表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界の棚卸し~地味なドラッグストア作業員が、世界の「ロス」を止めるまで~  作者: もしものべりすと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/21

第二十一章 深夜二時、棚卸し

目を開けた。


蛍光灯が、ジリ、と鳴いた。


白い天井。消毒液の匂い。点滴の管。


病院だった。


「佐倉さん、目が覚めましたか」


看護師が覗き込んでいた。


「ええ」


「三日、眠ってました。事故、覚えてますか」


「強盗の、男」


「警察、捕まえました。お客さん、無事です。岸本さんも」


「良かった」


俺は目だけで頷いた。


頷きながら、自分の指を握ってみた。


握れた。


異世界の感触は、もうない。星の濃い空も、雨の路地の冷たさも、ミレイアの手のひらの温度も、すべて、ない。


ただ胸ポケットの中の、業務日誌の角張った感触だけが、ある。


俺は片手を、ゆっくり胸ポケットに伸ばした。


業務日誌は、あった。


最後の頁をめくった。


ミレイアの、丁寧な字。


その隣の頁の、引っ掻き傷の、竜の文字。


ある。


確かに、ある。


俺は目を閉じた。


涙は、出なかった。


ただ深く息を吐いた。


退院は、一週間後だった。


退院の手続きをしているとき、ライフマートの、店長・桜井が、見舞いに来た。


「佐倉、よく頑張ったな。会社からの、見舞金だ」


封筒に、薄い紙幣が、入っていた。


「お前の頑張りは、ちゃんと、見てるからな。これからも、よろしくな」


桜井は肩を、ぽんと叩いて帰っていった。


俺は封筒を握ったまま、しばらく立っていた。


桜井の言葉は、十年前と、同じだった。


「俺がいなければ、お前は、何もできない」


直接は、言わない。けれど、彼の言葉の、裏にある音は、それだった。


俺はそれを、もう信じなかった。


退院した翌日、俺は堀川店に出勤した。


裏口から入った。バックヤードの、湿布薬の匂いが、変わらず、立ち上った。


棚は、強盗が暴れた跡が、まだ片付いていなかった。


俺はエプロンを、ロッカーから取り出した。


紺色の、十年使ったエプロン。紐の先が、擦り切れている。


紐を結びながら、自分が異世界で最後にエプロンの紐を地面に落とし、もう一度結び直したことを思い出した。


ここのロッカーの中の、こちらのエプロンは、結び直されないまま、ずっと、待っていた。


二つの世界は、別々に、続いていた。


そういうことだ、と思った。


俺は紐を結び終えて、棚の前にしゃがんだ。


「鎮痛剤、Aロット。十二、十三、十四……」


声に出して数えた。


数えながら、自分の手に目が行った。


ミレイアが俺の業務日誌を両手で預かった、あの日の手の感触が、まだ指の腹に残っている気がした。


異世界の感触が薄まっていく前に、俺は何かを決めなければならなかった。


桜井が、やってきた。


「佐倉、戻ってきたか。ああ、棚、頼むな。俺、本部の会議だから」


「はい」


桜井は、出ていった。


桜井は相変わらず、俺と目を合わせなかった。挨拶もろくにしない。事務的な指示と責任転嫁だけが、彼の言葉だった。


俺は棚を半日数えた。


数え終わって、業務日誌に書いた。日付。品目。数量。誤差。推定原因。


書き終えて、俺はペンを置いた。


退職届は、もうロッカーの中に入っていた。


退院の前夜、病室で書いていた。


書く前に、俺はずっと迷っていた。


迷ったのは、桜井の言う「お前は、ここでしか、通用しない」という言葉が、まだ頭の中に残っていたからだ。


だが、業務日誌を開いた瞬間、迷いは、消えた。


業務日誌の、最後の頁。


ミレイアの、丁寧な字。


「サクラ様の字を、丁寧で、美しいと思った気持ちは、本物です。今も、これからも」


それが、俺の、十年への、最終評価だった。


桜井の十年の罵倒よりも、ミレイアのたった一言の方が、信頼に足ると判断した。


書いた退職届は、丁寧に二つ折りにして、ロッカーの上着の内ポケットに入れた。


退職届を、人事に出した。


桜井が、慌てて飛んできた。


「お前、何考えてんだ。事故のショックか?」


「いえ」


「お前みたいな奴、どこ行っても通用しない。分かってんのか」


俺は、桜井を見た。


枢機卿バルディウスが、教会の応接間で、最後に俺に向かって言った言葉と、寸分違わなかった。


俺は、ゆっくり笑った。


笑いながら頭を下げた。


「お世話に、なりました」


「お前、本当に、辞めるのか」


「ええ。数えるのは、得意なので。どこかで、店を、始めようと思います」


「店? お前が? 無理に決まってる。資金は? 経営の知識は? 仕入れのコネは?」


