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造花の魔王 ~復讐令嬢は怒りを持たない最強火竜の業火となり、魔王へ至る~  作者: 黒しろんぬ
序章 始まりの広場 -復讐令嬢と怒りを持たない火竜-
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10.造花

 侍女に見送られながら、私は城の門を出た。

 空はいつも通りの灰色で、朝はとくに冷える。


 馬車が来るまでは、まだ少し時間がある。

 約束の時間は、正確には決めていなかった。

 それでもきっと、彼は来てくれる。

 彼が今まで一度も約束を破ったことはなかった。

 

 噴水は、城の目と鼻の先にある。

 誰もいない広場の中心で、凍るように静かに水を湛えていた。

 私はその縁に立ち、ゆっくりと顔を上げる。

 噴水の上に広がる空は、まだ夜と朝の境目にあった。

 風が頬をなでるたび、マントの裾が揺れる。

 

 私は、アルトが来るのを待っていた。


 それからしばらく、灰色の雲が流れていくのを見上げていた。


 ポケットから懐中時計を取り出す。

 蓋を開く音だけがやけに大きく響いた。

 もう何度目になるのか自分でもわからない。

 中の針は、容赦なく予定の時刻を指し示そうとしている。

 

 まだ来ない。

 

 馬車の音が近づくたび、胸の奥が一瞬だけ温かくなる。

 けれどその温度は、音が通り過ぎるたびに奪われていく。

 期待は、手のひらに落ちた雪みたいに、触れたそばから溶けて消える。

 

 侍女たちが不安そうな表情で、遠巻きにこちらを見ていた。

 声もかけられず、ただ静かに、私の様子を見守ってくれている。

 

 もうすぐ、女学院へ戻る馬車が来る。

 それは、確定された予定。

 動かしようのない時刻。

 風が吹くたび、彼の気配を探してしまう。


 だけど――どこにも、いなかった。

 

 胸元の銀色の百合の花を象ったブローチを、そっと撫でる。

 去年、アルトがくれたものだ。


 母の形見だった葡萄のブローチが――女学院で、無残な形で壊れた日のことを思い出す。

 問いかけたアルトに、私はただ「壊れました」とだけ告げた。本当の理由は、彼が心配するから言えなかった。


 たった一言。それだけだったのに――

 女学院へ戻る日の朝、息を切らした彼は小箱を差し出した。


 『似たものが見つからなくて……でも、ルシアには絶対必要だと思って』


 箱の中には、銀の百合がきらめいていた。

 彼の胸元にも、同じ百合がひとつ光っていた。


 それだけで十分だった。

 噴水の記憶も、私の昨日も――アルトで満たされていた。

 

 ――もう来ない。

 

 その予感は、ようやく確信に変わった。


「……ルシアお嬢様、馬車がお見えになりました」


 私は頷き、馬車へ向かった。

 決められた時刻、動かせない現実。

 

 だからこそ――私は告げた。


「行き先を、アグレスト領へ」


 窓から見える灰色の空が、どうしても明るい未来を想像させてくれない。

 胸の鼓動がやけにうるさい。

 

 どうか。どうか。どうか。

 

 アグレスト領の城の前で馬車が止まり、私は飛び出した。

 

 崩れかけた石畳を駆け上がり、軋む扉を開け放つ。


 扉を開いた瞬間、空気が違った。

 息を切らす私の呼吸だけが響く。

 

 人の気配が――死んでいた。

 

 いつもなら真っ先に出迎えるカグツチの姿もない。

 静寂と冷気が屋敷を満たしていた。

 

「アルト……?」

 

 返事はない。

 

「カグツチ、いないの……?」

 

 痛々しいほどの静けさだけが耳の奥で鳴り止まない。


 息を呑む音。やがて背中から扉の軋む音と共に靴音が響いた。

 

「アルト――」

 

 胸を撫で下ろしたのも束の間――それは、ごめんねと笑うあなたではなかった。

 

