37.応接室にて⑤ ロボウノイシ
静まり返った応接室に控えめなノックが響き、私はわずかに肩を揺らした。
アシュレイの前で隙を見せた自分に後悔がよぎる。
その後悔を噛みしめるより先に隣のカグツチが立ち上がった。
立ち上がる音は静かで、しかし空気だけが確実に密度を増す。
彼は私の横に立ったまま、ローテーブル越しに向かいのアシュレイ、そのさらに背後――扉へと視線を刺した。
紅い尾の先が、じり、とソファを擦る。
火花を孕んだ獣の気配だけが、先に扉へ噛みつこうとしていた。
私は息を殺し、扉の方を一直線に見つめた。
「アシュレイ様。ご来客中の折、無礼を承知で申し上げます――火急の用件にて、即時のご対処を」
扉越しの声は低く平板で、感情を排した冷静さすら帯びていた。
聞き覚えのない声。使用人には抑揚が乏しく、軍人にしては礼が整いすぎている。
私は息をひそめ、アシュレイへ目を向ける。
彼もまた顔を上げ、事態を読むように目を細めつつ、咄嗟に何かを探すよう視線を走らせた。
その反応は、想定外としか思えない。
それを察したカグツチが、無言でアシュレイを睨む。
言葉はない。ただ獣の目で、「仕組んだのか」と問い詰めるように。
アシュレイは視線に気づき、わずかに首を振った。
「今は待て――」
アシュレイの制止が終わるより早く、扉の向こうで音がした。
重い蝶番がゆっくりと軋む。
開いた隙間に、黒い影が立っていた。
いや、影ではない。そこだけ空気が痩せて見える。
人の形をした何かが、ぎこちなく室内へ滑り込んできた。
巨体だ。なのに、胴も腕も、そして竜種の特徴である角も尾も、枯れ枝みたいに細い。
黒衣に包まれた肢体。濁った黄金の眼が、金属のように冷たく光る。
あの日、広場でゼファレスの背後に立っていた黒竜――顔の下半分を覆っていた黒革のマスクは、今は腰の金具にぶら下がっていた。
ロボウノイシだ。間違いない。
心臓の音が早鐘を打つ。
私は無意識に、自分の服の裾を握りしめていた。
その緊張を察知したのか、カグツチの身体がわずかに強張る。
呼吸が静かに深くなり、気配だけが変わる。
庇う姿勢のまま、外敵に向けて本能が研ぎ澄まされていく。
黒竜が重い靴音を響かせ、一歩踏み出した。
その音が、あの日の群衆のざわめきを耳の奥に引きずり戻す。
「……あァ? どういうことだよ、アシュレイ」
先ほどの冷静な声とはまるで別人だった。
低く、苛立ちに満ちた声音。さっきの礼儀正しい声は作っていたのだ。
彼は苦虫を噛み潰したような顔で、私たちとアシュレイを交互に見やった。
「……ロボ。今日は大切な客人が来るから控えろと伝えていたはずだが」
アシュレイが眉をひそめる。焦りというより、苛立ちを必死に抑えているような声だ。
「は? 意味わかんねェんだが」
黒い尾を一度振り、乾いた視線をこちらに向け直す。
濁った黄金の瞳が、冷たい金属の光だけを宿してじろりと私とカグツチをなぞった。
「なんでここに逃亡者がいンだよ?」
黒い竜はぶっきらぼうに言い放つ。その顔にあるのは、場違いなほどの無頓着。
「ロボ、下がれ。お前がいるとややこしくなる」
アシュレイの低い制止にも黒竜は眉ひとつ動かさず、返事も雑だ。
この距離感――敵だと断じるには今はまだ情報が足りない。
しかし――
「いや、客人じゃねェだろ――」
言い終わる前に音がした。
空気を裂いたのは紅い尾の唸り。
黒竜が身をひねるより早く、カグツチは前方のローテーブルへ一歩踏み込むと、その端を鷲掴みにして扉の方角へ向かってぶん投げた。
天板が盾のように、あるいは巨大な鈍器となって黒竜の胸へ食い込む。
カグツチに迷いも躊躇もなかった。
重い衝突音とともに黒竜は机を抱え込む形のまま、壁へ叩き込まれるように弾き飛んだ。
机は黒竜の腕から弾かれ、床を跳ねて部屋の隅へ転がる。
「お、おい……っ」
アシュレイが声を上げるが、カグツチの歩みは止まらない。
床に手をついて起き上がろうとする黒竜の頭を一気に掴み――そのまま石の壁へ叩きつけた。
鈍い衝撃が部屋を揺らす。
一瞬、理解が追いつかない。
視線の先で黒竜が、壁にめり込むように沈んでいた。
石壁は蜘蛛の巣のようにひび割れ、破片が床に散らばっている。
だというのに、その中心にいた黒竜の身体には、傷はおろか埃ひとつ付いていなかった。
カグツチは、すぐに私の前へ戻ってきた。
私もアシュレイも息を呑んで硬直する。
時が止まったようだった。
反射的な動き、それなのに一切の手加減がない。
いつもの穏やかなカグツチは、もうどこにもいなかった。
そして――ひどく静かでよく通る低音が響く。
「動くな。さっきの話全部ナシ。オレとルシアは、ここを出る」
カグツチの言葉は命令だった。
怒りはない。しかし、何かを切り捨てる明確な決意があった。
「その竜に後をつけさせたら――壊すから」
そう言ってから、彼はゆっくりと私の方を振り返る。
目が合った。
「ルシア、行こう」
呼ばれたはずなのに、声が耳に届くまでに一拍遅れた。
カグツチの背が、いつもより大きく見える。いや――大きいのは背ではなく、圧だ。
暖炉の火は私を温めていてくれているはずなのに、指先がひどく冷たい。
カグツチの金色の瞳は私だけをまっすぐに見ている。