「全部、これから、考えます」


「無理だ。絶対、潰れる」


桜井は、何かを言いかけて、やめた。


俺はライフマートの紺色のエプロンを、桜井の手に渡した。


擦り切れた紐の先まで、丁寧に畳んでいた。


「お返しします」


「これ、お前のだろう」


「会社から、支給されたものですので」


桜井は、エプロンを受け取った。


受け取った手が、どこに置いていいか、迷っていた。


俺は頭を下げて、店を出た。


外は、夕方だった。


堀川店の前の通りは、いつもの夕方の通り、だった。けれど、自分が十年通った道ではなくなっていた。


翌日から、俺は別の場所を歩いた。


退職金で、しばらくの生活費は出る。両親には、転職する、とだけ、伝えた。


中古の物件サイトを毎日見た。商店街の空き店舗を探した。


居抜きで、薬と日用品を扱っていた、小さな個人商店が、隣の市の駅前商店街に、出ていた。前のオーナーが、高齢で店じまいする、と書いてあった。


俺は、内見に行った。


店主は、七十代の男だった。痩せて、背が低い。だが、目は、優しかった。


俺は店主と、半日話をした。


仕入れの取引先、近所の客の好み、開店時間、深夜営業の必要性、競合店の状況。すべて丁寧に聞いた。


聞きながら、業務日誌に書いた。


書いている俺を、店主はしばらく見ていた。


「あんた、この帳面、ずっとつけてきたのかい」


「十年、です」


「それで、独立、するの」


「はい」


「うちの店、引き継いでくれる気は、ある?」


「あります」


「あんた、見てると、客の話を、ちゃんと聞いてる。最近、そういう若い人、少なくてね」


「ありがとうございます」


俺は頭を下げた。


物件は、手頃な値段で、譲ってもらえた。


譲渡の日、前の店主は俺に、店の鍵と、自分の長年の取引先名簿を渡した。


「これ、私の宝物だった」


「いただいて、いいんですか」


「使ってくれた方が、私も嬉しい」


俺は、その名簿を両手で受け取った。


両手で受け取る癖は、ミレイアが俺の業務日誌を両手で受け取った日から、ついていた。


前の店主は、俺の所作を見て頷いた。


「あんた、引き継ぎ、ちゃんとできる人だな」


「お師匠の、おかげです」


「お師匠?」


「向こうの世界に、字を教えた、教え子が、いまして」


「向こうの、世界」


「ええ。話せば、長くなりますので」


前の店主は笑った。


笑いながら、自分のエプロンを外した。


そのエプロンを俺に渡した。


「使えるなら、使って」


俺は頭を下げた。


異世界でライフマートのエプロンを地面に落としたとき、俺はもうエプロンを二度とつけないかと思った。


なのに、別のエプロンが、別の人の手から俺に渡された。


紐の先は、擦り切れていなかった。


新しい、十年が、始まる、ということだった。


開業の届出書類の、店主の欄に、自分の名前を書いた。


「佐倉拓也」


役職は、書かなかった。


書かないまま、開業した。


店は、地味に、続いた。


近所の老人たちが、毎日、買いに来た。子どもが、駄菓子を買いに来た。学校帰りの中学生が、夏は麦茶を買っていった。


俺は棚を数えていた。


毎日毎晩、深夜二時に業務日誌を開いて、棚を数えていた。


棚卸しの癖は、変わらなかった。声に出して数える癖も。


ある日、客の老婦人がレジで、ぽつりと言った。


「ここのお店、安心するわねえ」


「ありがとうございます」


「商品が、いつも、同じ場所にあるの。歳取ると、それが、ありがたいの」


俺は頭を下げた。


頭を下げながら、業務日誌に書いた。


「老婦人、御客。商品の定位置を、評価」


書きながら、十年前、桜井に「お前は、棚を整える以外、能がない」と言われたことを思い出した。


棚を整える「以外」、ではなかった。


棚を整える「こと」が、能だった。


それを、初めて、客に、言ってもらえた。


異世界では、ミレイアに、字を褒められた。


日本では、老婦人に、棚を褒められた。


それで、十分だった。


半年後俺は新しい店員を、一人、雇った。


近所の、高校卒業したばかりの、女の子だった。岸本さんとは、別の人。控えめな子で、最初は、レジ打ちも、震えていた。


俺は彼女の隣で、ゆっくり教えた。


「上から下へ、右から左へ、決まった順で、打てば、誰でも、できますよ」


異世界の書記に、教えたのと、同じ言葉を、使っていた。


彼女は半年もすれば、すっかり、慣れた。


ある日、彼女が、ぽつりと言った。


「店長、お給料、少ないんですけど」


「すみません」


「いえ、文句じゃないんです。逆で」


「逆」


「他の店で働いてる友達と、話してて、いいなって、言われるんです。うちの店、有給ちゃんと取れるし、休憩、ちゃんと一時間あるし、店長、怒鳴らないし」


