17.距離感
しばらくして、ノエルが紅茶のカップをトレーに乗せて部屋へ戻ってきた。
さきほど、私が汚してしまったものと似たようなドレスに着替えたうえで「お茶を淹れてから作業に戻る」と言い残して出ていったのだが――その新しいドレスも、ところどころが泥でくすんでいた。
テーブルの上にカップを並べるノエルに思い切って聞いてみることにした。
「……あの、ノエルさん? なぜそのように、土まみれなのでしょうか?」
「あら。お洗濯で落ちきりませんでしたのね。話せば長くなりますわ……」
神妙な面持ちでそう言った彼女の背後から、センスが淡々と続ける。
「お嬢様は趣味で家庭菜園を嗜んでおりまして。この城の中央にある、豪華絢爛なガラス張りの吹き抜けを――あろうことか、自らの手で温室に改造なさったのです」
「……え?」
全く絵面が浮かばず、思わず聞き返してしまった。
「そう! ドゥー・イット・ユアセルフですわ!!」
ノエルが突然、妙な抑揚のかかった謎の呪文を叫んだ。
先ほども言っていた気がするが、その言葉は私が見た本の中にも知識の中にも存在しない。
そして、どこか誇らしげに胸を張る。
「えぇと……それは、どういう……?」
「お嬢様が語感だけで作られた造語です。意味は、いまだに僕にもわかりかねますが……妙に語感だけは良いので、定着してしまいました」
センスは困ったように笑う。
「自らの手で! 思うがままに! 城を弄ることの喜び――それを一言で表すならば、この言葉しかないのですわ!」
彼女は、宝石のようにきらきらとした瞳で、こちらを見つめてくる。
だが私は、何ひとつ理解できないまま、ただ静かに頷くしかなかった。
「いかにも悪役令嬢が……土いじり……? 格下を埋めるんじゃなくて?」
カグツチが、私の心の声をそのまま言葉にした。
いえ、そんなことを私は一言も口にしておりませんよ? あくまで、カグツチの意見です。えぇ、私のではなく。
「ちょっとそこの竜種、私の手伝いをしなさい。吹き抜けのガラスの一枚にひびが入っているから取り替えたいの。一人では少し大変なのよ」
ノエルが、軽い調子で言葉を投げる。
しかし、カグツチは即座に首を振った。
「え、やだ。ルシアから離れるわけにはいかないし」
そう言いながら、彼の尻尾が私の腰へとぴたりと絡まった。
ぐっと距離が近くなり、柔らかな熱が背中に張りつく。
私の知る彼は、大きいくせにどこか子どものようで――いや、それは今も変わらないのだけれど。
それでも、こんなにも私に執着するような竜では、なかったはずだ。
……あの日から。
やはり、カグツチの距離感がおかしい。
「カグツチ、こうして宿を提供していただいているのですから……あまりわがままを言ってはいけませんよ」
私はできるだけ柔らかく嗜めたつもりだった。
けれど、彼の瞳は揺るがなかった。
「オレがノエルについていったとして、センスはここに残るわけだろ。――それは絶対イヤだ」
静かに、けれど確かに含んだ怒気を帯びた独占欲。
その声に、私の背筋がひやりとした。
違う――カグツチは、こんな風に怒りを滲ませた事すらなかった。
「……カグツチ。どうしたのですか。少し、様子が――おかしいですよ?」
「なるほど」
センスの金の瞳が、微かに光を宿した。
「まさかとは思いましたが……そんなことが、あるんですか。この城を訪ねてきた時から、ずっと、言葉にしにくい居心地の悪さがあったのですが……そういう事ですか」
その言葉に、私は思わずセンスの顔を見つめた。
しかし彼はそれ以上、私を見ることはなく、ただ窓の外に視線を投げている。
まるで、確信に変わった何かを、ようやく口にする時を待っていたかのように。
「オレは、ルシアの熱が下がるまでここを離れない」
カグツチが低く、はっきりと言った。
まるで、それが当然だというふうに。
主従の忠誠でもなければ、礼儀でもない。
もっと深く、もっと個人的で――動かしがたい本能のような声だった。
「……さっきから言い訳ばかり。あなたには力があるんでしょう? だったら手伝いなさいな」
ノエルはカグツチを真っ直ぐに睨みつけていた。
叱るというより――命令するような、あの鋭い瞳。
けれど、カグツチは私の隣にどっかりと座ったまま動かない。
「……オレは、ルシアから離れたくない」
今にも尻尾を巻きつけてこようとするその様子に、私も一歩引いてしまう。
でも、主を喪った寂しさから来るものだとしたら――そう考えると、その尾を払いのける事は出来ない。
やがて、ノエルの声が低く落ちた。
「もし――吹き抜けのガラスが落ちたら、ルシアさんの命に関わりますのよ」
カグツチの尾がぴくりと動いた。
「……脅し? センスに頼めよ、お前んちのドラグマキナなんだろ」
カグツチはセンスに指を突きつけて言った。
思わずセンスに視線を向けるが――彼は微笑んだまま、カグツチに一切臆している様子はない。
「ドラグマキナではありません、竜種です。そこ、間違えないように。あと角が割れますので、ご遠慮します」
その声音も表情も穏やかなのに、頑なに蔑称だけは否定した。
センスの中で譲れない何かがあるのだろう。
「脅しじゃないわ。交渉よ」
ノエルの視線が、絡みついた尻尾へと落ちた。
キッと睨みつけたあと、つかつかと歩み寄り容赦なく尻尾をつかんだ。
「さ、行くわよ。センス、あとはよろしく」
「おい、ちょっ、やめろっ……尻尾は反則っ……引っ張んなぁぁっ……! ぎゅってすると力抜けるっ! やめろぉぉぉ!」
「どっせい!」
……抵抗しているように見えるけれど、あれは明らかに手加減している。
必死に抵抗するカグツチを尻目に、ノエルはひとりでずんずんと進んでいく。
引きずられるようにして、カグツチは廊下の向こうへと姿を消していった。
ドアが閉まる音の後。静けさが戻って来る。
残されたのは、静かに佇むセンスと、目を瞬かせる私だけだった。
「さて。……お嬢様が失礼いたしました」
「いえ、カグツチの方こそとんだご無礼を……」
嵐が過ぎ去った後のように、部屋に静寂が満ちる。
カップから立ち上る湯気が、緩やかにセンスの輪郭をぼかしていた。
「身体のだるさはまだ抜けませんか?」
「……えぇ」
「では、しばらく休んでください」
「……ありがとうございます」
無言の時間が流れる。
身体を布団に預けると、やっと肺の隅々まで酸素が行き渡る。
けれど、空気は静まりきってはいなかった。
背中を向けていても、ソファに座るセンスの視線がただただ突き刺さる。
それは明確に――もっと話がしたいという欲求だ。
スピカの事も聞きたいし、話したいのは山々だけれど――今は布団の温もりに身を委ねていたかった。
この氷の城の空気は、名前とは真逆にとてもあたたかく、心地よい。
まるで自分のいる場所がそうなのだと錯覚してしまいそうになる。
しかし――目を閉じれば脳裏に浮かぶのは血溜まりだ。
目を閉じたまま、私は思考を手放す。
そして、ただ静かに――熱に身を沈めた。




