00 奄美剣星 著 『けだもの男爵の結婚ばなし』
世間というものは実に退屈でね。誰も彼もが〝家柄〟だの〝良妻賢母〟だのという完璧な仮面を被り、互いのステータスを品定めし合って生きている。僕の親友である神宮寺蓮男爵もまた、そのくだらない世界の住人……いや、頂点に君臨する華麗なプレイボーイ、のはずだった。奴に言わせれば、
「ダンスホールの美しいドレスのご婦人方の耳元で、甘い詩を囁けばすべて、僕の籠の鳥になる」
のだそうだ。
「君、いつか女に刺されるぜ」
反吐が出るほどに傲慢で、そして無敵のアラサー男だった。
あの日、僕が退屈しのぎに同行した、名門お嬢様学校の文化祭。変装用の安っぽい付け髭をいじる僕の隣で、蓮の運命は音を立てて狂ったのさ。
◇
大正から昭和に変わる年、爽涼たる秋。東京の空はどこか薄気味悪いほどに高く、澄み渡っていた。
十月も末になれば、神田神社の境内に残る銀杏もわずかに黄を帯び始める。震災の傷跡を強引に覆い隠すように、帝都は目まぐるしい復興の最中にあった。
「どうした、愁月。そんな渋い顔をして。せっかくの秋晴れだ、もう少しデカダンな笑みでも浮かべたらどうだい」
神宮寺蓮は、自ら握る木製ステアリングの奥で、愛用の英国製タバコ〝スリー・キャッスルズ〟に火をつけた。
彼の姿は、まさにこの頽廃的な時代の歪んだ美の結晶だった。すらっと細く、無駄のないしなやかな肢体は、仕立ての良い特注の三つ揃いのスーツにしっくりと馴染んでいる。当時最先端のモボらしく、整髪料できっちりと撫で付けられた髪。膝の上には極上のパナマ帽と、贅沢な象牙の握りがついた護身用のステッキが置かれていた。足元を見れば、銀座の仕立屋で誂えた、誰の目にもそれと分かるブランド物の革靴が鈍い光を放っている。車内に漂うのは、彼が愛用するゲランの、甘く、どこか退廃的なコロンの香り。
対する助手席の僕といえば、着古した着流しの和服に素足の草履、頭にだけは蓮に笑われぬよう上等なパナマ帽を被るという、いかいも売れない偏屈作家といった風体である。
蓮が所有する漆黒の自家用車――特権階級の象徴たる〝シボレー・スペリオル〟の重々しいエンジン音が、神田神社の鳥居を背に響き渡った。僕たちの目的地は、ほんの目と鼻の先にある東京女子高等師範学校。秋の文化祭に沸く、名門中の名門お嬢様学校だ。
自動車が坂を下り、湯島聖堂のあたりへと差し掛かる。この界隈は、震災の猛火を逃れた深い木々が今なお生い茂り、窓の外には濃厚な緑の香りが立ち込めていた。しかし、その聖域を抜ければ、そこは混沌とした大正末期の路地往来である。
「おっと、危ないな」
蓮が、白手袋に包まれた手で、大きなハンドルを鮮やかに滑らせた。
舗装の甘い砂利道を、荷物を満載した馬車が蹄の音を高く響かせて横切っていく。その後ろからは、荷台に大きな荷箱を積んだ実用自転車が猛スピードで擦り抜けていった。
ガタゴトとけたたましい金属音を立てて、僕たちのシボレーを追い抜いて行ったのは、満員の市電だ。窓硝子の向こうには、すし詰めになった乗客たちの顔が覗いている。
沿道に目を向ければ、立ち並ぶ新旧混じり合った町屋の店先はどこも賑やかだった。カフェーの暖簾をくぐるモダンボーイ。伝統的な着物に前垂れを締めた商人の小僧。一方で、それらを睥睨するように、軍服に身を包み、誇り高き栗毛の馬に跨った陸軍士官がゆっくりと通りを進んでいく。和洋が、美と醜が、復興の熱気と頽廃が、ドロドロに溶け合って流れる大正の街頭。それこそが僕の愛する闇の苗床だった。
