21.ノエルの庭
朝食を終え、一息ついたところで立ち上がる。
まだ謎の酸味のような甘みが口の中に残っていた。調味料は……聞かないでおこう。
カグツチがトレイを持ち、ノエルの後について炊事場へ向かう。
まずは食器を片づけるためだ。
一週間も寝たきりだったせいか、足取りは少し重たい。
自分の足で城を歩くのはこれが初めてだった。
廊下はどこまでも静かで、足音だけがやわらかく反響する。
「ルシア、大丈夫? 抱っこしようか?」
私の足取りが重いことに気付いたのだろうか。
「いえ。早く体力を戻さないといけませんので」
「そう? じゃあ抱っこしてほしくなったら言ってね」
「……子どもじゃないのですから」
そんなやり取りを見ていたノエルは、足を止め、わざとらしく一つ咳払いをした。
振り返ったその表情は、呆れと安堵が半分ずつ混ざったような色をしていた。
「ほんと、過保護ですわねぇ……」
しばらくそのまま歩いていると、壁際にはところどころに調度品らしきものが並んでいた。
繊細な彫刻を施された木製の雪だるまや、手作り風のオーナメント。――城に飾るものとしては、少し質素だ。
「それ、私がこの城に来たばかりの頃に作ったものですの。実用性が皆無だと気づいてからは、もう増やしておりませんことよ。おほほ」
「私は結構好きです。とても可愛らしくて」
「ふふ。ありがとうございますわ、ルシアさん。でも、雪だるまを削る時間があるなら畝の一つでも作る方が有意義ですのよ! どっせい!」
前にも聞いたけれど、その鳴き声は何なのだろう。
そして。
『うね』とはなんのことを言っているのだろう。
ノエルについていけば分かるだろうか。
彼女といると新しい発見の連続でとても新鮮だ。
後ろを歩く足取りが自然と軽くなる。
角を曲がると、炊事場が見えてくる。
「ここに置いとけばいい?」
カグツチがトレイをテーブルに置く。
「えぇ、そこで構いませんわ。それより――見ていただきたいのは、あちらですの!」
ノエルは髪を揺らしながら、小走りに炊事場を抜けていく。
その背を追って、私とカグツチも歩を進めた。
城の中央へ近づくにつれ、石の床に淡い光が差し始める。
見上げると、広々としたガラス張りの天井が現れた。
吹き抜けの天井に、雪の結晶が描かれた大きなガラスがはめ込まれている。
氷と石に閉ざされた城の中で、唯一、空と陽光が許された空間だ。
これが――この城が氷の城と呼ばれる所以なのだろうとすぐに理解できた。
柔らかな朝の光が降り注ぎ、陽だまりが石畳をやさしく包んでいた。
天井から差す光の柱は美しく、凍てついた世界にひっそりと咲いた小さな春のようだった。
しかし――その中央には、じゃがいも畑が堂々と鎮座していた。
光と氷が織りなす神々しい神殿に、じゃがいもの葉がしゃんと伸びている。
「……あ、あは、あはは! そうですわよね、言葉を失いますわよね!? 幻想的なお庭が、いまはじゃがいも畑! 笑ってくださいませ、まるでスコットのようだと!」
「い、いえ……笑いません。とても幻想的な畑だと思います」
氷の城に来てから、どうやら私の語彙力は随分と鈍ってしまったようだ。
「ルシア、上のガラスのとこ見て。あれ、この間オレが張り替えたやつ」
カグツチが空気を読まずに天井を指さした。
まるでご褒美をねだる大きな犬のように、褒められ待ちをしている。
「まぁ……あんな高い場所を? 頑張りましたね、カグツチ」
ノエルの自嘲と、広がるじゃがいも畑。
そのあいだに差し込まれたカグツチの言葉は、場の空気を読まない幼子のようだった。
――けれど、それがどこか優しくて、救われるようでもあった。
「……センスがいないと、逆に物足りなく感じている私が憎らしいですわ」
温室の壁に小さな通気口があり、そこから緩やかな風が流れていた。
じゃがいもの葉が、朝の光を受けて静かに揺れている。
その間を抜ける風の音さえ、どこか行儀がいい。
いつもなら、ここで一言余計な冗談が挟まる。
場違いな皮肉か、意味の分からない例え話か。
そういうものが、今日はない。
――少しだけ、静かすぎる。
その瞬間、温室の入口に気配を感じる。
まるで計ったように、センスはそこに立っていた。
「ふふ、おまたせしましたお嬢様。ご所望の僕です」
「あら、やっと起きたのかしら。……朝食、すぐに用意していいかしら?」
拗ねたようなノエルの声には、皮肉と――安堵が等しく滲んでいた。
「いえ、朝食は結構です」
「あら、そう……」
二人のやりとりは、穏やかな日常の一幕に見えた。
けれど私は、その中に確かに――違和感を覚えた。
この一週間、センスはカグツチよりも規則正しい生活を送っていた。
夜は早く床につき、朝は決まった時間に起きて、私の様子を見に来る。
時に会話を交わし、時にノエルの料理に口を挟み――まるで、この城での暮らしを楽しんでいるかのように振る舞っていた。
彼の身体はもう壊れかけている。
それなのに、壊れた素振りひとつ見せず、まるで死と無縁の存在のように、自由に、気まぐれに――この冬の城を舞っていた。
センスの角のひびは、昨日よりも――確かに、深くなっていた。
けれど彼は、それに気づいていないふりか、本当に気にも留めていないのか、今日もまた飄々と笑っている。
まるで彼自身が限りある砂時計のように見えて――私は、思わず視線を逸らした。




