16.因果継承体
「ところでさ、お前の角――なんでひび入ってんの?」
遠慮という概念をどこかに置いてきたようなカグツチの問いに、一瞬呼吸が止まる。
カグツチはごく自然に、私が座っているベッドの隅っこに腰を下ろした。それだけでベッドの端が深く沈む。
しかしセンスは微笑んだだけだった。
「……ああ、これですか」
指先が触れた角には、蜘蛛の巣じみた亀裂がいくつも刻まれている。
それまで行儀よくソファに腰掛けていたセンスは、足を組んだ。
センスの背後で尻尾が大きく揺れ、ソファの背もたれにぱたんと掛けられる。
「因果継承体に走るひび――つまり寿命です」
その言葉のあと、部屋の中の時間が止まった気がした。
この城に辿り着いたときにセンスの角のびびを見て一番に感じた、背筋の冷えるような感覚を思い出し、私は俯いた。
私もカグツチも、次の言葉を見つけられなかった。
「……え、ひび? 寿命? なにそれ?」
一部貴族の間では、竜の角のひびについては周知の事実であるが、私はアルトにその事を話したことは無かった。だからカグツチが知らないのも無理はない。
見上げると、カグツチは自分の頭部に生えた枝のように伸びる角に触れながら、目を見開いている。
角のひびとはつまり、それほどの事なのだ。
自分の死を――センスはそれを今朝の献立を語るように言っていた。
「えぇ。因果継承体が折れれば竜は死にます」
「って言うか因果継承体ってなに? 初めて聞いた。ルシアは?」
「角のひびが竜の寿命に直結する事については知っていました。しかしその言葉は……いえ、それより」
そんな言葉は歴史書でも見たことも、聞いたこともない。
しかし、そんな事よりも聞いておかなければいけない事がある。
「彼女は――ノエルさんは、知ってるのですか」
「えぇ、もちろんです」
その即答に、頭が重くなる。
熱のせいだろうか。理由はわからない。
ただ、知っているという事実だけが、想像よりも重かった。
ノエルの横顔が脳裏に浮かんだ
その姿に、かつて――まだ何も知らなかった頃の自分が、一瞬だけ重なる。
同じ痛みを辿る必要はない。
そう思った感情が何だったのか、確かめる前に、私はそれを飲み込んだ。
「折れなきゃ大丈夫ってもんじゃなさそうだよな。治るものでも……ないんだよな」
いつもの軽口ではなく、カグツチのその声色は真剣そのものだった。
彼はそれきり口を閉ざし、珍しく次の言葉を探すように視線を落とした。
「では、そちらの紅竜の質問にも答えましょうか。角は因果継承体そのものではありません。……ただ、異変があれば、最初に表に出る」
その言葉を追おうとして、私は無意識に毛布の端を握りしめていた。
熱のせいか、思考がひどくゆっくりだ。
センスはこちらの反応を観察するような視線で私を見た。
そして――
「僕がこの話を聞いたのはスピカさんからです」
言い終えると、センスは瞳を細め、どこか期待を含んだような目で私を見た。
――その名は、鼓膜にゆっくりと染み込んだ。
「――スピカ」
名を呟いた私を見て、センスは組んでいた足をゆっくり解き、僅かに姿勢を正した。
その名を、思わず口の中で繰り返していた。
まさか、その名前が今ここで出てくるとは思いもしなかった。
「えぇ、かつてヴァレット家の竜だった彼の名です」
スピカはヴァレット家が代々受け継いできたドラグマキナ。
私が生まれる数年前に亡くなったと母から聞いた。
顔を見たことも、声を聞いたこともない。
私のスピカの記憶は、母の言葉の中だけに生きていた。
「この角は、触れられぬ隣の世界と、因果で繋がる結び目のようなもの――……と、スピカさんは仰っていました」
その言葉を理解するより先に、聞きなれない単語に思考が止まる。
センスは当たり前のように話すけど、理解はまるで付いてこない。
それでも、聞き流していい言葉ではない気がした。
センスは、わずかに目元を緩めた。
その仕草は、どこか懐かしさを含み愉しんでいる様子だ。
どうやらこの竜は、会話そのものを愉しむ性質なのかもしれない。
「――もっとも、意味は僕にもよく分かりません。スピカさんが選んだ言葉を、そのまま覚えているだけです」
「……すみません、頭が熱のせいで、少し追いつかなくて」
「いいんですよ。僕が喋っておきたいだけです」
センスはわずかに目元を緩めた。
やがて、ひと呼吸置いて問いかけるように続ける。
「竜にとって名前が特別であることは、ご存じですか?」
「あぁ。竜の母から名をもらう、ってルシアが言ってたね」
思考が回らない私の代わりにカグツチが答えた。
「名とは、竜にとって――最初の因果の糸、なのだそうです」
「……うん?」
「つまり――今のあなたがここにいる理由の一部、というだけです」
穏やかな声にその場の空気がわずかに緩んだ。
センスはさらにひと呼吸置いてから、正面にいるカグツチへと視線を移した。
――すべてを理解するには、まだ早い。
しかし、その名だけは胸に残った。
「――ところで、先ほどから自己紹介ひとつ満足にできていない紅竜の坊や。君の名は?」
