39.応接室にて⑦ ゼファレスの盤面
間もなくゼファレスの時代が訪れる――そう、ロボウノイシは言った。
さっきまでの喧嘩が嘘みたいに、応接室は静かだった。
乱れた家具は元に戻り、ローテーブルの上に乗っていた皿からマシュマロが消えた以外は、ここへ来た時と同じ風景だった。
ご丁寧に、仕上げにテーブルを布巾でぴかぴかに磨いたのが、今ソファにだらしなく沈んでいる黒竜だというのが少し癪に障るのだけれど。
「今日の臨時議会で、徴用制度を審議入りさせやがった」
「――やられた。私の不在を狙ったのか、奴は」
アシュレイが低く返す。怒鳴り慣れていない喉から絞り出したような声だった。
「――俺が王都を空ける口実ができた瞬間を待っていたんだろう」
「だろうよ。……センスが長くねぇって話が出りゃ、お前がノエルんとこへ動くのは読める。奴はそこまで織り込み済みだ」
センスの命が誰かの予定表の一行になっている。
それを口実と呼べる神経に、背筋が冷えた。
きっと私も、あの広場から逃げるように動かされた。
あの時ゼファレスが浮かべていた笑みは間違いなくそういう類のものだった。
人の情も弱点も、あの男にとっては駒――そう思った瞬間、胸の底に沈めていたものがぎしりと軋む。
私の地獄も、きっと同じやり方で作られたのだ。
燻る感情に、今はそっと蓋をして深呼吸をひとつ。
「――徴用制度の話は、議題に上がる以前、誰が知っていたのですか?」
――まず、どこからがゼファレスの盤面なのかを知らなければならない。
ゼファレスという男を見誤れば、次は私が動かされる。
「……父上とゼファレスだけで握っていた。父上はゼファレスの政策をよく思っていないからな……焦っていたんだろう。止めるための手札が、もう私しか残っていなかった。だから私に秘密裏に漏らした――」
アシュレイは眉間のしわを伸ばすように撫で、思い起こしながら言葉を紡いだ。
「だが、ゼファレスはそれを読んでいた。父上を導線にしたんだ。私が動くように――そして、私が誰にも話せないまま王都を空けるように」
「……あの男は自分の父親さえ陥れるつもりなのですか?」
「あぁ。私が誰かに話せば、父共々情報を漏らす男という烙印が残る。話さなければ、私を外したまま審議を押し切れる。――どっちに転んでも、あいつは次の一手に移れる」
漏れたかどうかじゃない。最初から、誰にも渡されていない。
情報じゃなく、選択肢が奪われている――。
そう理解した瞬間に背筋が冷えた。
「今すぐ首を切る必要はない。王になった時に情報漏洩の線で叩ける」
アシュレイは息を吐いた。怒りではなく諦めに近い。
叩くのはいつだって他人だ。
ゼファレスは王座に座った時、席が一つ減っていればそれでいい。
「罪を作るんじゃない。疑っていい前例を――口にしていい空気として先に配る」
疑いは証拠を必要としない。
必要なのは、疑っても怒られない空気だけだ。
それさえ配れば、官僚も貴族も、勝手に保身という名の正義を選ぶ。
「……疑わしき男には、王族と言えど官僚も貴族も肩を貸さない」
アシュレイが言っていた通りだ。
あの男は、王座に触れた瞬間、身内さえ潰しに来る。その準備をとっくの昔から進めていた。
それでも、貴族が己の竜を差し出す法案がすんなり通るだろうか。
竜なしになる前に席を与えられたとしても、貴族にとって歴史の浅い王家に傅くのは屈辱でしかないはずだ。
「竜なしの家を救う――その言葉で、貴族が揺れるのは分かります。けれど、軍事力の集中を嫌う者が黙るほど甘い餌でしょうか?」
「もちろん、全会一致はありえない。グレイシャルあたりが噛みつくのが目に浮かぶ。
ヴォルシュタインは貴族に嫌われているしな。官僚も貴族の紐つきだ。父上の議題が通ったことなど殆どない」
「なら、ゼファレスの理屈など信用しないのでは?」