 鉄と銀の外套を纏った影が、静かに姿を現した。

 見慣れた――しかし今この場には似つかわしくない、王族近衛兵のひとりだった。

 

「ルシア・ヴァレット様。王都までご同行願います」


 正しすぎる声で、正しすぎる言葉が、異常の証明になっていた。


 ◆ ◆ ◆


 私を乗せたのは、王族専用の馬車だった。

 深紅の絨毯に金糸の壁――豪奢なのに息が詰まる。

 この馬車の行き先は、少女のとき夢見た舞踏会ではない。

 結末を書き換えられたおとぎ話。

 ここは逃げ場のない檻だった。

 胸の奥に沈むのは、不吉だけだった。

 

 昼の灰色の空は、いつも奪う。

 父を、母を、そして――。

 

 嫌な予感が、もう逃げられない形をとりはじめていた。


 やがて馬車が止まった。

 整った街並みも衛兵の列も、昨日なら誇らしく見えただろうに、今日は色を失っている。

 馬車から降ろされると、私は近衛兵に問わずにはいられなかった。

 

「――私は、これからどうなるのでしょう」

 

 貴族の礼を崩さぬ声に、わずかな震えが滲む。

 

「ご安心下さい。少なくとも、死罪にはなりませんよ、ルシア様」

 

 その一言が街の喧騒を裂いた。視界が揺れる。

 崩れていく現実の縁で立っているようだった。

 

「さぁ、城へ。ゼファレス様がお待ちです」

 

 その言葉が風に消えたとき――遠く、広場のざわめきが見えた。

 あれは何だろう。人々の視線が一点を見つめている。

 思考が現実から少しずつずれていく。


 門が静かに開く。音がしない。

 ゆっくり現れたのはゼファレス・ファ・ヴォルシュタイン。

 風の音が止んだ。

 僅かに凪いだ風は私の髪を揺らし、頬を叩くと言うのに。

 世界は最初から音を持っていなかったみたいに、ひどく静かだった。

 

 ゼファレスの背後には黒革のマスクの竜種と、目の光を失った灰色の竜種。

 主を守る壁のように黙ったまま立ち尽くしている。

 人の形を取っているとは言え、圧倒的な気配にいつもの私なら一歩退いていただろう。

 けれど今の私は、その威圧を恐れる余裕すらなかった。


「ルシア――!」


 その声だけが、無音の闇にはっきりと響いた。

 残酷なほどの優しさで、私に音を連れてくる。

 


カグツチが、ゼファレスと二機のドラグマキナを――まるで邪魔な枝葉でも払うかのように、無造作に押し退けて私の前に立った。

 

 周囲の兵士が息を呑み、一斉に槍を構える。

 殺気が肌を刺す。けれどカグツチは、切っ先など視界にすら入れていない。

 彼にとって、この国の精鋭たちも、王族の威光も、道端の石ころと同義なのだ。

 

 その瞳に映っているのは、私だけ。

 その表情は、悪いことをしてしまった子どものようだった。

 私は悟った。

 この竜はまだ、何が起きているのか理解していない。

 いいえ――理解する必要がなかったのだ。

 アグレスト家で愛され、世界は自分を祝福していると信じて疑わない幸福な竜。

 自分が害される可能性など、この竜の辞書には存在しない。


「……アルトが来なかったこと、怒ってる?」

 

 街の喧騒、群衆のざわめき――そしてなにより、ゼファレスの笑みが、私の思考を削いでいく。

 

「ルシア、アルトは約束を破ったわけじゃないんだ! 今朝いきなり近衛兵に連れてかれてさ、オレだけ閉じ込められたと思ったら、そこの黒い竜に羽交い締めにされて……かと思ったら次期王様にお説教食らってほんっと大変で――ルシア?」

 

 私はそれ以上、カグツチの顔を見ていることが出来なかった。

 ただ、目の前で笑みを浮かべるゼファレスを見上げていた。


「……ところでルシア、アルトは? ルシアと一緒じゃないのか?」

 

 それは箱の中の夢と同じで、開けるまではどんな色か分からない。

 けれど、ほんの僅かな隙間から――。

 

