ルリュセイム・オリンビアの幼女白書。
あの日――。
封印された古代図書館の地下から永きに渡り封印されていた精霊王が解放され、私の意識は瞬時に侵食された。
敵対する『魔族』に対する憎しみ。
協力関係にあるはずの『人間族』に対する侮蔑。
そして、私をたった一人残し絶滅した『精霊族』への憤慨――。
何百年もの間、心の中に溜め込んできた怨念が波となって私の意識に入り込んできたあの瞬間。
同じ『精霊族』として敬愛すべき『先人の王』に対し、私が初めに抱いた感情は――。
――吐き気、そのものだった。
◇
目が覚める。
また、あの時と同じ夢だ。
精霊王がカズハ・アックスプラントに倒されてから数ヶ月が経とうというのに、未だに私を悩ます悪夢――。
暗い、奈落の底から湧き上がるような怨念、執着、ありとあらゆる負の感情。
人間を家畜としか捉えていない、魔族を憎しみの対象としてしか見ていない、あの感情――。
「おーい、ルルー?」
カズハの声が聞こえ、私は思考を止める。
寝室の窓に視線を向けると日の光が室内を照らすにはまだ幾分か早い時間だと分かる。
ベッドから身を起こした私はそのまま身体だけを扉の方角に向け、声の主が現れるのを待った。
「なんだ、起きてんじゃん。精霊でも早起きできるんだなぁ」
そう言いズカズカと遠慮なく部屋に入ってくるカズハ。
朝食の時間にはまだ早いはずなのに、こんなに朝早くから彼女は一体何をしているのか興味が無いといえば嘘になる。
「……お? その目は俺の早起きの理由を知りたい目なんじゃね?」
「……ええ、まあ」
私の視線の意味を理解したのか、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべながら私と同じベッドに腰を下ろした。
元々ここは彼女の寝室だ。
そして何故か私は彼女と一緒の部屋で過ごし、一緒のベッドで寝るという生活を強いられている。
「よーし、そんなに言うなら教えてやろう。早起きはな、健康の秘訣なの。朝ちゃんと起きて、飯の前にラジオ体操して、ついでに城の見回りとかして、異常が無いかをきちんとチェックする。俺、こう見えて神経質だから」
「……神経質」
「で、さっき夜間警備をしてたグラハムを見に行ったんだけど、あろうことか居眠りしてやがったから後ろからそーっと近づいてドロップキックをかましてやったら、あいつ城の城壁から落ちちゃってさ。まあ頑丈だけが取り柄の奴だから生きてるとは思うけど」
そこまで言ったカズハは急に一人で腹を抱えて笑い出す。
私は未だに、彼女が普段から何を考えているのかさっぱり理解が出来ない。
まだ建国したばかりとはいえ一国の王となったはずなのに、威厳を微塵も感じさせない特異な人間族。
「あ、そうだ、ルル?」
「……なんでしょう?」
「ハグしていい?」
「駄目です」
流れるようにそう私が答えると、すぐさま頭を抱えてベッドの上で崩れ落ちる彼女。
もう一体何度、同じやりとりをしてきたか数えきれないほどだ。
私が下等な人間族に身を許すなどありえないというのがどうして理解できないのだろう。
そして『ハグ』という行為に一体どんな意味があるというのか。
初めて出会った時からずっと、彼女は同じ質問を繰り返し続けていた。
「……ところで、カズハ。一体いつになったら――」
「え? ハグしていいって?」
「……。一体、いつになったら、私の『緊縛』を解いてくれるのでしょうか」
私がスルーした事により、より深くその場で崩れ落ちてしまったカズハ。
いちいち彼女の言う事をまともに聞いていてはこちらの身が持たない。
すでにこれまでの経験でそう理解した私は、全身を拘束している蒼色に輝く魔法具に触れる。
これがあるせいで入浴する時も上手く身体が洗えなくて困っているのだ。
……まあ、いつも自分で洗うのではなくタオに手伝ってもらっているのだが。
「……はぁ。だから『解かねぇ』って何度も言ってるだろう、ルル……」
そう言い、おずおずと私に向かって手を伸ばしてくるカズハ。
私は後ずさりながら、ベッドの向こう側へと避難する。
「……どうしてですか? こんなに何度も頼んでいるというのに」
