09.約束
扉を抜けると、壁際では数人の貴族たちが別れの挨拶を交わしていた。
その声には、終わった宴の気配が漂っている。
祝意も笑顔も――それはもう、明日の政治への布石にすぎなかった。
竜継の儀は滞りなく幕を閉じ、称賛の渦も静かに引いていく。
その空気にいち早く気づいたのは、アルトだった。
「……ルシア、大丈夫か?」
声は低く抑えられていた。
周囲に気づかれないように、それでも確かに心配が滲んでいた。
私は微笑みで返す。
「戻りましょうか。馬車を用意させましょう」
彼は何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。
◆ ◆ ◆
三人で静かな廊下を歩く。
さっきまで耳にしていた歓声も、今では遠い夢のようだった。
――君のような鞘は、いずれ王家の刃を持つべきだ。
その言葉が、胸の奥でまだ燻っていた。
私は手袋の下の指先に力を込めた。
まるで、消せない熱を押し込めるように。
馬車の前で、アルトがそっと私の肘を支えた。
「ルシア。足元、気をつけて」
「……ありがとうございます」
よほど思い詰めた表情が出ていたのだろうか、アルトの表情は優しかった。
その温度に触れた途端、張りつめていた何かがゆっくり緩む。
――私が物心ついてから泣いたのは、両親を失った、あの日だけだった。
馬車が暴走し、父も母も帰らぬ人になった。七つの私は、泣くことすら許されなかった。
ヴァレット家の者は、人前で涙を見せるな――父の声が、空気を塞ぐ。
あの頃には、すでにアルトとの婚約が決まっていた。竜を失った家と歴史の浅い家。
揶揄されても否定できない婚約。
そのとき、彼は言った。
『大丈夫だよ。……泣いていいんだ。いっぱい泣いて、あとのことは、全部、泣き止んでからでいいんだ』
誰にも許されなかった涙を受け止めてくれた、その言葉だけが――今も胸の奥に残っている、私にとってたったひとつの救いだった。
馬車の中には、言葉のない静けさがあった。
柔らかな座面に身を沈め、窓の外を見やる。
車輪が石畳を刻む音が、心臓の鼓動のように続いていた。
向かいの席にはアルト。
少し疲れた顔で、それでもどこか誇らしげに。
横のカグツチは窓を見つめていたが、尻尾は眠るように静止していた。
私は悟られぬよう、小さく息を吐いた。
ゼファレスの指先が、あと一寸でも近づいていたら――たぶん今ごろ、この帰路は存在していなかっただろう。
その考えを振り払うように、馬車の揺れに身を預けた。
「お疲れ様です、アルト」
「ありがとう。ルシアもお疲れ様」
彼は疲れた顔を隠すように微笑んだ。
「今日のあなたは、とても素晴らしかった。……ヴァレット家の人間として――いえ、一人の婚約者として、心から誇らしく思いました」
自分の声が少し震えた。
アルトは少し驚いた顔をしていた。
「……ありがとう、ルシア」
明日にはまた女学院へ戻る。
そこで待っているのは、社交の場とはまた違う、別の形の悪意。
竜継の儀は無事に終わっても、また別の何かが始まるだけ。
私にとってこの世界に私の心が休まるのは、唯一アルトの前だけだ。
だから、今だけは。
せめて今夜だけは――この小さな灯りと静けさに、身を委ねていたかった。
「ルシア、明日の昼には立つのか?」
「えぇ。女学院までは、馬車で半日かかりますから」
「……もう少し、長く外泊届を取れば――いや、そういうわけにもいかないのか」
アルトは苦笑した。
その声音に、すべて察してくれたのがわかる。
彼は、それ以上は何も聞かなかった。
私は、ふと彼の視線を追って、窓の外を見上げる。
夜の帳に、ひときわ大きく丸い星が浮かんでいる。
その光が、馬車の中のふたりをやわらかく照らしていた。
まるでこの世界に、私たちしかいないかのように。
すぐ隣に、小さく青白い星がひとつ、瞬いていた。
――その名を、私たちは知らない。
けれど今夜だけは、ふたりを見守ってくれているような気がした。
「ルシア」
馬の足音、車輪の揺れる音――その中で、アルトの声だけがはっきりと耳に届いた。
彼は、とても真剣な表情をしていた。
その瞳を見た瞬間、胸の奥にあったすべての不安が、ふっと遠のいていく。
あまりのまっすぐさに、私は呼吸さえ忘れていた。
「明日の朝、いつもの噴水で待ち合わせないか」
「ヴァレット領の――あの噴水ですか?」
「あぁ。いや、うん……女学院に帰らなきゃいけないし時間がないのは分かってるんだ。時間は取らせない、見送らせてほしいんだ」
――あの時と同じまなざし。
両親を亡くしたあの日、泣けずにいた私に手を差し伸べてくれた、あの時と同じ表情だった。
窓の外には、見慣れた城が近づいている。
「わかりました。では――明日、噴水でお待ちしておりますね」
アルトが微笑む。
ほどなくして馬車は城門に着いた。私は一人で降り、ランプの光を背に振り返る。アルトが身を乗り出していた。
「ルシア、また明日!」
まるで、挨拶は笑顔でとでも言いたげに。少し驚いて――それから、笑った。
私は目を丸くした。言われて初めて、先ほどから笑顔が消えていた事を思い返す。
「――えぇ。また、明日」
私は笑えていただろうか。あまり自信はない。
扉が閉まり、車輪がふたたび静かに転がり出す。
馬車の尾に掲げられたランタンの火が、遠くへと揺れていく。
私はただ、その微かな灯を見失わぬよう、目で追っていた。