私は思わず頭を抱えた。
てっきり私が気を失っている間に、自己紹介は当たり前のように済ませていると思っていた。
熱と身体の重さに気を取られていたとはいえ、お世話になった相手に名前すら告げていなかったとは。
「あー……ごめん。オレはカグツチ」
バツの悪そうに答えるカグツチ。
それでも私のそばからは離れず、ぴたりと寄り添っていた。
「ふふ、なるほど――カグツチ、ですか」
センスは意味ありげに笑みを浮かべる。
「オレの名って特別なの?」
「特別――そうですね、母からもらった名前が特別でないわけありませんから」
カグツチの言葉の意図とは違ったのだろう。
しかし、その言葉はひどく重いものに感じられた。
「――僕はスピカさんのように隣の世界を覗き見る事は出来ません。君の名が、どのような意味を持つのかは分かりません」
センスは、因果継承体について完全に理解させるつもりはないように思えた。
もしくは――すべてを知っているわけではないのかもしれない。
「そっか。やっぱり意味はわかんないんだな」
カグツチの尻尾がぱたん、と落ちて床に向かって垂れ下がる。
「ちなみにセンスは何ができんの?」
「僕ですか?」
センスは問い返すように目を細め、肩をすくめる。
「竜種の強さは、生まれた時の名で定められてるんだろ?」
「えぇ。僕は風をひと吹き起こす程度の、実に役に立たないドラグマキナですよ」
笑っているのに、踏み込んではいけない場所に触れた気がした。
蔑称、と切り捨てた名称を敢えて自分に付けるほどには触れてほしくない話題だったのかもしれない。
それでも、彼は終始会話を楽しんでいように思える。
「センスは、とても博識ですね。きっとその名には博識も含まれているのでは」
「いえ、それはすべて受け売りです。……スピカさんのね」
「スピカとは、仲が良かったのですか?」
問うと、センスはかすかに首を横に振った。
「いいえ。あの頃の僕は会話を許されていませんでした。彼の言葉を一方的に聞くだけの、道具のような存在で。……いえ、実際、道具でしたから」
静かに、けれど確かにそう言ったセンスは、少しだけ目を伏せた。
それは、自嘲ではなく――敬意と、誇りが垣間見える。
「でも、彼を好意的に見ていた竜は多かったと思いますよ」
その言葉に、胸の奥に小さな灯がともるような感覚が残った。
センスが語る彼――スピカという竜を、私もまた、誇らしく思った。
「スピカさんが魅力的だった、というよりは――おそらく、ヴァレット家そのものが魅力的だったのでしょうね」
ふと、その声にほんのわずかな温度が混じる。
「スピカさんを見ていれば分かります。ヴァレット家の方々は、彼を道具としてではなく――竜として、接しておられました」
そこにあったのは、羨望でも皮肉でもなかった。
ただ、事実として語られる、静かな尊敬の響きだった。
「スピカは……どんな竜だったのですか?」
「一言で言えば竜たらしですね」
「……」
母から聞いていたスピカの話しと少し、いやかなりかけ離れているような。
いや、センスの言葉選びのせいだろう。そうに違いない。
「社交の場で彼はこっそりと話しかけてくるんです。貴族にバレないように」
頭の中に過ったのは、貴族遊戯でカグツチの手を振り払ったシロクマの姿だった。
竜は貴族の道具――会話する事は基本的に許されていない。
「えぇ。竜種全員、大困惑しておりました」
「スピカは大丈夫だったんでしょうか……」
「そこはもう、ヴァレットのネームバリューで全て許されていましたからね、彼」
ひょっとしてスピカもまた、カグツチのような自由な竜だったのかもしれない。
ふと、カグツチの方を見やるとセンスの話を聞いているのかいないのか、こちらばかり気にしている。
「彼の言葉で、僕の中の何かが――変わってしまった。いえ、きっと……他の竜たちも、そうだったのでしょうね」
「……ありがとうございます。私は、スピカと――それからヴァレット家を、誇りに思っています」
私の知らない私の家の竜の話を聞いて、胸があたたかくなる。
それと同時に息が詰まるような感覚を覚えていた。
その誇りを――私は、復讐という名で穢そうとしているからだ。
「……すみません、ルシアさん」
それまでの饒舌が嘘のように、センスの口から言葉が消えた。
表情も、少しだけ神妙なものに変わる。
「喉が渇きすぎて、もう喋れそうにありません。カグツチ、お嬢様を急かしてきてください」
「え、なんで!? なんでおまえそんなに自由なわけ!?」
「……」
本当に会話が途切れた。
さっきまで止めどころの分からない会話を延々と続けていた竜が、嘘みたいにぷっつりと。
その言葉のあと、わずかに笑みを浮かべた。
センスは静かに背もたれに体を預け、再び足を組んだ。
その金の瞳は、私とカグツチを交互に映していた。
まるで、さぁ僕を楽しませてくださいと言わんばかりに。
この竜は、自由すぎるというより――自由であることを、疑う理由を持っていない。