「見えてきたね。目的地だ」
蓮がシボレーを滑らせながら、顎で前方を示した。
神田区御茶ノ水。江戸城外濠に臨んだ湯島聖堂の広大な構内の一角。
大震災によって壮麗なレンガ造りの校舎をすべて失ったその場所には、今、急造の木造平屋建ての仮校舎が整然と並んでいた。煤けた木の壁、真新しい瓦の屋根。震災からわずか数年、いずれは大塚の地へ完全移転することが決まっているという、このわずか八年間だけ許された幻のような学び舎。
しかし、その〝仮初め〟の場所は、今日ばかりは目も眩むような華やかさに包まれていた。
◇
文化祭のために門を開放された校内には、色とりどりの着物に袴を付けた女学生たちが、まるで百花繚乱の如く行き交っている。
自動車を停め、僕は懐から安っぽい付け髭を取り出して、不器用に入念に人中へと貼り付けた。
「おいおい、本当にそんな変装で行くのかい?」
蓮が呆れたように美しい眉をひそめる。
「当たり前さ。僕のようなしがない作家が、こんな神聖な学び舎に素顔で入れるものか。君のような無敵の男爵様とは違うんだよ」
僕はニヤリと笑い、パナマ帽の庇を直した。
まさか、この仮校舎の門をくぐった先で、あの傲慢で完璧な親友が、一人の少女によってその心を粉々に打ち砕かれることになるとは、この時の僕はまだ、露ほども知らなかったのさ。
◇
大震災の炎に焼かれ、すべてが瓦礫と化した湯島聖堂の広大な構内。そこへ急造された東京女子高等師範学校の木造仮校舎は、お世辞にもかつての威容を残しているとは言えなかった。
だが、剥き出しの杉の香りが漂う学棟、砂埃が舞う校庭、そして伝統の息吹をかすかに留める弓道場や馬事訓練場には、帝都の復興を告げる凄まじい活気が漲っていた。
明治から大正期にかけての女子名門校のバザーや運動会というものは、上流階級の家長や母親たちが未来の嫁をリアルタイムで値踏みしに来る、合法的なお見合いの場だ。
キツツキのような鋭い目つきの母親たちが「あの子は所作が駄目ね」「お里が知れるわ」などと、冷酷な減点評価を下していく。そんな緊迫した空気が張り詰める中、校庭の隅の弓道場に、一人だけ明らかな異彩を放つ女学生がいた。
エンジ色の袴を穿き、鋭い眼光で弓を引き絞る武道系令嬢。彼女の名は白川薫子さん。まだ十九歳の、しかし凛とした風格を湛えた乙女だった。
パァン!と放たれた矢が的の真ん中を完璧に射抜く。
その瞬間、張り詰めた緊張を解いた彼女が「ふぅ」と小さく吐息を漏らし、あどけない少女の素顔に戻った。その刹那のギャップに、僕の隣にいた蓮は、一瞬で脳を焼かれてしまったのさ。
「……愁月。あの子だ。あの子こそ、マイ・スイート・ハニーってやつだ」
世の女を籠の鳥と呼び、散々弄んできた男が、戦う前にただの負け犬――いや、恋に震える子犬になったのだ。これ以上の喜劇があるかい? 僕は歓喜に震えながら、すぐさま懐のノートを猛然と走らせたよ。
薫子さんの容姿は、まさに大正のモダンと古典美の奇跡的な融合だった。切れ長の双眸は涼やかにして意思が強く、すらりと長い四肢は袴姿でも隠しようがない。一礼して振り返った拍子に、みどりなす黒髪が秋風にふわりと優雅にたなびいた。
聞けば彼女の実家は、旧旗本家という誇り高き血筋。現在は父親が大蔵省の高級官僚を務めており、自宅は当時エリート官僚やセレブたちがこぞって暮らす、東京・お茶の水の高級アパートメントにあるという。