ベッドの端まで迫ってきた彼女をどうにか掻い潜る私。
「……だからぁ……その『緊縛』を解いたらさぁ……。お前、ドラゴンに変身してぇ……俺を喰っちまうだろ?」
そう言いつつ獲物を狩るような目で私と睨み合った彼女はじりじりと私を追い詰めてゆく。
「はい。ひと飲みです」
「そこは嘘でも『そんなことしません』って言ってっ!!」
「どうしてですか? 私、嘘が嫌いです」
「嫌いとか嫌いじゃないとかの問題じゃなくて優しさの問題です!」
徐々に得物を追い詰めるスピードを早めていく彼女。
まるで何か別の生き物のように艶めかしく全ての指を動かし、舌なめずりまで始める始末だ。
その瞬間、私の背筋になにか冷たいものが流れ、私はつい身震いをしてしまう。
「……優しさ? そんなものがこの世知辛い世の中でどんな意味があると言うのですか?」
「幼女が『世知辛い世の中』言っちゃアカンっ! なんか色々と生きていくのがしんどくなるからっ!!」
その口調とは裏腹に目つきは完全に獲物を捉えて離さないハンターそのものだ。
このままでは彼女に捕らえられ、あの艶めかしく動く指で何をされてしまうのか想像も付かない。
恐怖で身震いした私は一瞬の隙を突き、彼女の脇の下を潜り抜けて扉の方角に走り出した。
と、その途端に足がもつれ、乱雑に床に放置されたクッションのうちのひとつに転がり込んでしまう。
「ふっふっふ……。『策士、策に溺れる』とはこういう事だな……ルルよ……!」
何だかよく分からない事を呟いた彼女は、そのままいやらしい手つきで私に迫ってくる。
「……やめて下さいカズハ……。一体、私に何をするつもりですか……?」
「ぐっへっへっへ……。言えんなぁ……そんな事……。口では到底言えない事を――!」
まるで悪魔のような笑みを浮かべた彼女が腕を伸ばしたその瞬間――。
突如扉が開き、チャイナ服を来た正義の味方が私達の前に登場した。
「……カズハ? あんたは一体、何をやっているアルか……?」
「げ、タオ……!」
右手にお玉を持ったまま部屋に入ってきたタオは怪訝な表情を浮かべたまま私とカズハを見比べていた。
おそらく朝食の準備が整ったのだろう。
普段より早い時刻だが、今回は彼女に救われた形だ。
「……見ての通りです、タオ。助けて下さい。カズハがまさに今、犯罪者になろうとしているところです」
「おい。表現」
「あー……なるほどアル。でもうちの国にはまだ法律上の裁判制度が無いアルから……。とりあえず『打ち首』にしておけば問題無いアルかな?」
「大ありだろ! 俺、国王っ! 首跳ねちゃ駄目! 絶対!」
急に慌てだした彼女は、私に向けていた両手を天に仰ぎ挙動不審の態度を見せる。
安堵の溜息を吐いた私はゆっくりと立ち上がり、膝に付いた埃をサッと払う。
「大丈夫だったアルか、ルルちゃん? ……さっさとこんな国を出て、私の実家で一緒に暮らすアルよ」
「はい。そのためにもこの憎き王から『解縛』の魔法を掛けてもらわないといけないのですが……。何度交渉しても取り合ってくれないのです」
そう言い彼女を睨み上げると、視線を外し口笛を吹くという始末。
目的が何なのかは分からないが、どうやら私を手放す気は無いらしい。
「あー。それはそうと、タオ料理長殿。今朝の朝食は何かな?」
「カズハの分は無いアル」
「なんでぇぇぇ!!?」
「さ、ルルちゃん。私が腕によりをかけて作った朝御飯を皆と一緒に食べるアルよ」
「はい、タオ。罪深き者には食べさせる食事など存在しませんからね。行きましょうか」
「ちょ、おい! だから俺、この国の王様なんだって! おい! ちょっと待って! 俺も喰いたい! お願い喰わせて! 朝早くからグラハムと遊んだからめっちゃ腹減ってるんだって! おい! 無視すんなよおおおおお!!!」
背後で泣き叫ぶ彼女を無視し、私とタオは寝室を後にする。
「反省してます! 反省してますから……! 俺にも飯を喰わせろおおおおおおおお!!!」
寝室のドアをバタンと閉め、私達は食堂へと向かって行きました。
というか、私の『緊縛』は一体、いつ解かれるのでしょうか……。




