運転(8)/エピローグ
~運転(8)~
2月。夜の2時。この時間はかなり冷えます。もう少しすると放射冷却でより一層冷えてきます。
先ほどのお客様をお届けして、もうそろそろこんな時間だから終わりにしようと思っていましたら目の前に白いワンピース一枚の女性がこちらを見ています。
黒く長いふわっとした髪をされています。一瞬私は季節外れの幽霊でも見たのかと思いました。
しかも手招きしています。私は恐る恐る近寄り扉を開けました。女性は乗り込み座ってしばらく黙っていました。仕方がありません。私から切り出しました。
「お客様、どちらまでいきましょうか?」
そう言うと女性はこう言ってきました。
「海まで。お願いします」
この時私にはもうこの女性が幽霊だと思わなくなっていました。けれど、かわりに違う恐怖を持ちました。
入水自殺をするのではないのかと。
「海と言われましてもどこでしょうか?お台場からでも海は見えますが」
私は少しだけ声が上ずっていることを感じました。女性がか細くこう言って来ました。
「逗子までお願いします」
ここから逗子は結構あります。悩んでいるとこう言われました。
「大丈夫です。お金はあります」
確かに手に財布を持たれています。財布しか持っていない女性。とりあえず、お乗せしている以上目的地に向かわないといけません。
その間に私はこの女性が入水自殺のために海に向かっていないと確信を得ないといけません。そうでなければ一生後悔するでしょう。
だが、彼女はそのまま目をつむりました。私が車内の温度について聞いても何の返事もありません。
こうなるとただ祈るだけです。
だが、高速に乗るあたりで状況がかわりました。女性がおもむろに起き、携帯で連絡をしたのです。
「もしもし、私です。考え直して。もし、私が大事なら私と出会ったあの場所に来て。私が大事じゃなかったらこのまま放置して。その場合私はもうあなたと会うつもりはないから」
そう言って女性はまた目を閉じられました。
私は祈っていました。電話の相手がこれから向かう先に来てくれることを。
そこから私はずっと独り言が癖なのですみませんと謝ってから色んな話しをその女性にしました。
女性は聞いているのか、聞いていないのかわかりませんでした。ただ、私にできることはそれくらいしかないのだと思いました。
もちろん、車を走らせているわけです。高速を降りてした道を走ってしまえば海が見えるところまで来てしまいます。
しかも2月。3時を少し回ったあたりです。私はお客様に声をかけました。
「先ほど逗子インターもおり、もうすぐ海が見えてきます。どちらまで行きましょうか?」
私はそう言いました。女性がもう少し、右、まっすぐという声を聞きながら目的地につきました。
値段をつたえ、お金をいただく。
扉を開けた時にひんやり冷たい空気が入ってきました。
「どうされますか?この車内で待つのも一つかもしれません。待ち合わせをされているのでしょう」
私はそう言いました。でも女性は首を横に振ります。
女性はそのまま海に入るのではと思ってしまうくらいです。仕方がないので私も車を降りました。
私はまだ目の前の女性よりは服を着ている方です。スーツですし、セータも着こんでいます。
確かトランクにジャンパーがあったはず。私は取り出しました。
「よければこれを。後私はしばらくここにいますから。もし帰るとなったとしてもここではタクシーは捕まりませんよ」
私はそう言った。近くで監視しているからそのまま自殺をしないでほしい。そう伝えたかったですが、流石に相手を刺激するわけにはいきません。
女性は頷きしばらくその場で待っていました。海を眺めて。
30分ほどするとすごい勢いで車がやってきました。この辺りの不良なのかと思って見ていましたら、車から男性が降りてきました。
その男性を見て海を見ていた女性が走り出し抱きつきました。
この男性を待っていたというわけなのですね。
流石にこれからジャンパーを取りに行くのは無粋です。私はそのまま車を走らせました。
~エピローグ~
私は車を転がすことしか能のない人間です。自分がタクシーの運転手になろうと思ったのは一つの事がキッカケでした。
自分で自分を特別な人間だと思うことは時にはありました。けれど、壁にぶち当たれば自分が特別でないことはわかります。普通ならば壁にぶち当たった時に気が付くものです。
ですが、当時の私は気が付かないフリをしていました。それは一つの呪縛があったからです。
人に寄ればそれは名前が呪縛になる人もいるかもしれません。当時の私は何気ない一言がきっかけだったのかもしれません。
「でも、そういう何かやろうとしている人って嫌いじゃないです」
そう。彼女のセリフが私を変えたのです。何かをやろうとしている人でないといけないと。
でも、そんなこと彼女は望んでいなかった。私はそのことを知り茫然としました。その後彼女からの連絡が入り無我夢中で追いかけました。
その時ほど車を早く走らせたことはなかったと思います。
彼女を抱きしめて、彼女が来ているジャンパーを見ました。そこには○○交通と書かれていました。
帰りの車の中で彼女がその運転手から聞いた話しを聞きました。
ものすごく楽しそうに話す彼女を見て私も目指そうと思ったのです。
そう、乗せたお客様を感動させられる運転手を。
お客様。そろそろ言われていました目的地です。
どうも私のくだらない話しを聞いてくださってありがとうございました。
いえいえ、私にできることはお客様を目的地にお届けすること。その際にできるだけ不快な思いをさせないことだけです。
今では私はあの時の運転手と同じタクシー会社で勤めています。もう何年になりますかな。
古い話しです。忘れてしまいました。
「では、お忘れ物がないかお確かめのゆえ、ゆっくりお降りくださいませ」