 全ての出来事は、ほんとうになってしまうと私は痛みとしてそれを知っている。


「君の主なら、そこにいる」

 

 そう言って、ゼファレスは広場を指した。

 広場の中央、民衆が群がるその場所に視線を向ける。

 

「……どういう、意味だ?」

 

 カグツチよりも先に、私は広場に向かって一歩踏み出した。

 

 箱の蓋が外れ、床に落ちる音。

 確定した現実の上を、私はただ――歩いていた。


 視界に入る空はいつもと同じ灰色だった。

 

 石畳を踏みしめる一歩がひどく重い。

 広場の中央まで行かずとも、何が晒されているかはわかった。

 

 青い外套。

 彼が好んで着ていたもの。

 袖に木の実の染みがあるから外出には不向きだと笑い合った記憶が、昨日のことのように蘇る。

 その青は、いま赤の中に沈んでいた。

 私の髪がきれいだと撫でてくれたあの手も、髪も、指も――ひとつ残らず壊されている。


 世界が音を立てて、彼を私から奪っていく。


 民衆の声だけが耳の奥で反響し、雑音は心には届かない。


 そこに転がっていたのは、もはや人の形を留めぬ肉塊だった。

 地面は赤く塗り潰され、露出した骨の裂け目から白い突起が覗いていた。

 それはまるで竜の角のようだった。

 人間がこんな壊れ方をするのだろうか。

 まるで内側から破裂したみたいだった。

 それでも私は歩みを止めなかった。

 たとえ晒されたそれがただの肉塊であっても――見届けなければならない。


「あれ、アグレストの坊ちゃんじゃねぇか……?」

「知らねぇよ。貴族なんざ同じさ。碌な奴いねぇ、ざまあみろ」

 

 周囲の視線は、一瞬で同じ方向へ傾いた。

 まるで正しい反応を互いに確認し合うように、誰も近づこうとしない。

 違う、と声に出せなかった。

 

 民にとって、貴族とは等しく同じ『貴族』という生き物だ。


 領地を食い潰す悪い貴族も、家の資産を投げ売って領民を救う者も――

 その差は、彼らの目には映らない。

 

 彼がどれほど領民に誠実だったか、誰も知らない。

 伝えても、何も変わらない。

 いま、民衆の目の前にあるのは、たったひとりの、貴族と言う生き物の死。

 それだけ。


 一歩進むたび、人々が道を開けた。

 波のように割れていく群衆の中には、笑みを浮かべる者すらいる。

 目の前の彼ではなく、貴族という抽象への呪詛。しかしそれは紛れもなく彼にぶつけられている。

 

 赤黒く染まった外套の胸元に、私はそれを見つけた。


 銀の百合の花のブローチ。

 泥と血に塗れても、ただ一輪――形だけは残っていた。


 そのときだった。

 

 胸元から、わずかな重みが消える感触があった。

 

 ――銀の百合のブローチが、留め金を外れて音もなく滑り落ちた。

 

 地面に触れた瞬間、乾いた音がした。

 それはきっと心の壊れる音と同じだった。

 

 そこで、私は歩みを止めた。

 私はこの目で、いま突きつけられた現実を飲み込もうとしている。

 

 アルトは殺された。

 昨晩、『道具』が王族に手を出したから。

 『道具』の罪の所在は主にある。

 王族に剣先を向ける事は罪である。

 アルトは正しく裁かれた。

 いま目の前にある光景はすべて正しさの結果であり、そこにもう罪の欠片すら残っていない。

 

 これ以上、歩く事に意味なんてあるのだろうか。

 

 私にはもう分からない。

 

 膝を折って、この場で泣き叫んで、すべてを終わらせてしまえたら。

 そうすることが私に出来たなら。

 

 私にはきっと、花のように美しく散る最期が用意されていたはずだ。


 けれど――私は、俯かない。拾わない。

 ただ前を見据えて――この現実だけを焼き付ける。


 膝が震えた。

 それでも、私は折らなかった。


 私はルシア・ヴァレット。

 二千年続く、誇り高きヴァレット家の、最後の当主。

 父の声が喉を塞ぐ。母の指が背を伸ばす。

 

