65.怪物の手綱
「オレはあんまり気が進まないんだけど」
目指す場所が定まり、これからの具体的なことについて話そうとした瞬間――一人だけ温度の違う声で、カグツチがぽつりとこぼした。
「後宮って――オレは行けないんだよね?」
「女の園ですもの、そうなりますわね」
「……ゼファレスも居るんだよね?」
「訪れることはあるでしょうね。しかしご安心くださいませ。ルシアさんだとバレないように完璧に変装させます。カグツチが心配しているようなことは起こりませんわ。このノエルが保証しますわ」
ノエルの言葉に、カグツチは不満げに目を伏せた。
私はカグツチの隣に腰掛け、そっと彼の背中を撫でようとした――瞬間だった。
「ノエル。……もしルシアに何かあったら、王都ごと火の海にしちゃうかもしれないから気をつけてね?」
カグツチはしょんぼりと、まるで親とはぐれる子供のような弱々しさで言ってみせた。
「まぁまぁ、デカい図体で子どものようにしょげるんじゃありませんわよ」
ノエルは腰に手を当て、大きなため息を付いてみせた。
しかし――カグツチのそれがハッタリでも虚勢でもない事を、私は知っている。
完成された個であるカグツチの本気を見たことがあるわけではない。
けれど、あの宝石を散りばめたような鱗を持つ美しい竜が、たった一息で世界を終わらせる姿は容易に想像ができた。
「……おいおい。洒落になってねェぞ」
ロボが青ざめて乾いた笑いを漏らす。
脅しではない。これは予報だ。
私が失敗すれば、この国は終わる。
復讐が成功しても、失敗しても、カグツチを暴走させれば――全てが無に帰す。
その綱渡りのような緊張が、私の手を震わせそうになった。
けれど――震えは、すぐに止まった。
「大丈夫です、カグツチ。あなたにそんな真似はさせません」
私は彼の手を握り、真っ直ぐに見つめ返した。
「後宮の構造は分かりませんが――人の姿のままなら、天井裏に潜んでいても気付かれないはずです。こっそり忍び込めますか?」
「……まぁ、それならいいけど」
カグツチは少しだけ表情を緩め、私の手を握り返した。
「連絡手段はどういたしましょう……」
「ルシアのいるところならすぐ分かるから大丈夫だよ。それに……」
カグツチは自分の胸を指差した。
「ここで繋がってる。何かあれば、すぐに分かるから」
そう言って笑うカグツチの表情には、一点の曇りもない。
彼がそう言うのなら分厚い石壁も、私たちの繋がりを断つことはできないのだろう。
最強の護衛が常に側に――いや、天井裏にいる。これほど心強いことはない。
「……話はまとまりましたわね」
パン、とノエルが掌を叩いた。
湿っぽい空気はそこまで、と言わんばかりに、彼女は華やかな笑みを浮かべて立ち上がる。
「作戦の骨子は決まりました。あとは実行に移すための舞台衣装と小道具の調達ですわ」
彼女の瞳が、きらりと狩人のように輝いた。
ターゲットは王城、その前に――街の服屋だ。
「ではロボ、今すぐに必要なものの買い出しに出かけますわよ。ルシアさんたちはここでお待ちくださいな」
「は? 俺?」
ノエルは有無を言わせぬ笑顔でロボの無事な方の腕を引っ張ると、疾風のように倉庫を出て行った。
バタン、と扉が閉まる音が響く。
あとに残されたのは、静寂と、埃の匂い。
そして――まだ不満げに唇を尖らせている火竜が一匹。
「……行っちゃったね」
「ええ。嵐のようでしたね」
私が苦笑して振り返ると、カグツチは私から視線を逸らし、膝を抱えるようにして木箱の上に座り込んだ。
その背中から立ち上るオーラは、先ほどよりも明らかに拗ねている。
「……怒っていますか?」
「怒ってない。……いや、やっぱり怒ってる」
カグツチは、ぶすっとした顔で私を見上げた。
「なんでルシアが、あの男のために着飾らなきゃいけないんだ。しかも後宮? 愛妾ってこと? 冗談じゃないんだけど」
「作戦です、カグツチ。それに私は侍女ですから」
「侍女でも嫌だ。ルシアが他の男に媚びる姿なんて見たくないし、あの男がルシアをそういう目で見ると思っただけで……腹の底が煮えくり返りそうになる」
「いえ、侍女をそういう目で見ることはないかと……」
カグツチの瞳が、ゆらりと明滅した。
それは嫉妬という可愛い言葉では片付けられない、怒りを持った竜種としての独占欲と、破壊衝動の揺らめきに見えた。
「……オレのものなのに」
ボソリと呟かれた言葉に、私の心臓が小さく跳ねる。
彼は立ち上がると、私の目の前まで歩み寄り――そっと、私の頭頂部に生えた角の片方に触れた。
「この角も、その体も、命も。……ルシアは全部、オレが繋ぎ止めた番だ。ゼファレスなんかに、指一本触れさせたくない――考えただけで、世界ごと壊しちゃいそう」
ひんやりとした指先が、角を優しくなぞる。
その感触が愛おしくて、私は彼の手に自分の手を重ねた。
「あなたは私を未来へ連れて行ってくれるのでしょう? 世界ごと壊してしまっては、何もできなくなってしまいますよ」
「……分かった。我慢する。でもね、ルシア。これだけは覚えておいて」
カグツチが私の髪を一束取り、そっと口付けた。
その瞳は、昏い情熱で揺らめいている。
「君に何かあれば、その時は――オレは君の事を尊重出来るような、従順な竜種じゃいられないからね」
脅しにも似た言葉に、胸の奥がひやりと冷えた。
それは恐怖とはまた違うように思えた。
ただ、この美しい怪物の手綱を握っているのは自分なのだという、重く、甘美な責任の冷たさだった。
「……ええ。肝に銘じておきます」
私が小さく頷いた、その時だ。
「――ただいま戻りましたわーッ!!」
バーン! と勢いよく倉庫の扉が開け放たれた。
甘く危険な空気は一瞬で霧散する。
そこには、大量の荷物を抱えたロボと、両手にきらびやかな衣装袋を提げたノエルが立っていた。
「さあルシアさん、カグツチ! しんみりしている暇はありませんことよ! とびきりのドレスと作戦を持ってきましたわ!」
嵐が帰ってきた。
先ほどまでの重たくも甘い雰囲気をふっ飛ばすかのような暴風に、カグツチと顔を見合わせ苦笑したのだった。




