27.還る
ノエルたちの背が、焚き火の奥に小さくなっていく。炎の揺らめきがまぶたの裏に焼きついたまま、私は思考を巡らせていた。
「……ルシア」
声がした。振り向くと、カグツチがいつになく真剣な目で私を見つめていた。
「行こう。……もう、終わりが近い」
その言葉に、息を呑む。
「なぜ、それが分かるのですか……」
「竜種だから、かな。なんとなく、ここで」
そう言ってカグツチは自らの頭部から白く伸びる角に触れた。
否定しようとして――でも、できなかった。
胸の奥に、ずっと疼いていた何か。
焚き火の熱さの裏にあった微かな違和感の正体を、ようやく言葉にされた気がした。
砂時計の最後の一粒が、いままさに落ちようとしていた。
私は無言で頷き、彼の背を追う。
カグツチは一階の廊下を小走りに進み、時折振り返って私の存在を確かめる。
無人の部屋が並ぶ静かな廊下。
使われていない扉をいくつも通り過ぎ――カグツチの足が止まった。
目の前の扉はわずかに開いている。
促されるまま近づき、意を決して手をかけた。
扉を開くと、石造りの重厚な寝台には毛布が幾重にも敷かれており、その中央にセンスが静かに横たわっていた。
傍らではノエルが彼を見守るように佇んでいる。
薄く開いたカーテンの向こうから、冬の白い光が差し込んでいた。
この部屋の空気は、まるで時が止まったかのように凍りついていた。
「ノエ――」
思わず声をかけた私の足が、入口で止まった。
ノエルが、ゆっくりとこちらを振り返る。
その手のひらには、砕けた何かの破片が乗っていた。
見ただけで分かった。
それはセンスの角──彼の命そのもの。
それでもノエルは泣いていなかった。
けれど、その表情はあまりに静かだった。
彼女は泣かないという選択だけでそこに立っているように見えた。
それはほんの少しでも誰かが触れれば、壊れてしまう硝子細工のようだった。
「……やはり分かるんですね、カグツチ。来ていただけて、嬉しいです」
穏やかに語ったのは、寝台に横たわるセンスだった。
右の角は既に砕け散っていたが、左の角はまだ保たれていた。
それでも時間の問題だと言うのは見れば分かる。
彼は身じろぎ一つせず、ただ静かに、確かに終わりを受け入れている。
「ふふ、どうやら……限界の、ようです」
いつもの飄々とした軽さを装うことさえもう限界に見えた。
ノエルが差し出した手のひらに、砕けた角のかけらがひとつ、こぼれそうに乗っている。
それを見つめたまま、センスは穏やかに言葉を紡いだ。
「どうぞ、ご心配なさらずに。人間と、僕たちの死は違います。痛みはありません」
静かな声音には、痛みも恐れもなかった。
「……ルシアさん、あなたの家の竜の言葉をどうしても伝えておきたいのです」
そう言って、彼は小さく微笑んだ。
「あれは――僕にとって、スピカさんの最後の言葉でした。彼の角にひびが入ったとき、空を指して教えてくれたのです。あそこへ還るのだと」
センスの視線が、ゆっくりと窓の方へ向けられる。
空は明るかった。冬の光は薄いのに、やけに目に刺さった。
それなのに一瞬だけ、白い空がきらりと割れて見えた。
彼の声に、後悔は感じられなかった。
淡々と、遺言のように語っていた。
「……彼はきっと、あなたを見守ってくれていますよ」
そして視線を私に戻すと、少しだけ声音を変える。
「……スピカさんは、きっと自分の名をよく理解していたんです。だからきっと、ああして空を指せたのでしょうね」
窓から僅かに差し込んだ光がセンスの横顔を照らす。
その目は遠くを見ているようで、どこにも焦点が合っていない。
「僕には、彼のように還る場所が分かるわけではありません。……でも、終わりが近づくと、不思議と何か思い出す気がするのです。どこか、懐かしい風のような……言葉にならない何かを」
彼の言葉に、ノエルは微かに瞼を伏せてから、まっすぐ彼を見つめ返す。
「――お嬢様、どうか僕の身体は燃やしてください。ふふ、カグツチは火が得意だと言っていたので、彼にお願いしましょうか」
まるで終わりに向かう人の言葉のように、彼は淡々と終末を語る。
「……わかった」
「それから……それも一緒に燃やしてくれると嬉しいです」
そう言ってセンスは視線だけで寝台の端っこに飾られたボロボロのぬいぐるみを示した。
元の色はよくわからないが――恐らく、青い鳥を模した子供向けのぬいぐるみのようだ。
センスにとってそれは大切なもののようだが、目は取れ掛かっており、ひどく薄汚れている。
随分と年季が入っていて、手入れされた様子はない。
「……わかりましたわ」
ノエルは目を伏せた。
「それから、そうですね……もし一人で寂しくなったら王都へ戻るのですよ。大丈夫です、いまのお嬢様ならご自分の居場所だって自分の手で作り上げることは容易いはずです」
「――センス。あなたがいなくなったって、私はやれるわ。だから、心配しないでちょうだい」
その声は僅かに震えていた。
理不尽に対するどうしようもない怒りと悲しみがないまぜになっていた。
それでも彼女は、それらすべてを飲み込んで――ただ、前を向いて立っていた。
その声音には、確かに、どうしようもない寂しさが滲んでいた。
「えぇ……心配はしておりません。ノエルお嬢様は……とても、お強い方ですから」
センスの言葉に、ノエルの肩が僅かに揺れる。
それでも彼女は泣かなかった。
笑みさえ浮かべようとしながら、ただ、まっすぐにセンスを見つめていた。
「あぁ……これが最期になりますね」
センスは横たわったまま、微笑んだ。
それは、ノエルに向けられたものであり――そして、見守る私たち全員へ向けたような、穏やかな別れの微笑だった。
「竜は一生に一度、卵の中で夢を見るそうです。それが原初の夢――名の因果が定まる瞬間に見る夢だと。普通は目覚めた瞬間に全て忘れてしまうそうですが」
センスは微笑んだまま、目を細めた。
「僕は、なぜか少しだけ――覚えていて」
ノエルの肩が、かすかに震えた。
「誰かが、僕を見つめていました。最期の瞬間、暖かい部屋で。ずっとそばで、静かに。……それが誰なのかを、いつか確かめたいと、ただ、そう思っていたんです。この城に来てから、予感はありました」
ぴし、と——角の内側で何かが割れる音がした。
「……ノエルお嬢様、やはり……あなた、だった」
センスの最後のひびが角を侵食し、砕け散る。
それは、まるで雪原に舞う粉雪のようだった。
きらきらと宝石のようにきらめいて、不謹慎にも――美しいと感じていた。
「……センス?」
彼は満足そうに微笑みながら、最後の力を振り絞って、そっと瞼を閉じた。
彼の胸が、もう上下しない。
笑みを浮かべたまま、センスは静かに、永遠の眠りについた。
ノエルは、しばらく何も言わなかった。
けれどその肩が、震えているのが分かる。
それでも何も言わず、彼女は竜を――家族の最期を涙声で潰さぬよう懸命に堪えていた。
彼女の掌の中で、砕けた角のかけらが、静かに光を失いかけていた。
カグツチは、窓の外をじっと見つめていた。
「……還るって、そういうことか」
冬の昼は短く、空は珍しく白く澄んでいた。