それなのに、名を呼ぶだけで胸がほどける、あのやわらかさが――そこにはなかった。
ただ、決めている。
この場の支配権は全てカグツチにある。そしてそれを私の返答一つに委ねる。
そういう目だった。
壁の方で、黒い巨体が身じろぎした。
石と肉が擦れる鈍い音。息の漏れる音。
次の瞬間、カグツチは風を切る音より素早く壁に寄ると腕を伸ばし黒竜の頭部を壁へ押し付けた。
ごり、と。
骨ではなく石が軋むみたいな音が室内に残った。
黒竜が苦しそうにもがく。けれど——カグツチは微動だにしない。
押さえつけているというより、そこに「杭」を打ち込んだみたいだった。
読めない表情でもがく黒竜を見下ろしていた。
……なぜ、そこまで。
問いが喉まで来て、声にならなかった。
「……頼む、話を聞いてくれルシア嬢」
アシュレイが低く鋭い声で言う。
「ロボは挑発しているつもりはない。……奴はちょっと特殊で口が悪いだけだ。戦う気など毛頭ない」
「そんなの信じられるわけないだろ。あの日――羽交い締めにされたこと、忘れてねぇからな?」
カグツチは、黒竜を押さえつけたまま更に力を込める。
ロボウノイシは更に壁にめり込んでいるが、手足はぶらんと下がったまま動かない。
――別荘では、アルトのことに触れなかった。なのに今、声が一瞬だけ、知らない色に変わった。
「落ち着け、カグツチ。ロボがここで傷を負えば――ゼファレスは必ず気づく。あの男は竜の些細な変化さえ嗅ぎ分ける。理由を探られれば、君たちに行き着くのは時間の問題だ。……なんの準備も整えず戦闘になればすべてが瓦解する」
アシュレイがこちらを見る。
カグツチを止めろ、と言うつもりらしい。
「私は君を欺くつもりも、敵対するつもりもない。……信じてくれ」
声は冷静を装っていたが、焦りが滲んでいた。
無理もない。
私たちを信用させるために、使用人すら下げていたのだ。
そこに、あの黒竜が現れた。
この場の空気を壊すには、十分すぎる存在だった。
私は静かに、息を吸った。
ゼファレスに気付かれるわけにはいかない。
今ここで混乱を招けば、復讐から遠ざかるだけ。
「カグツチ」
その名を呼ぶと、彼の肩がかすかに揺れた。
私は、まっすぐに彼の背に向かって言った。
「私の隣へ」
それだけだった。
それだけで、彼はようやくロボウノイシから手を離し、壁に押し付けられた黒竜がずるりと床に崩れた。
「……了解」
低く、まだ警戒を滲ませた声。
カグツチは音もなく私の横へと戻り、守るように並んだ。
私の言葉に従いながらも、その身はいつでも守る姿勢のままで。
「……大丈夫か、ロボ」
アシュレイが静かに問いかけた。
壁を伝って、のっそりと立ち上がる黒い巨体。
あれだけ激しく叩きつけられたというのに、ロボウノイシの外見には傷一つ見当たらない。
しかし、その表情は別だった。
眉間には深い皺。
唇はへの字に歪み、目元には獣じみた怒気が浮かんでいる。
「……てめェ……ぶっ殺す……」
低く唸るような声で、ロボウノイシがカグツチを睨みつける。
肩をいからせ、今にも飛びかかりそうな気配。
ロボウノイシが飛びかかろうとし、カグツチが構えたその瞬間――
「やめろ」
アシュレイの声が、氷のように冷たく響いた。
たった一言。
それだけで、空気が張り詰める。
「我々は、同盟を結ぼうとしている」
「……はァ?」
黒竜は不機嫌そうにアシュレイの方を振り返った。
その目には、まだ怒りの焔が燻っていた。
「事が進むのは……お前の望みだろう?」
静かに、しかし確信を突くように。
アシュレイは、ロボウノイシの核心を突いた。
黒竜はしばらく沈黙したままアシュレイを見据えていたが――やがて、目を細めてにやりと笑った。
「オレの愛の勧誘を何百回も無視しやがって……やっと振り向いたと思ったら駒が揃ったからだと? ひでぇな、おい」
口調は軽く、皮肉も冗談めいている。
けれど――その顔には、はっきり喜びが滲んでいた。
まるで獣が餌にありついた時の、それだ。
「……机、壊れてねェよな。俺はこう見えて几帳面なンだよ」
ロボウノイシは床に転がった机を持ち上げ、そのまま元の位置へ据え直した。
その所作は見た目から想像がつかないほど丁寧で、黒竜の異質さをいっそう際立たせる。
机の脚は一本だけ僅かに歪んでいたが、彼は気にした様子もなくそれを置いた。これで几帳面とは、呆れるほかない。
ずしり、と鈍い音。
ロボウノイシが向かいのソファ、アシュレイの隣に腰を下ろした音だ。
空気も読まず、堂々と――いや、傲慢なほど重たく座る。
私は背をソファに沈め直した。
竜種の巨躯、そしてカグツチにはない獣めいた威圧。
おまけに言葉が通じるかどうかいまいち測りきれない。
それらの不安が本能に危機を突きつけてくる。
カグツチも沈黙したまま警戒を解かない。
紅の尾がわずかに揺れ、視線は一瞬たりとも黒竜から外れない。
今にも飛びかかる獣を見る同類の目。
センスよりも遥かに異質なことは――言葉にするまでもなかった。
ロボウノイシ。ゼファレスの二機のうちの一体。
その本人がここにいて、今まさに話し合いへ加わろうとしている。
無意識に喉が鳴った。ここから先は、逃げ道がない。




