47.マリアの妊娠
街から馬車に揺られ、テオとマリアはローヴァイン領に帰って来る。
主の突然の帰宅に、屋敷の中の使用人たちは慌てて取り繕いながら玄関へと出て行く。
屋敷の扉が開かれ、ジャンが出迎えた。
「お帰りなさいませ、テオ様」
「手紙のひとつでも寄越さずにすまない。色々あって、急いで帰って来た」
「そうですか。何か急ぎの御用があれば、我々もお手伝いしますが……」
「あっ、違う。そうじゃないんだ……」
テオとマリアは微笑み合って、マリアの方から告げる。
「私、どうやら妊娠したみたいなんです」
玄関に出揃っていた使用人一同は、静かに息を呑んだ。
マリアは思わぬ反応に困り顔になったが、しばらくの間を置いて使用人たちは幸せの予兆にざわめく。
ジャンは震えながら、少し目尻を拭った。
「そ、そうでしたか……」
「だからつわりが始まる前に、帰ろうと思ったの」
「う……マリア様、テオ様……」
テオがしんみりした空気を笑い飛ばす。
「ははは、泣くにはまだ早いぞ。その涙は産まれた時のためにとっておけ」
「あら……あなたがそれを言うの?」
マリアは肩をすくめて見せた。
暗闇で、お針子のレベッカの目が煌々と光る。
「妊婦用ドレス……新生児用ドレス……赤ちゃん用布団……ぬいぐるみ……ふふふ」
「レベッカ、そんなに無理しないでいいのよ?」
「奥様、とにかくそのコルセットなどという害悪は外して下さいませ」
「そうね、そうするわ」
「お怪我の際にお召しになっていた服を用意させます。どうぞお部屋へ」
「ありがとう、レベッカ」
マリアが歩いて行くと、テオが後ろからついて来る。
「あら?あなたも私の部屋に来るの?」
「マリア。私は君が心配でたまらんのだ」
「大袈裟ね。着替えるだけよ」
マリアは部屋に戻ると侍女らに服を召し替えられた。ゆったりとした胸元切り替えのドレスだ。
何の気なしに窓の外を見に歩いて行くと、テオがその腰に手を回す。
「マリア」
「なあに?」
「頼むから、座ってくれ」
「もう……」
急に過保護になったテオに、マリアは戸惑いを隠し切れない。
テオはマリアの隣に座ると、じっと遠くを眺めた。
「妻が妊娠したら、夫は何をしたらいいんだ?」
「何もしなくていいですよ。お身体に気をつけて下されば」
「む……そうか」
「テオはもう軍を退いていますから、やることがなくて時間を持て余すわね」
ふと、マリアは気づいたように言う。
「う……気持ち悪い」
「!ベッドに行くか?」
「そうね、横になろうかしら」
マリアはベッドに寝転がると、ついて来たテオに困り顔で告げた。
「あの……」
「何だ。何でも言ってくれ!」
「ちょっと……視界にいられると気になってしまうので、部屋から出て行ってもらえますか?」
「!!」
テオは衝撃を受けた。妻に何かを拒否されるのは、初めてのことだったのだ。
「そ、そうか」
本当に、妊娠に際し男に出来ることなど何ひとつないのだ。
テオはとぼとぼと部屋を出た。
待ち構えていたジャンが尋ねる。
「奥様は、お休みですか?」
「ああ……そのようだな」
「お食事は……」
「マリアの分はいらないかもしれないな」
二人は連れ立って歩く。
と、使用人の女性たちが縫い物をする部屋を通りかかった。テオはそれに気づいて足を止める。
「ちょっと、君たちいいか?」
「はい、テオ様、何なりと」
「妻の妊娠中、夫がすべきことは何だと思う?」
すると使用人たちははしゃぐように笑った。
「テオ様ったら、そんなことを言うと急にお若く見えますわね!」
「あのなぁ……」
「経験から言わせていただくと、夫のすべきことは、〝妻の癪に触らない〟ことだけですわ。妊婦はイライラすると、つわりの吐き気が増しますの」
「何っ。そうなのか」
「ある意味で、時として何もしないことが大切になって来ますわ。存在を消しておく、というか」
「これは大事なことを聞いた」
「うふふ、頑張って下さいませ、お父様」
テオはひとりで食堂へ向かう。
マリアがいない。
妙に、胸に隙間風が吹く。
「ひとりでの食事は、こんなに味気ないものだったか……?」
テオはすっかり孤独に馴染めなくなっていた。
「いつになったら、二人で食べられるのか……」
しばらくして、ジャンがやって来た。
「テオ様」
「何だ」
「奥様はただオレンジをひたすら食べたいとおっしゃってます」
「……どういうことだ?」
「経産婦の使用人に尋ねましたところ、つわりの最中、妊婦は同じものを延々と食べ続けるそうでございます」
「そんなことが……ではここに来るのか?」
「オレンジの匂い以外は受け付けないそうなので、お部屋で召し上がるとのことです」
「わけが分からないな……うーむ、この歳になっても、まだまだ知らないことが沢山あるものなのだな……」
テオは何もかもが初めてのことで、困惑しきりなのだった。




