43.怒りと言う臓器
翌朝、窓から差し込む薄い光が瞼を叩き、私はゆっくりと意識を浮上させた。
まだ少し重い頭を動かそうとして、右手の先に重みを感じ視線を落とす。
そこにはカグツチがいた。
昨晩はベッドの縁に背を預けて座り込んでいたはずの彼は、いつの間にか身体を捻り、手と頭をベッドのマットレスの上に乗せるような格好で眠っていた。
まるで眠っている間の私がどこかへ消えてしまわないか、確かめるように手を伸ばしたまま力尽きたような。
そんな、不器用で無防備な寝顔だった。
規則正しい呼吸に合わせて、彼の背中が微かに上下している。
昨夜、私に逃げ場のない呪いをかけた本人とは思えないほど、その横顔はただのカグツチとして、穏やかにそこにあった。
彼を起こさぬようにベッドから抜け出し、カーテンを開いた。
目を顰めるほどの太陽の光が雪景色に反射していた。
◆ ◆ ◆
それからカグツチを起こして支度を整えてから扉を開けると――ちょうど私たちを呼びに来たロボウノイシが立っていた。
アシュレイの出立準備が整うまで、私たちは応接室で待機するように。そう言われて通された応接室のソファに、私とカグツチは並んで座った。
ロボウノイシは、昨日と同じようにテーブルを挟んだ対面のソファに腰を下ろした。
私とカグツチと、ロボウノイシ。
アシュレイを待つ三人は、まるで同じ檻に入れられた獣のように、互いの呼吸だけを聞いていた。
応接室の蝶番が軋み、コートを片手に持ったアシュレイが現れたのはそれからすぐの事だった。
「すまない、遅くなったか」
アシュレイはロボウノイシの隣に腰掛ける。
「本当はそのまま出立するつもりだったのだが――一つ、確認したいことがあってな。君たちが起きるのを待っていた」
「あら……そうだったのですね。起こしてくださっても良かったのに」
場を和ませるための言葉として言ったつもりだった。しかしアシュレイはそれを受け取ることなく、私とカグツチを交互に見やってから、目を伏せた。
「ロボから聞いた。――君たちは番なのだと」
ロボウノイシに視線を向けると、茶化すような素振り一つ見せず私の方を見つめていた。
隣りに座るカグツチに目配せせるが、彼は語る気はないと言わんばかりに口を結んでいた。
「……そうである、という事実だけはとある竜種から伺いました」
センスの名前を出すとロボウノイシを刺激しかねないので、敢えて濁した。
「……センスだな。彼は何も説明しなかったのか?」
その名前が出た瞬間、ロボウノイシは不機嫌そうに床に視線を落とした。
あの時――カグツチは会話を切ろうとした。結果的にノエルが中断させたのだけれど。カグツチは番という言葉に触れて欲しくないように思える。
「……欠けた構造を補おうとする本能、と。彼は言ってました」
アシュレイは静かに首を横に振った。
「……なるほど。嘘ではないが、正確でもない。センスらしい言葉遊びだ」
アシュレイの声は静かだったが、そこには見過ごせない断絶が含まれていた。
私は、自分が何か決定的な読み違えをしているのではないかという不安に駆られ、膝の上で指を組む。
そしてアシュレイは淡々と語り始めた。
「結論から言おう。番とは、竜種が完全な個に至るための機能統合だ」
アシュレイは前置きなくそう切り出すと、どこか遠くを見るような瞳で言葉を継いだ。
「ルシア嬢。竜種という生物をどう思う? ……人間よりも遥かに強靭で、痛みにも耐え、極寒の地でも生存できる。さらに彼らには、種を滅ぼす原因となる怒りすら、数千年の淘汰の果てに克服――いや、欠落と言うべきか。どちらにせよ、主に従うことを生存戦略としたその機能はすでに進化の袋小路にあると言っていい」
アシュレイはそこで言葉を切り、カグツチを見た。
竜種は痛みを感じるし、寒さだって感じる――でも、耐えられないとは言っていない。決闘の時にシロクマが耐えていたであろう痛みは、人間に耐えられるものではない。カグツチが言う寒さも、人間には死に直結するレベルの寒さのことである。
あの歴史書は竜の言葉は一言も書かれていない――しかし、間違ってはいなかったのだ。
種として――袋小路であり、ゴールでもある。
それはつまり、これ以上変わる必要がないほど完成されていると同時に――誰かに使われなければ、どこへも行けない行き止まりだということか。
「だが、もし欠落が消滅したら? あらゆる脅威を退ける力と、それを行使する意志。その全てが揃ってしまったら?」
