きみによりなな
香具山宮は大勢の客でごった返していた。
今宵は、当主である兄上の婚礼があるのだ。
天武天皇を父に持つ私達。とはいえ兄上は第一皇子。第五皇子である私とは、かなり歳が離れている。
先の戦乱で、父上の手となり足となって戦った兄上は、持統天皇が即位されてからも朝廷で重く用いられていた。
私も宴の席に居並ぶ招待客と酒盃を交わす。
「可愛らしい奥方ですな」
「ええ」
兄上の隣に座る花嫁は、私と歳の変わらない少女であった。
艶艶しい黒髪はふわりと結われ、頬は桜色に輝く。裳の華やかさが花嫁らしい。
親子ほども年齢の違う二人が並ぶ様は殊更珍しいものではなかったけれど、私は何とも妙な心持ちになった。
「失礼、少し風に当たってきます」
「新婚の気に当てられましたかな」
茶化す酔客に、そのようですと苦笑しながら、私は縁を回り庭先へと向かう。
思いの外、酒を過していたようだ。熱を持った頬に当たる風が心地好い。
ぼんやりと庭を眺め、私は先程の気持ちを思い返していた。
なぜか心に引っかかる。お二人を見ていると、心に棘のようなものが生まれて私を刺す。
「なんだ、こんな所でどうした」
背中から聞こえた声で我に返った。
「兄上……!」
「飲みすぎたのか、お前らしくもない」
そう言って笑ったのは、兄の高市皇子だった。
婚礼用の衣服は、夜目にも上質な布であるのが見て取れる。兄上は品のあるご様子だから、ますます似合っていて同母弟の私でも惚れ惚れとする。
「兄上のご婚礼ではないですか、嬉しいのですよ。私だってお祝い気分に浸りたいんです。兄上こそ、こんな所にいてよろしいのですか」
「但馬を休ませたら戻るよ」
「女童にでもお任せになればよろしいのに」
「まあな」
周りが思うより、私と兄上は仲が良いのだと思う。
私は歳の離れた兄上を父のようにも感じていたし慕っていた。兄上も私を可愛がってくださっている。だからこそ、このように気安く口をきいてくださるのだ。
「穂積、少し話がある。明日、俺の部屋へ来るように」
「わかりました」
ゆるりと過ごせと言い、兄上は待たせておいた花嫁を連れ寝所へと去っていった。
それを見送る私の心を、また小さな棘が刺す。いったい何だというのだろう。
もやもやとした疑問を抱えた私は、その後もいつになく酒を過ごし、起きたのは日もかなり高くなってからのことだった。
「……穂積皇子様。高市皇子様がお呼びです」
「ん……」
頭が痛い。
「薬湯をお持ちしましょうか」
この舎人は私が子どもの頃からの付き人だ。気が利くのか嫌味なのか、まったく遠慮というものがない。
「いや、この上あんなものを飲んだら、気持ちが悪くなりそうだ」
「わかりました。では、早速にお支度を」
お早くと舎人に尻を叩かれながら、身支度を整え兄上の元へ向かう。
やれやれ、何だか気が重い。
「兄上、遅くなりました」
「夕べはだいぶ過ごしたようだな」
「祝い事ですから」
私はさすがに恥ずかしくなり、そう言ってふくれ面をしてみせた。
「ははは、良い良い」
そう言ってくださる兄上の前で、私は居住まいを正す。
「改めまして、兄上。この度はおめでとうございます。心よりお喜び申し上げます」
「うむ、これは但馬皇女と言う。これからよろしく頼む」
同母であれば宮も同じなのだが、異母の兄弟姉妹では宮も違い顔を合わせることも少ない。
実際に顔を合わせたのが婚礼の席、などというのは珍しいことでもなかった。
兄上の言葉に微笑んで会釈をされた但馬皇女様と、私は初めて言葉を交わした。
「穂積と申します。異母姉上様おめでとうございます」
「ありがとう」
鈴がころころと転がるような可愛らしいお声がした。
兄上は子どものようだろうと笑い、姉上に睨まれる。
「こう見えて意外にお転婆なのだぞ」
「まあ、そんなことございません」
「先日、薬草摘みに行きたいとねだられてな。その時……」
「高市皇子様!」
これ怒るな、と笑っておられたが、女子だけで行くような薬草摘みに兄上も参られたのか。私がそう聞くと照れながら頷かれた。
これは珍しい。
壬申の乱の折は、一軍を率いて戦われた。武張ったことが性に合うから、そう言っておられたのに。
心境の変化か、余程、姉上のことが気に入られたか。
年の差が気にならないほど仲睦まじく見える様子に、またぞろ心の棘が顔を出す。
兄上は、私の兄上なのだぞ。
ああそうだ、これだ。私は兄上との間に急に入り込んできたこの異母姉が気に入らないのだ。
「ああ、すまない。最初から話が逸れてしまった。俺の話というのはだな、これの話し相手になってやってほしいということなのだ」
「姉上の……」
「但馬も良い和歌を詠むのだ。お前とは話が合うだろう」
それは良いですね、と私は相槌を打ったけれど正直気乗りがしない。和歌の話ができるのは良いのだがなあ。
「お前達は歳も近いし、俺はあまり和歌は得手ではないのでな」
つまらないな、兄上はご一緒されないのか。
それはそうだ。兄上がいらっしゃらない時に、無聊をお慰めしろということなのだから。兄上は宮に来たばかりの姉上が馴染めるか心配されているのだろう。
私は心の中で大きなため息をつく。仕方がない、兄上のためだ。
「……わかりました。折を見て伺うように致します」
残念に思う心を隠して承諾の返事をした。
「さて、これからは少し堅苦しい話になる。但馬は席を外してくれるか」
兄上が顔を向けるとわかりました、と鈴が鳴るように声がころがる。
衣擦れの音が遠ざかると兄上は、ほうっと息を吐いた。
「はは、若い者との話は難しいな。なかなか同じ感覚にはなれぬゆえ、話がつまらなく思われてもなあ」
そう思うと緊張するのだ、と兄上は笑った。
「私は兄上のお話をつまらなく思ったことはありませんよ」
「お前は歳のわりにそういうところは大人びておるからな。それに比べて、あれはまだ子どもだ」
「姉上とのご結婚が本意ではないのですか」
「俺の心情と天皇のご判断は別だ」
ピシリと言った兄上の厳しい様子に、私は思わず息を飲む。
すみません、と小さく言うのがやっとな私を見て、やがて兄上は困ったように頭を掻いた。
「まあ、彼女が嫌いなわけではないし、大事にしたいとも思っているが、仲良うするにもなかなか難しくてな」
「とても仲睦まじく見えましたよ」
「そうか? それなら少しは心を開いてくれている、ということなのだろうか」
「そう思います。大丈夫ですよ、兄上を嫌うなど、この私が許しませんから」
「それは心強い……のか?」
「兄上!」
笑い声をあげる兄上を睨んでいた私も、つられて吹き出す。
一頻り笑いあった後、兄上は真面目な話だが、と声を落とした。