「反対した瞬間、救済の敵として名が残る。――明日、自分が竜なしになった時、その名札のせいで席がない。そこがゼファレスのうまさだ」
王が潰すのではない。貴族が貴族を潰すのだ。
竜なしの地獄を、政策に塗り替える。
審議入り――議題に載った時点で、もう勝ちだ。
――私が落とされた穴を、あの男は切り札にした。
……なるほど。ゼファレスの盤面は広いだけではなく、ルールまで自分だけが勝ち残る設定にしている。
盤面を測ったところで意味はない。あの男は盤面から動かず、ルールだけを書き換えるのだから。
描いていた勝ち筋のいくつかを、私は失った。
ふと――隣でカグツチの視線が、散らばったマシュマロの残骸を探して泳いだ。
……難しい話が続くと、竜も糖が要るらしい。それも人間以上に。
さっきの乱闘で拾い食いしていた分は、もう燃え尽きたのだろう。
「……ところで、なぜ今日の議会の内容まであなたが知っているのですか?」
話題を変えるように私が問うと、ロボウノイシはにやにやと笑った。
まるで友人みたいな軽さでアシュレイの肩を組んだ。
「竜の聴覚舐めんなよ? 会議中、俺らは会議室に入れねぇ決まりで棟の控室に押し込まれる。壁にべたぁって貼り付いて、耳まで石壁に押し当てときゃ――嫌でも聞こえる。呼吸も殺してな」
「トカゲみたい……竜なのに……」
カグツチが軽く引いていた。
「ケッ、言ってろ。俺の持ってきた情報であの男が死に近づく。最高だろ? もっと褒めてくれていいんだぜ」
「……頼んでいないが」
アシュレイの声は平坦だ。
肩に乗った黒竜の腕を振り払うでもなく、ただ、諦めたように目だけを細めた。
「おいおいつれねーなァ!」
ロボは笑って見せた。それが本心なのかどうかは――全く読めない。
「明日、私は一度王都に戻る」
その声が落ちた瞬間、この城が急に遠くなる。
王都は――ゼファレスは、もう動いている。
それに対して、私たちはあまりに無力で、あまりに遠い場所にいた。
「戻って、どうするおつもりですか?」
「まずは即位についてあとどれくらい時間があるかだな。徴用制度に意を称える貴族の名も控えておきたい――居ればの話だが」
アシュレイの言葉には迷いよりも冷徹な計算が勝っていた。
彼はソファから立ち上がり、私とカグツチを代わる代わる見つめた。
「君たちはしばらく、この城に留まるといい。ここなら、奴の空気も届かない」
――ここを本拠地にしろ、ということか。
私は、隣に座るカグツチを見た。
彼はまだ警戒を解いていない。ゆったりとソファに身を預けながらもアシュレイと黒竜の一挙一動に目を光らせていた。
アシュレイを信用したわけではない。
ヴォルシュタインの血を引く男が、いつ私をゼファレスへの手土産に変えるか、その疑いは今も胸の奥で燻っている。
けれど――。
「……分かりました。お言葉に甘えさせていただきます」
ゼファレスという巨大な悪意に狙われ、その支配する世界から弾き出されたという点において、私たちは確かに似た境遇にいた。
今は、退路を確保すること。そして、次の一手を練るための時間が必要だ。
「判断が早くて助かる。……ロボ、案内してやれ」
「へーいへい。お客様のご案内だなァ。……おいガキ、いつまでも食いもん探してんじゃねェ。飯なら後で用意してやっからよ」
ロボウノイシが、だらしなくソファから起き上がる。
「……」
カグツチは不機嫌そうに立ち上がったが、私の半歩後ろへ下がるその立ち位置だけは変わらなかった。
「――私は明日の準備がある。失礼する」
アシュレイはそう言い残すと、一足先に扉の向こうへ消えた。
重たい扉が閉まる。
蝶番のきしむ音が、静まり返った応接室に冷たく響いた。
黒鉄の城――アシュレイの牙城。
ここが、私たちの反撃の起点となるのか、あるいは新たな監獄となるのか。