凡百の男なら、その家柄と彼女の気高さに気後れするところだろう。だが、一度けだもののスイッチが入った男爵の行動力は、常人の理解を遥かに超えていた。
蓮はなんと、本人へのアプローチを一切合切すっ飛ばし、直球で彼女の両親への挨拶に向かったのだ。
日本の〝華族〟という特権階級には、大まかに分けて四つの系統がある。江戸時代からの名門である公卿、かつての諸藩を治めた大名、明治維新を支えた国家の功臣、そして多大な寄付金を上納して爵位を得た財閥当主だ。神宮寺家は財閥系で伸し上がった新興の男爵家だったが、財力と押し出しの強さは本物だった。
そんな成り上がり者な男爵様は、
「将来の大蔵次官たるお義父上を、我が神宮寺財閥が全力でバックアップいたします」
と、からめ手を使うやり方で父親を即座に説得。ご両親の快諾を取り付け、すまさじい速さで外堀を埋め、なんと数日のうちに親同士の縁談をまとめ上げてしまったのだ。
それからの蓮の〝けだもの〟じみた求婚劇は、まさに帝都の語り草になるほど凄まじかった。
華族様の財力をフル活用して東京女子高等師範学校への巨額の寄付を繰り返し、学校理事長に就任。薫子さんの周囲に合法的な包囲網を敷くという、〝狐狩り作戦〟を敢行したのだ。
◇
迎えた日曜日、天気は快晴。
これ以上のプロポーズ日和はないという秋空の下、蓮のシボレーは快調に舗装道路を滑っていた。運転席にはすべてが計画通りとばかりに不敵な笑みを浮かべる蓮、助手席には不機嫌そうに窓外を睨みつける、モダンガールの装いをした薫子さん、そして後部座席には狂言回しとしての役割を全うすべく、ちゃっかり乗り込んだ僕。
辿り着いたのは、男爵家が登戸の多摩川河川敷に所有する、長さ四百メートル、幅三十メートルほどの広大なプライベート飛行場だった。そこに鎮座していたのは、第一次世界大戦の終結によって大売り出しになったところを、蓮が持ち前の財力で安く買い叩いたドイツ製の傑作機〝アルバトロス〟複葉機だ。
蓮は彼女を強引に後部座席へ乗せ、自ら操縦桿を握って大空へ飛び立った。上空数百メートルに達した時、蓮はニヤリと笑い、操縦桿を激しく揺らしながら大声で叫んだ。
「薫子さん! 僕と結婚してくれないと、このまま地面に突っ込む!」
命がけの物理的脅迫プロポーズ。完璧な美貌の下に狂気を隠していた男の、これが本性だ。僕は地上から双眼鏡を覗き、彼の無様なだまし討ちに爆笑する準備をしていた。
だが、物語は僕の予想を軽々と超えていく。薫子さんはただのお転婆ではなかった。実は新聞の社会面を幾度も賑わせている、天才的な女流飛行家だったのだ。
「――舐めないでください、男爵」
前席の彼女は冷たく微笑むと、複葉機の前後席に連動する操縦系を使い、機体の操縦権を完全ハックした。
そして躊躇なく機体を逆さまにする背面飛行、垂直の急降下、さらには空中分解スレスレの狂気的な錐揉み回転を始めたのだ。
形勢は完全に逆転した。上空で猛烈な乗り物酔いに追い込まれたのは、仕掛けたはずの蓮の方だった。
「ひえっ! 胃が宇宙へ飛んでいく!」
情けなく叫ぶ男の声が、エンジンの爆音に混じって地上まで聞こえてきそうだった。
やがて着陸し、飛行場の片隅に建てられたバラックの管制室――その備え付けの薄暗い医務室の前。地面に這いつくばって白目を剥く哀れな蓮を、薫子さんは何食わぬ顔で軽々とお姫様抱っこし、室内へ運んでいった。その姿を見た時、僕は確信したね。あの上品な〝恋愛男爵の敗北〟は、いま完全に決定したのだと。