 ルシア・ヴァレットは――泣くことも、膝をつくことも。決して許されない。


「ルシア・ヴァレット」

 

 後ろから聞こえたその声で、群衆のざわめきはぴたりと鳴り止んだ。

 

「ゼファレス・ファ・ヴォルシュタインの名において命じる――」

 

 ゼファレスは広場にて大げさに跪き、私に手を差し伸べた。

 

「僕の鞘となれ」

 

 その声は、はっきりと耳に届いていた。


 私は、一体どんな表情をしていたのか――それは、もう分からない。

 けれど、ルシアである私が表情を崩すわけがない。

 

 ……この男を、殺さなければ。


 それは使命でも宣言でもなんでもない。

 生きる道ですらない。

 ただ――そうすることが、定められた因果だと悟った。

 

 そのためならば、鞘になることも厭わない。

 鞘に収まった瞬間、その剣を呑み砕いてでも、必ずこの男の首を刎ねる。


「――ルシア」


 その声が、私に音を連れてくる。

 頼んだ覚えはないのに。

 それでも耳馴染みのあるその声には逆らえなかった。


 まるで現実へ引き戻すように私の腕を引いたかと思うと、彼は――カグツチは、迷いなくそのまま私の身体を抱き上げた。

 その腕の中に、私は何の抵抗もなく収まってしまった。

 

 地面が、低く唸った。

 次の瞬間、カグツチの足元から紅蓮が噴き上がった。

 炎の壁が立ち上がり、私をゼファレスから切り離す。

 何人たりとも踏み込むことさえ許さない、絶対的な境界として――或いは、逃さない檻のようだった。


 まるで壊れものを扱うように、大きな腕が、私の背と膝を支えている。

 風が止まった。

 世界は色を失ったのに、胸の奥だけが燃えていた。

 そして彼は、低く、静かに――それでいてどこか嬉しそうに言った。


「君は、オレの怒りだ」


 その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。

 たったいま世界を焼いた炎が、私の怒りと同じ色をしていたことが頭をよぎる。

 

 違う――

 この怒りは私のものだ。私だけのものだ。

 誰にも触れさせたくない、業火に焚べた消えぬ炎。

 それが例えアルトとともにあった竜だとしても。


 次の瞬間、炎が一閃。

 地を滑るように走ったかと思えば、竜の身体は瞬く間に紅蓮の光に包まれていた。

 その中心で、カグツチは姿を変える。

 

 人の形を脱ぎ捨て、巨大な翼と紅玉の鱗を持つ竜へ――カグツチへと還ってゆく。


 私はその変化に戸惑う間もなく、カグツチの尾にすくい上げられるように宙へと引き上げられた。

 彼の尾が、炎の揺らぎとともに私を包み、軽々と背に乗せてしまう。

 巨大な翼が夜の空気を叩き割るような轟音と共に――広場では群衆が青ざめていた。

 恐怖に叫び声をあげる者の姿も見えた。

 

 下界の喧騒が次第に小さくなっていく。

 誰が叫んでいるのかも、もうわからない。

 怒りはまだ確かに燃えていたはずなのに、いまの私はそれを持て余している。

 

 炎の向こうで、あの男は――ゼファレスは、不敵な笑みを浮かべていた。

 まるでこうなることさえも予定調和のうちと言わんばかりに、灰と黒の二機の竜を従えたまま、ただ私たちを見上げていた。

 

「ルシア、しっかりつかまって」

 

 遠ざかっていく広場。

 もう見下ろすことも、振り返ることもしなかった。

 残っていた炎は、ただ胸の奥でくすぶっているだけだった。

 私はまだ、なにも終えていないのに熱を奪われていく感覚に目眩を覚える。


 私はカグツチの首に手を回した。その体温だけが現実だった。

 空は灰色のままだった。

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