どうして害する事など出来ましょうか」
*
その日、家紋の入らない質素な馬車が、郊外の別邸からひっそりと出て行った。
パトリシアの世話をしていたメイドのケティが戻ってくるのは早くて3日後。クリスティアンが仕事から解放されるのもその頃だろう。
家令の男は若いメイドにご苦労だったと告げた。
「これで本当によろしかったのですか?」
「仕方あるまい。隣国の王女殿下は未だクリスティアン様を諦めておらず、公爵閣下は何とか穏便に済まそうと動いておられるが、王女殿下が悋気を起こせばどうなることか。いくらこの別邸で守っていても限界がある。
それならば私の手で、鳥籠のようなこの屋敷から解放してさしあげようと思うのだ」
お読みいただきありがとうございます。
文章力がなくてわかりにくいかもしれないので補足します。
ダンスタブル公爵(父)が、パトリシアの弟を騙し、ケイン子爵家をさらなる困窮に追い込んだ。
結果的にパトリシアが自主的に屋敷から去るように仕向けた。
アンナの手紙はダンスタブル公爵家へ届いたものを利用。
パトリシアの味方のケティが留守を狙った。
そしてメイドが馬車を駆ってパトリシアを連れ出しました。
メイドは公爵家に仕える影だったりします。