けれど、本当の〝だまし討ち〟はここからだった。
その日の夕方、お茶の水の高級アパートメントに戻った薫子さんを待っていたのは、厳格な父親からの、部屋がみしりと揺れるほどの大目玉だった。いくら婚約が内定しているとはいえ、男爵を半殺しにしたのだから当然だ。彼女は即座に自宅謹慎を言い渡されてしまう。
翌日、僕は可哀想な親友の見舞いにと、神宮寺家の邸宅を訪れた。
自宅のリビングでしょぼんと落ち込んでいた蓮だったが、そこへ一本の電話が鳴る。薫子さんが謹慎を破り、こちらへ向かっているというのだ。蓮は跳び起きた。そして、お見舞いに来る彼女のために、不器用な手つきで必死にホットケーキを焼き始めた。当時としては最高峰の贅沢な高級洋菓子だ。
やがて到着した薫子さんがドアを開けた瞬間、彼女の胸に強烈な衝撃(萌え)が走った。そこにいたのは、慣れないフライパンを振り回し、顔を煤で汚しながら、真っ黒に焦げたホットケーキを必死に焼いている男爵の姿だったからだ。
周囲が仮面だけで価値を値踏みし合う、あの冷酷な世界。その中で、蓮だけはプライドを粉々にされてもなお、〝君に笑ってほしい〟という剥き出しの純情だけで動いていた。
蓮は焦げたホットケーキを差し出し、照れ隠しに『伊勢物語』の和歌を引用して自嘲した。
「つつ井づつの ゐづつにかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに。……子供の頃のように、僕の背は君の気高さに届かなかったようだ」
すると薫子さんは驚いたように目を見張り、万葉の歌でそれに応えたのだ。
「高山と 格式らひ立てる 神なびの……。いいえ、あなたのその不器用な真っ直ぐさに、私は負けました」
意外な男爵の古典の教養、そして彼の本気に、彼女の白い頬が林檎のように赤く染まる。お互いの仕掛けた我が儘なだまし討ちが見事に相殺し合い、二人はここで初めて、本当の婚約を交わしたのだ。
僕はそのあまりにも美しい光景を、胸の奥に湧き上がる一滴の毒のようなジェラシーと共に、特等席でじっと観測していたのさ。
ところがだ――
◇
翌昭和二年四月。つつがなく二人が挙式を挙げようとした矢先であった。
陸軍省から補給物資輸送事業の依頼があり、下見のために大陸へと渡った蓮なのだが、朝鮮半島の釜山から満州へと向かう列車が、途中、鴨緑江付近で馬賊の襲撃に遭い、そのまま行方不明となってしまったのだ。
だが、薫子さんは決して諦めなかった。
「――蓮様が死ぬはずありません。あんなにしぶとい, けだものなのですから!」
彼女は私財を投げ打って腕利きの探偵を雇い、ついに蓮の居場所を突き止めた。なんと、あの〝魔都〟として悪名高い上海で、彼が生きているというではないか。
彼女はすぐさま、東京から長崎まで鉄道を乗り継ぎ、そこから長崎上海航路の定期郵便船で現地へ向かうことになった。だが、いくら気丈な武道系令嬢とはいえ、政情不安定な大陸への独身女性の一人旅はあまりにも物騒だ。彼女のご両親に深く頭を下げられ、不詳、この僕一ノ瀬愁月が、警護役としてエスコートさせて戴くことになった次第である。
長崎の港で僕たちを待っていたのは、総トン数約五千トンの凛々しき最新鋭貨客船〝長崎丸〟であった。