俺は頷いた。


「当然のこと、ですので」


「他の店、当然じゃないみたいです」


俺は業務日誌に書いた。


「当然のことを、当然に。続ける」


書いて、ペンを戻した。


夏が、過ぎた。


秋が、来た。


近所の老人が、亡くなった。常連の、おじいさんだった。新聞を、毎朝、買いに来ていた人。


葬式に、呼ばれた。


家族が、俺に、言った。


「父は、お宅の店に、毎朝、行くのを、楽しみに、していました。佐倉さん、いつも、優しくしてくれて、ありがとう」


俺は頭を下げた。


頭を下げながら、業務日誌に、書きたいことを、書けない自分を、知った。


葬式から帰って、業務日誌を開いた。


最後の頁の、ミレイアの字の隣に、新しい一行を書いた。


「人を、見送る、ということ。あちらの世界でも、こちらの世界でも、ある」


書きながら業務日誌の角を、指で、撫でた。


ミレイアはいま何をしているだろう。


教会のあとの、新しい仕組みを、作っているはず。彼女は書ける。だから、書いている。書けない人々のために、書いている。


俺はそう、思うことに、した。


冬の終わりが、近づいた。


雨の多い、季節だった。


ある夜。


冬の終わりの、雨が降った夜。


蛍光灯が、ジリ、と鳴いた。


棚の前で、俺はしゃがんでいた。


右手にハンディターミナル。左手に、業務日誌。


ボールペンで、品目を、数えていた。


「鎮痛剤、Aロット。十二、十三、十四……」


口に出して、数える癖は、変わっていなかった。


業務日誌の、最後の頁の、その先の頁。


ミレイアが書いた、丁寧な文字。


その隣の頁の、引っ掻き傷の、竜の文字。


それを、店主の机の、引き出しに、しまっていた。


たまに、開いた。


開くたびに、丘の上の風景が、思い出された。


その夜、店のドアベルが鳴った。


午前二時の、深夜営業に、客が、来ることは、ほとんど、なかった。


「いらっしゃいませ」


俺は棚から、立ち上がった。


入ってきたのは、長い銀色の髪の、女性だった。


頭巾の代わりに、白いマフラー。コートの色は、深い青。


雨を、避けてきた、ようだった。


肩のあたりに、雨粒が、ついていた。


棚から、薬を、一つ、手に取った。


子どもの、咳止め薬だった。


レジに、持ってきた。


「これ、ください」


「はい」


俺はレジを、打った。


「あなたの帳面の、文字、丁寧で、美しい」


女性は俺のレジの脇に、置いてあった、業務日誌を見ていた。


俺は顔を上げた。


女性の目は、深い、青、だった。


ミレイアの目と、同じ青、ではなかった。


ただ似ていた。


ふと思った。


似ている、というのは、別人だ、ということだ。同じ人ではない。


それでも、同じ気持ちを、持っている人は、世界に、何人もいるかもしれない。


俺の業務日誌の、文字を、丁寧で美しいと、感じてくれる人は、世界に、ミレイア一人ではない、かもしれない。


そう、思いたかった。


そう思うことが、ミレイアの言葉を、特別に保つ、唯一の方法でもあった。


俺はゆっくり頷いた。


「お子様の、咳ですか」


「ええ。寒くなって、急に」


「これは、こちらの方が、効きが早いです」


俺は別の咳止め薬を、提案した。


「ありがとう。じゃあ、これも」


女性は二つ、買って、店を出た。


ドアベルが鳴った。


雨の音が、一瞬、店内に入って、また、消えた。


俺はレジに、立ったまま、しばらく、動かなかった。


業務日誌を開いた。


最後の頁の、ミレイアの文字。


その隣の頁の、竜の文字。


その次の、空白の頁に、俺はペンを置いた。


書こうかと、迷った。


書かなかった。


書かないまま、業務日誌を閉じた。


書かないまま、置いておくのも、悪くない、と思った。


棚卸しの世界には、確定していない欄が、ずっと、あっていい。確定しないということは、続いている、ということだから。


蛍光灯が、ジリ、と鳴いた。


棚の前に、しゃがんで、俺は続きを、数え始めた。


「鎮痛剤、Aロット。十五、十六、十七……」


声に出して数えた。


数えないと、忘れる。


忘れれば、後で、困る。


俺の棚卸しは、千年前の誰かから、続いている。


俺の棚卸しは、千年後の誰かへ、続いていく。


「続く者の、手に」


俺はぽつりと呟いた。


呟いた声は、誰にも届かなかった。


それでも、口に出さないと、忘れる気がした。


俺は佐倉拓也。地方都市の、小さな商店の、店主。


肩書きは、書かない。


ただの、作業員。


けれど、誰よりも丁寧に数を数える。


棚卸しは、終わらない。


続く者が、いる限り。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