72.鋼の戦斧、サロンを制す
重厚な扉が開くと、むせ返るような香水の匂いが鼻をついた。
白亜の柱に囲まれた広間には、数十人の令嬢たちが集まっていた。
色とりどりのドレスが咲き乱れているが、その空気は死んでいる。
誰もが小声で囁き合い、互いに値踏みし、自分より不幸な者を探して安心しようとする――そんな、陰湿な気配が床を這っていた。
私たちはその澱んだ空間に、カツカツと足音を響かせて踏み込んだ。
「……あら。見ない顔ですわね」
一斉に視線が集まる。
好奇心、侮蔑、そして僅かな安堵。また一人、不幸な女が増えた、という安堵だ。
その視線を、ノエルは優雅な仕草ひとつで薙ぎ払った。
「ごきげんよう、皆様! 本日からこちらでお世話になります、ノエル・センス・スコットですわ!」
高らかに響く声。
その堂々たる名乗りを聞いた瞬間、サロンの空気がざわりと波打った。
「……スコット家?」
「あの、没落した?」
「竜を失った家でしょう? よくもまあ、ぬけぬけと……」
クスクスという嘲笑がさざなみのように広がる。
その中心から、一人の令嬢が進み出てきた。
翡翠色のドレスを纏った、気の強そうな女性だ。口元は弧を描いているが、目は獲物を狩る猛禽類のそれだった。
――フェリシア・ハンガー・ロズベルグ。
私は眼鏡の奥で目を細めた。
忘れるはずもない。かつてアルトの竜継の儀で、嫌味な挨拶をしてきたあの令嬢だ。
彼女もまた、この鳥籠に囚われていたのか。
「あらあら。誰かと思えば、ノエルさんではありませんか」
フェリシアはノエルを見下ろすように、大げさに溜息をついた。
「ここは王の寵愛を受けるための神聖な後宮ですのよ? 貴女のような鋼の戦斧の異名を持つ野蛮な方がいらっしゃるなんて……武器庫と間違えていらっしゃるのではなくて?」
強烈な先制攻撃。
周囲の取り巻きたちが、手で口元を隠して嘲笑う。
戦斧というあだ名を出し、ノエルを女として終わっていると嘲笑うマウンティングだ。
普通の令嬢なら顔を真っ赤にして怒るか、恥じ入って俯く場面だ。
けれど、相手が悪かった。
「あらぁ! フェリシアではありませんの!!」
ノエルは傷つくどころか、パァァッと花が咲くような笑顔で、あろうことかフェリシアの両手をガシッと握りしめた。
「……な、なによ」
「お久しぶりですわね! まぁ、以前お会いした時よりも随分とお痩せになって! 頬なんてこけてしまって、まるで失敗したドライフルーツのようですわ!」
「ド、ドライ……ッ!?」
フェリシアの顔が引きつる。
しかしノエルは止まらない。相手の言葉を一切受け取る気がない。
「ここ、空気が悪いですものねぇ。皆様、顔色が土粘土のようですわよ? ちゃんと日光を浴びていらっしゃいますの? ああ、可哀想に……今すぐ私の畑で採れた新鮮なじゃがいもをお分けして差し上げたいですわ!」
「ち、ちょっと待ちなさい! 私は貴女の品位の話をして――」
「品位? ええ、ええ、分かりますわ! 品位を保つのも体が資本! 栄養が足りていないと、そうやって人の揚げ足を取ることしか楽しみがない寂しい人間になってしまいますものね!」
ノエルは同情たっぷりの涙目になり、優しくフェリシアの肩を抱いた。
「辛かったでしょう? でももう大丈夫ですわ。私が来たからには、皆様の健康管理はバッチリですのよ!」
「誰が! 頼んだと! 言っていますのッ!!」
フェリシアが金切り声を上げて、ノエルの手を振り払った。
顔は真っ赤で、肩で息をしている。
完全にペースを乱されている。
「だから嫌いなのよこの女……ッ!!! やっと女学院を卒業して縁が切れたと思ったのにイィィ!!!!」