白亜の船体に二本の煙突を持つその快速船は、最高速力二十一ノットを誇り、長崎から上海までをわずか二十六時間ほどで結ぶ、まさに国境を跨ぐ大動脈だった。船内は冷徹な階級社会そのもの。トレンチコートにハイヒール姿の薫子さんは仕切りのついた格式高い二等客室へ、そして軍資金の乏しい僕は大部屋の雑魚寝に近い三等客室へとそれぞれ吸い込まれていった。
食堂の格差は客室以上に残酷だった。ゆえに、二等室の薫子さんとは別々の場所で食事を摂ることになる。
船底の三等食堂は、鉄板の壁に機関の重低音が響く、熱気と煙の漂う大空間だ。天井には剥き出しの配管と揺れる裸電球。白麻のクロスなどなく、長い木製テーブルに手垢のついた頑丈な食器が並ぶ。
漂うのは安煙草とライスカレーの強い匂い。一旗揚げようと上海へ向かう労働者、商人、絣の着物の家族連れが発する、日本語や中国語の怒鳴り合いのような声が反響する。シャンデリアの優雅さは皆無だが、大陸を目指す人々のギラギラとした野性的な生気が、薄暗い空間に満ちあふれていた。
しかし、このライスカレーが意外にいけた。独特のスパイスが効いたどこか頽廃的なその辛味と、肉の旨味が溶け込んだ濃厚なルーの美味さは、今でもありありと舌が憶えている。
翌日、船の窓から見える東シナ海のどこまでも深い青が、ある境界線を境に、泥を含んだ濁流の褐色へと一変した。そこからはもう、大長江の下流だ。
海特有の荒々しい波の揺れが、嘘のようにピタリと収まる。船は長江を進み、呉淞のあたりにある支流・黄浦江の注ぎ口で大きく左折した。少し遡上した場所にあるのが、世界中の列強によって切り刻まれ、租界として乗っ取られた国際都市、上海である。
◇
川岸の船着き場であり、巨大な石造りの近代建築が壁のように立ち並ぶ外灘の岸壁で、事前に雇っていた探偵が僕たちを出迎えた。
僕たちはすぐに探偵が手配したタクシーへと乗り込み、外白渡橋を渡って、北岸にそびえ立つ最新鋭の高層ビル〝上海ブロードマンション〟へと向かった。
ソビエト連邦総領事館の目と鼻の先に建つその威容は、十九階建て、鉄骨鉄筋コンクリート造りの堅牢極まる高層アパートメントだった。
当時、アジア最高峰の全高を誇ったその近代建築は、階段状にセットバックしていく見事なアールデコ様式の外装を纏っていた。一歩足を踏み入れれば、内装もまた最先端のデザインで統一されている。幾何学模様をあしらった真鍮製のランプ、大理石が敷き詰められたロビー、そして重厚な鉄格子のエレベーター。どこを切り取っても、植民地主義の傲慢な富と頽廃が凝縮されたような空間だった。
探偵に案内された最上層に近い高級フロア。その一室で僕たちが見つけた蓮は、あろうことかすべての記憶を失っていた。
彼は、妖艶な亡命ロシア貴族、ナターシャ・ルインスキー公爵夫人の部屋で、仕立ての良いシルクのガウンを羽織り、彼女の〝美しきヒモ〟として甘やかされて飼われていたんだ。
ロシア革命の赤化から命からがら逃れてきた、白系ロシア人亡命貴族たちのコミュニティ。そこは過去の栄光への未練と、明日の見えない絶望が同居する場所だった。じっとりとした怪しいネオンの光と、濃厚なデカダンな空気が不気味に漂うその空間は、耽美主義作家である僕にとっては最高の居心地だったがね。
きらびやかな水晶のシャンデリアが怪しく明滅するリビング。その中央の豪奢なソファに腰を下ろす公爵夫人の装いは、まさにこの街の富と頽廃を象徴していた。クジャクの羽を贅沢にあしらったヘッドドレスに、最新の『ヴォーグ』誌から抜け出たような豪奢なドレス。頭上には大きな車輪帽を傾げ、足元にはエルメスの特注ハイヒールが妖しく光る。
