23.淘汰されたもの
「その点、カグツチは少し変わっておられますわよね。あの子、ルシアさんのことになると……迷いませんもの」
「――それはきっと、カグツチの育った家が少し特殊だからです」
焚き火の向こうで、枝をくべていたカグツチが手を止めた。
振り向きはしない。ただ、火の揺れが一瞬だけ乱れる。
「彼の過ごした家も、主も――彼を家族として扱ってきました。だからきっと、彼は……人として扱われることに、慣れているのでしょうね」
それは、私自身の理解だった。
竜が従順なのは、そう育てられてきたから。
貴族が、そう仕立ててきたから。
だから彼は――少し、違って見える。
「まるでスピカさんのようですね、彼の育ちは」
センスの言葉に、私は小さく頷いた。
「そうですね……似ているのかもしれません」
実際、似ていたのだろう。
ヴァレットと、アグレストは。
竜を道具として扱いながらも、それでも家族という形を、最後まで手放さなかった家。
焚き火が、ぱちっと音を立てる。
カグツチは、まだこちらを見ない。
火の中に視線を落としたまま、何かを思い出すように、ほんの一瞬だけ表情を曇らせた。
それでも怒りはなかった。
あの日、すべてを奪ったはずの男に対しても。
なぜだろう。
竜はこんなにも従順で、静かで。
――なぜ、彼らは怒らないのだろう。
その問いだけが、焚き火の熱の中で、答えを持たないまま残っていた。
焚き火の明かりに浮かぶセンスの横顔は、どこか達観していて、そんな私の内心を見透かしたかのように、口を開いた。
「……不思議に思われますか? なぜ僕たちが、そうまでされて怒らないのか」
焚き火の光を見つめながら、センスはぽつりと続ける。
「――僕たち竜種に怒りと言う感情は備わっていません」
一瞬、呼吸を忘れてしまう。
ノエルの息を呑む音が聞こえた。
「怒る竜もいたのでしょうね。でも、そういう個体は――淘汰されました」
淘汰――その言葉を頭の中で反芻する。
決して軽々しく使える言葉ではないはずだ。
しかし、センスは敢えて淘汰と表現した。
「淘汰、って……」
ノエルの声が震えていた。
「ええ。逆らうことしか知らないようなのが。僕には到底理解出来ない感情です」
「つまり……選別したと言うのですか。人間が」
そう続けたノエルの声は小さくか細い。
けれど――僅かに怒気を含んでいた。
センスは肩をすくめ、少し芝居がかった笑みを浮かべる。
「えぇ、選別されたんです。人間ではなく、竜種のメスに」
「……? どういうことですの?」
「怒りを持った個体は全くモテません」
「モ………………モテない!?」
ノエルは驚きの声を上げてひっくり返った。
慌てて起き上がり、怪訝そうな顔でセンスを見ている。
大丈夫ですか、と声をかけたが、私の言葉には感情がこもっていなかった。
「そ……そんな俗っぽい理由で何をされても怒らないと言うんですの!?」
センスは否定も肯定もせず、焚き火に小枝を放り込む。
ぱち、と火花が弾けた。
「えぇ。怒りは、繁殖に不利だった。それだけの話です」
あまりにも簡潔な言い方だった。
そこに善悪はなく、裁きも、意図もない。
「竜種のメスは強い。力も、選択権も持っている。だから彼女たちは、扱いにくいオスを選ばなかった。ただそれだけです」
彼は渇いた枝をくるくると回す。
「メスからすれば、怒るだけで手に負えないオスより、従順で賢く尽くしてくれるオスの方がいいに決まってますからね」
火の粉がぱち、と爆ぜる。
私は二人の会話を黙って聞いていた。
「……じゃ、じゃあ、従順なのは人間が竜種を選別したとか、そういう話ではなく……?」
「結果です」
センスは即答した。
「そうやって何千年も掛けて、怒らない竜が当たり前になった。怒る機能そのものが、必要とされなくなったんですよ。ね、自然淘汰って偉大でしょう?」
冗談めかした口調の裏に、どこか諦めにも似た声色が混じる。
「……もっとも」
センスは、枝を手でくるくると弄びながら、ほんの一瞬だけ言葉を濁した。
「選ばれなかったものが、すべて綺麗に消えたとは限りませんがね」
結ぶように言い終えると、短い沈黙が落ちる。
やがてセンスは少し枝を回す手を止め、それから、ふと私の方へと視線を移した。
「――ですから、カグツチの従順さは育ちの影響ではありません」
その言葉は、どこか釘を刺すようでもあった。
「彼が怒らないのは、優しいからでも、理性的だからでもない。竜種として、ごく自然な振る舞いです」
その言葉は、静かだった。
だからこそ、胸の奥に、鈍い音を立てて沈んだ。
――特別じゃない。
――逸脱していない。
そういう単純な話ではない。
私の中で崩れたのは、別のものだった。
「……でも」
思わず、声が漏れる。
「それなら……」
言葉の先が、うまく繋がらない。
彼は奪われたはずだ。
主を。居場所を。未来を。
それでも、怒らなかったのは――怒るという感情を持ち得なかったから。
焚き火の熱が、じんわりと頬を撫でる。
その温度が、やけに現実的で、逃げ場がなかった。
もし、怒りが存在しないのだとしたら。
もし、それが構造だとしたら。
では――。
なぜ彼は、私の剣になると言ったのだろう。
なぜ、自分のためには怒れない存在が、他者のために、あれほど強い意志を示すのか。
ゼファレスに向けられなかったものが、なぜ、私にだけ向けられるのか。
それは怒りでも、憎しみでもない。
それでも――感情としか呼べないものが、確かにあった。
――竜に怒りは存在しない。
それが真実だとしても。
それでも、なお残るこの違和感はいったい、何なのだろう。
焚き火の中で、答えにならない問いだけが、静かに、燃え残っていた。




