35.応接室にて③ 血統という道具
外は吹雪いているのだろうか、窓ガラスに叩きつけられた雪の音が室内に響いていた。
アシュレイの言葉に、声が出なかった。
問い返す余地も、拒む余地もない沈黙のまま――時間だけが過ぎていく。
「新しい王家では貴族は動かない。――家格が足りない。だがヴァレットの名なら動く」
畳み掛けるように、アシュレイは続ける。
「――私はゼファレスを討ちます。その後のことは、アシュレイ様が好きなようになさって。政でも商売でも……欲しいものをお取りになればよろしいでしょう」
皮肉も、含みも乗せない。私はただ事実だけを置いた。
アシュレイはわずかに目を伏せ、手を組み直す。暖炉の火が、ぱちり、と乾いた音を立てた。
「私は……王の器ではない」
その瞳は、いまこの話し合いの場ではなく――氷の城に住む少女だけを映しているように思えた。
アシュレイの言葉に、私は静かに微笑んだ。
「――えぇ。でしょうね。だからこそお伺いしますわ。王を討つと言うことはもちろん――失う覚悟があってのことですわよね?」
その一言に、アシュレイのまつげがわずかに震えた。
「私はもう失いました。守るべき相手を。二度と戻らない未来を」
息をひとつ置いて、私は彼を見据えた。
アシュレイの視線が揺れる。
「ノエルさんを置いて戦うこともできない。かといって彼女を守り切る力もない。……だから、私に玉座に座れと。そんなもの、誰も救えないやり方ですわ」
「……やはり次の王の椅子に座るのは君であるべきだ。ルシア・ヴァレット」
静かな声だった。そこに誠実さがあることは分かる。
けれど同じだけ、引かぬ覚悟も滲んでいる。
私は微笑んだ。
「ご期待に添えなくて申し訳ありませんが――私はあんな座り心地の悪い椅子など、興味ありません」
私が望むのはただ一つ。ゼファレスの首、それだけだ。
「座って見なければ分からないこともあるのでは」
アシュレイは、こちらを見据えたまま言う。引くつもりはないらしい。
――そして、もう隠しもしない。政治の言葉の奥で、別の動機が脈を打っている。
この男はただ、ノエル・スコットを傷つけるものを全部排除したい。
その願いが、正論の衣を着ているだけだ。
「――王になったところで、失ったものは戻らない」
それだけで十分だった。言い切った瞬間、雪の音が一段強くなる。
アシュレイのまぶたが一度だけ動く。
「君はヴァレット家の名を背負う者だ。この国に、責任を負う義務がある。それとも……二千年の誇りを、君の代で潰すと?」
そう言って、彼はヴァレットという名を盾に差し出した。
ああ――その言葉、何度自分に言い聞かせてきたことか。
名を守れ。誇りを失うな。感情は捨てろ――貴族であれ。
私はアルトに、カグツチに、それを教え込んだ。
――切り捨てないために。
まさかその理屈を今、まだ失っていないだけの人間が私に向けてくるとは思わなかった。
しかし、声が落ちた。
「ノエルを守りたいなら、お前が王になれよ。ルシアを道具にするな」
カグツチだった。
「ルシアの意思を曲げようとするなら――次に折れるのは、お前だ」
怒鳴っているわけではない。
けれど、部屋の空気が一瞬だけ、刃物のように張り詰めた。
殺気は私に向けられていない。
ただ一直線に、アシュレイの喉元へ突きつけられている。
彼の指先だけが静かに強張る。――彼にだけ届いている。
竜の「次」がどこに向かうのか――その想像だけで、十分に現実だった。
その様子で、胸の奥の熱がすっと引いた。
いまはまだ、私の言葉が届いている。
私のままで、彼と対話できている。
けれど――主語が私じゃなくなったら。
私が、言葉の代わりに彼の牙を望んだとしたら。
その瞬間、私は彼を剣にしてしまう。
一つ、背筋を伸ばす。
私がいま立っているのは世界のためでも、家のためでもない。
あの男を殺さなければ、私が終われなかったからだ。
私は心を鉄にして、貴族の仮面を被り直す。
「カグツチが失礼を。……でも、今さらヴァレット家を盾にされるとは思いませんでしたわ。二千年を生きた血統が、そんなに都合のいい道具だったとは知りませんでした」
私の声にカグツチは殺気を収めた。
アシュレイは目を伏せ、ひとつ息をつく。
「……これは、決裂ということか」
「私の戦いは、私のためのものです。……でも、それが誰かの始まりになるなら、それでも構いません。私は私の責任を果たすだけ。――終わりは、後の世が決めればいい」
ぱちぱちと渇いた音を立てて、暖炉の火が燃えている。
石造りの壁は冷たいが、暖炉の熱がわずかに空気を和らげていた。
沈黙の中で、私たちは結論だけを拾い上げた。
「混乱の後に生まれるのが新しい秩序だ。――君が王にならないのなら、それでも構わない」
アシュレイが静かに言葉を置いた。私は小さく頷く。
「ええ。私たちは目的こそ違えど、今のところは敵が同じです。……互いの利点だけで手を結ぶのは最も合理的ですね」
それは刹那の協定。信頼ではなく、信用。
互いに背を預けることはせず、ただ――同じ的に向けて矢を放つための、冷たい同盟。
それで十分だった。私たちはそういう立場にいる。
アシュレイは深く頷くと、懐から革表紙の手帳を取り出し、テーブルの上に置いた。
厚みといい、重みといい、いかにも軍事記録然とした佇まいだった。
「同盟の手付けだ。――ゼファレスに関する情報を渡す」
吹雪の音が、会話の続きを急かしていた。