夫人は自らに寄りかかる、虚ろな双眸をした蓮の髪を、白く長い指先で愛おしげに撫でていた。
「私の可愛い小鳥くん。あんな泥臭い東洋の女のことなど、忘れてしまいなさいな」
「蓮様……私のことが分からないのですか?」
薫子さんが一歩前へ出て、引き裂かれそうな声で必死に訴えかける。だが、蓮はただぼんやりと首を振るだけだった。
「すみません、お嬢さん。僕は自分が誰なのか思い出せないのです。ただ……なぜかパンケーキの匂いを嗅ぐと、胸が苦しくなるのですが……」
完璧な記憶喪失。かつての圧倒的な輝きを失い、異国の女の籠の鳥として飼い慣らされている蓮の無様な姿。薫子さんはついに胸を締め付けられ、溢れそうになる涙を必死に飲んで、身を引く決意をした。
「……お幸せに、男爵様。私は日本へ帰ります」
ああ、これだ。これこそが僕の愛したデカダンス。大正の純情ラブコメが、ついに世紀末の残酷な愛憎劇へと昇華する瞬間だ。僕は胸の内で狂喜乱舞した。
重厚な鉄格子のエレベーターを降り、僕たちがブロードマンションの重々しいファサードを出る。すると、蓮を我が物にした公爵夫人が、厭味ったらしく僕たちを嘲笑うため、タクシーを待たせている大通りの外までわざわざ見送りに這い出てきた。
◇
僕がその美しき破滅の結末に酔いしれ、今すぐノートにペンを執ろうとした、まさにその時だった。すべての耽美な世界観を台無しにする、あまりにも理不尽な暴挙が、上海の大通りを猛スピードで駆け抜けてきたのは。――猛然と突っ込んできたのは、一台のシトロエンのトラックだ。
その直線上には、ファサードの前に佇む公爵夫人の姿があった。
ここで美しい貴婦人が泥にまみれて無残に死ねば、この物語は不朽の心中名作になる。その決定的な瞬間を、僕は作家として間近で看取らねばならない。悲しいかな、それが僕という人間の業だった。僕は彼女を助けようとして――あるいは美しき死の瞬間をこの両目に凝視するために――、思わず身体が動いて車道へと飛び出してしまったんだ。
ドンッ!
鼓膜を破るほどの凄まじい衝撃音。だが不思議なことに、血の一滴すら流れなかった。
トラックに激突した瞬間、僕と公爵夫人の身体は、この昭和二年にはおよそ存在し得ない、あまりにもまばゆい〝七色のネオン光(ライトノベル的エフェクト)〟に包まれたのだ。
「おや……? 僕の愛したデカダンスの闇が、やけにカラフルな光に……? ゲエ、まさかこれは、巷で噂の――」
すべてを察した瞬間、肉体は三次元の理を無視し、時空の彼方(異世界)へと綺麗に弾き飛ばされてしまった。
次に目を覚ました時、そこは見たこともない丈の低い草に覆われた大草原で、心地よい初夏の風が吹き抜けていた。
◇
だが、僕は確信しているよ。あのトラックの激突のショックで、蓮の頭の霧は晴れ、彼は確実に記憶を取り戻したはずだ。
恐らくいまごろ上海の路上では、泣きじゃくる薫子さんが彼を強くハグしているころだろうよ。日本に帰ったら、今度は君が彼のために焦げていないホットケーキを焼いてやるといい。未曾有の大惨事のせいで、僕と公爵夫人は完全な神隠しに遭ってしまったわけだけれど、薫子さん、どうか僕のことは忘れて、あの最高に無敵で無様な奴を幸せにしてやってくれ。
――さて。光の彼方に消えた僕と、あのナイスバディな公爵夫人との、チート能力を駆使した異世界大冒険についてかい?
ふっ、悪いけれど、それはまた別の物語ってね。
(完)