「それは……」
私がその真意を測りかねて沈黙していると――向かいのソファで苛立たしげに貧乏ゆすりをしていたロボウノイシが、限界だと言わんばかりに「あー、もう!」と立ち上がり声を荒げた。
「テメェは話がなげぇんだよ、石頭! 学者の講釈はいいから、もっとえぐり込んで話せ!」
ロボはドカと座っていたソファを蹴り、私を指差した。
いえ、あなたの竜種のメスの説明も大概でしたが。とは口に出さないけれど。
そしてロボウノイシはさっとズレたソファを直すと、再び腰掛ける。
「いいかルシア、要するにだ……俺とこいつを見てみろ」
ロボは親指で、隣のアシュレイをぞんざいに示した。
「例えばだ。もし俺が怒りのねぇまともな個体で、こいつと番になるとするだろ?」
竜種は性別関係なく番が成立可能、と言うことなのだろうか。
眉間にしわを寄せていると、ロボウノイシが不機嫌そうにこちらを見た。
「人間相手だろうが竜種相手だろうが番は雌雄でしか成立しねぇからな? 今からすんのは例え話だ、例え話! ……チッ。ったく、話の腰を折りやがって」
ロボは乱暴に頭を掻きむしると、改めて隣のアシュレイを親指で差した。
「竜が番を見つけた時の感覚は、『なんで俺の大事な臓器があんな所に落ちて歩いてやがるんだ?』に近いらしい」
ロボの言葉に、背筋が粟立った。
それは求愛ではない。欠落した自らを埋めるための、飢餓にも似た所有欲。
「だから、戻すんだ。俺という冷え切った炉の中に、あるべき火種をな。失ったはずの臓器に火が灯る。誰のためでもねぇ、俺自身の怒りで世界を焼けるようになるんだよ」
ロボウノイシの言葉は乱暴だったが、それゆえに残酷なほど分かりやすかった。
「……ま、俺は壊れた蛇口だからな。臓器を持ってたところで、肝心の出力部分がバグってやがるからうまく機能しねぇ。竜種のメスはもういねェ。人間の中にだって俺の番は存在しねェ」
ロボはそこで言葉を切り、鋭い視線をカグツチに向けた。
「だが、そこのガキは違う。カグツチは俺と違って、器としちゃ上等だ。ルシアがその身を捧げて因果を結べば……こいつはすぐにでも完成するぜ?」
口の中はからからだった。
それでも確かめなければいけなかった。
ゆっくりと顔を上げ、カグツチを見た。
彼は顔面を蒼白にし、膝の上で拳を握りしめている。
その横顔は、アシュレイたちの言葉に怯えているようにも、何かを必死に堪えているようにも見えた。
「……ルシア嬢。理解したか?」
アシュレイが、私の困惑など意に介さず、淡々と問いかける。
「君がカグツチの一部となり、その怒りと情念をすべて彼に委ねれば、カグツチは伝説上の神にも等しい出力を得るだろう。……君が自分自身という個に執着しなければ、最も合理的な選択だ」
合理的な選択。その言葉が、私の喉元に突きつけられる。
膝の上で組んだ手に、自然と力が入った。
私が彼の一部になる。カグツチの臓器になる。
何一つ、ぴんとこなかった。
「もし君たちが番になれば、カグツチほどの因果を持った竜だ――星をも焼き尽くすほどの『完全な個』へ変貌するだろうな。ため息一つで、王都もゼファレスも、この盤面ごと塵にできる。……君の望む復讐など、瞬きをする間に終わるだろう」
あまりにも突飛な話に、私は言葉を失った。
星を焼く? ゼファレスを塵にする?
私の隣で、寒くないようにと温めてくれていたこの竜が。
ふと、ソファの背に沈んでいた黒竜――ロボウノイシが、苛立たしげに鼻を鳴らした。
「チッ、まどろっこしいんだよ。要はな、ルシア。お前がその気になりゃ、そこのガキを最強の兵器に作り替えられるって言ってんだ。……復讐したいんだろ? だったらさっさと番になれよ。それだけで全部解決する話だ」
ロボウノイシの目は、私を射抜くような殺気と、どこか期待に満ちた色が混ざっていた。
「……」
私は隣に座るカグツチを再び見上げた。
彼は――アシュレイたちが「最強の兵器」という言葉を吐くたびに、まるで自分の存在が汚されていくのを耐えているかのように、固く目を伏せていた。
そして――目が合った。
この時、私は気づいていなかった。
アシュレイがなぜ、これほどまでに番を推奨するのか。
ロボウノイシがなぜ、これほどまでに苛立って私を煽るのか。
彼らが語ったのは、あくまで出力という果実の話だけ。
その果実を実らせるために、供給源となる人間が何を支払うことになるのか――その代償については、彼らはあえて口を閉ざしていた。