私は後ろに控えながら、背筋が寒くなるのを感じた。
(……すごい)
会話が噛み合っていない。
フェリシアは格付けの話をしているのに、ノエルは健康の話にすり替えている。
意図的なのか、天然なのか。
言うなれば、剣での試合にいきなり先制で打撃を入れてくるような、暴力的なまでのコミュニケーション。
私が得意とする社交術が、相手の急所を正確に突く毒針だとするなら、ノエルのそれは――文字通り、問答無用で盤面ごと叩き切る戦斧だ。
彼女には、皮肉も嫌味もまるで通じていない。
まるで水と油だ。
もし女学院で彼女と敵対していたら――私は間違いなく彼女に矜持ごと叩き割られていただろう。
顔を真っ赤にするフェリシアを眺めていると、背筋に寒気が走った。
「……っ、もういいですわ! 行くわよ!」
フェリシアは悔しげに唇を噛み、取り巻きたちを引き連れて逃げるように席を立った。
嵐が去った後のサロンには、呆気にとられる他の令嬢たちと、何故か満足気に紅茶を啜るノエルだけが残された。
「……ふぅ。皆様、随分と栄養が足りていないようですわね」
「ノエルさん……あなたという人は……」
私が呆れていると、サロンの隅から、一人の少女がおずおずと近づいてきた。
栗色の髪を三つ編みにした、まだ幼さの残る令嬢だ。
「あ、あの……」
「あら、ごきげんよう。じゃがいもをご所望かしら?」
「い、いえ……その……」
少女は怯えながらも、すがるような目でノエルを見上げた。
そして、周囲を気にするように声を潜める。
「……お気をつけあそばせ。フェリシア様は、王太子様から直々にサロンの管理を任されている方なのです」
「管理?」
「はい。……王に気に入られるための教育係のような……。逆らえば、食事を抜かれたり、地下へ……」
少女はそこまで言って、ブルリと震えた。
「……教えてくれてありがとう。貴女のお名前は?」
「ミ、ミーナです……」
ミーナは小さな声で名乗り、さらに声を潜めた。
まるで、壁に耳があることを恐れるように。
「それと……これは噂なのですが……」
「噂?」
「今夜……いらっしゃるそうなのです」
ミーナの言葉に、私とノエルの視線が鋭くなった。
主語はない。けれど、誰のことかは明白だ。
「……王太子が、この離宮に?」
「は、はい。新しくこちらにいらっしゃった……つまり、ノエル様を見に……いらっしゃる、かと……」
ミーナはそこまで言うと、「失礼します!」と頭を下げ、逃げるように去っていった。
残された私とノエルは、顔を見合わせる。
サロンの空気は相変わらず澱んでいるが、私たちの周りだけは、ピリリとした緊張感が走っていた。
「……聞きましたか、ルウ」
ノエルが口元に手を当て、楽しげに目を細めた。
頼りになりそうなお姉様作戦は大成功と言っていい。
「ええ。……向こうから来てくれるとは、手間が省けましたね」
私は眼鏡の位置を直し、地味な侍女の仮面の下で、獰猛な笑みを浮かべた。
今夜。ターゲットが、射程圏内に入ってくる。
「さて、もう少し皆様とお話を……」
ノエルが振り返るが、令嬢たちは一斉に目を逸らし、蜘蛛の子を散らすように距離を取った。
フェリシアを完膚なきまでに叩き返した鋼の戦斧の威力を目の当たりにして、敵としてうかつに近づける令嬢などいるはずがない。
全員が震え上がり、壁の花と化している。
「あらあら。私が眩しすぎたのですね。帰りましょうか、ルウ」
ノエルは優雅に立ち上がり、私に目配せをした。
「はい、お嬢様」
私たちは静まり返ったサロンを後にした。
背後から、堰を切ったように安堵のため息が漏れるのが聞こえた。




