第二十一章 深夜二時、棚卸し
目を開けた。
蛍光灯が、ジリ、と鳴いた。
白い天井。消毒液の匂い。点滴の管。
病院だった。
「佐倉さん、目が覚めましたか」
看護師が覗き込んでいた。
「ええ」
「三日、眠ってました。事故、覚えてますか」
「強盗の、男」
「警察、捕まえました。お客さん、無事です。岸本さんも」
「良かった」
俺は目だけで頷いた。
頷きながら、自分の指を握ってみた。
握れた。
異世界の感触は、もうない。星の濃い空も、雨の路地の冷たさも、ミレイアの手のひらの温度も、すべて、ない。
ただ胸ポケットの中の、業務日誌の角張った感触だけが、ある。
俺は片手を、ゆっくり胸ポケットに伸ばした。
業務日誌は、あった。
最後の頁をめくった。
ミレイアの、丁寧な字。
その隣の頁の、引っ掻き傷の、竜の文字。
ある。
確かに、ある。
俺は目を閉じた。
涙は、出なかった。
ただ深く息を吐いた。
退院は、一週間後だった。
退院の手続きをしているとき、ライフマートの、店長・桜井が、見舞いに来た。
「佐倉、よく頑張ったな。会社からの、見舞金だ」
封筒に、薄い紙幣が、入っていた。
「お前の頑張りは、ちゃんと、見てるからな。これからも、よろしくな」
桜井は肩を、ぽんと叩いて帰っていった。
俺は封筒を握ったまま、しばらく立っていた。
桜井の言葉は、十年前と、同じだった。
「俺がいなければ、お前は、何もできない」
直接は、言わない。けれど、彼の言葉の、裏にある音は、それだった。
俺はそれを、もう信じなかった。
退院した翌日、俺は堀川店に出勤した。
裏口から入った。バックヤードの、湿布薬の匂いが、変わらず、立ち上った。
棚は、強盗が暴れた跡が、まだ片付いていなかった。
俺はエプロンを、ロッカーから取り出した。
紺色の、十年使ったエプロン。紐の先が、擦り切れている。
紐を結びながら、自分が異世界で最後にエプロンの紐を地面に落とし、もう一度結び直したことを思い出した。
ここのロッカーの中の、こちらのエプロンは、結び直されないまま、ずっと、待っていた。
二つの世界は、別々に、続いていた。
そういうことだ、と思った。
俺は紐を結び終えて、棚の前にしゃがんだ。
「鎮痛剤、Aロット。十二、十三、十四……」
声に出して数えた。
数えながら、自分の手に目が行った。
ミレイアが俺の業務日誌を両手で預かった、あの日の手の感触が、まだ指の腹に残っている気がした。
異世界の感触が薄まっていく前に、俺は何かを決めなければならなかった。
桜井が、やってきた。
「佐倉、戻ってきたか。ああ、棚、頼むな。俺、本部の会議だから」
「はい」
桜井は、出ていった。
桜井は相変わらず、俺と目を合わせなかった。挨拶もろくにしない。事務的な指示と責任転嫁だけが、彼の言葉だった。
俺は棚を半日数えた。
数え終わって、業務日誌に書いた。日付。品目。数量。誤差。推定原因。
書き終えて、俺はペンを置いた。
退職届は、もうロッカーの中に入っていた。
退院の前夜、病室で書いていた。
書く前に、俺はずっと迷っていた。
迷ったのは、桜井の言う「お前は、ここでしか、通用しない」という言葉が、まだ頭の中に残っていたからだ。
だが、業務日誌を開いた瞬間、迷いは、消えた。
業務日誌の、最後の頁。
ミレイアの、丁寧な字。
「サクラ様の字を、丁寧で、美しいと思った気持ちは、本物です。今も、これからも」
それが、俺の、十年への、最終評価だった。
桜井の十年の罵倒よりも、ミレイアのたった一言の方が、信頼に足ると判断した。
書いた退職届は、丁寧に二つ折りにして、ロッカーの上着の内ポケットに入れた。
退職届を、人事に出した。
桜井が、慌てて飛んできた。
「お前、何考えてんだ。事故のショックか?」
「いえ」
「お前みたいな奴、どこ行っても通用しない。分かってんのか」
俺は、桜井を見た。
枢機卿バルディウスが、教会の応接間で、最後に俺に向かって言った言葉と、寸分違わなかった。
俺は、ゆっくり笑った。
笑いながら頭を下げた。
「お世話に、なりました」
「お前、本当に、辞めるのか」
「ええ。数えるのは、得意なので。どこかで、店を、始めようと思います」
「店? お前が? 無理に決まってる。資金は? 経営の知識は? 仕入れのコネは?」
「全部、これから、考えます」
「無理だ。絶対、潰れる」
桜井は、何かを言いかけて、やめた。
俺はライフマートの紺色のエプロンを、桜井の手に渡した。
擦り切れた紐の先まで、丁寧に畳んでいた。
「お返しします」
「これ、お前のだろう」
「会社から、支給されたものですので」
桜井は、エプロンを受け取った。
受け取った手が、どこに置いていいか、迷っていた。
俺は頭を下げて、店を出た。
外は、夕方だった。
堀川店の前の通りは、いつもの夕方の通り、だった。けれど、自分が十年通った道ではなくなっていた。
翌日から、俺は別の場所を歩いた。
退職金で、しばらくの生活費は出る。両親には、転職する、とだけ、伝えた。
中古の物件サイトを毎日見た。商店街の空き店舗を探した。
居抜きで、薬と日用品を扱っていた、小さな個人商店が、隣の市の駅前商店街に、出ていた。前のオーナーが、高齢で店じまいする、と書いてあった。
俺は、内見に行った。
店主は、七十代の男だった。痩せて、背が低い。だが、目は、優しかった。
俺は店主と、半日話をした。
仕入れの取引先、近所の客の好み、開店時間、深夜営業の必要性、競合店の状況。すべて丁寧に聞いた。
聞きながら、業務日誌に書いた。
書いている俺を、店主はしばらく見ていた。
「あんた、この帳面、ずっとつけてきたのかい」
「十年、です」
「それで、独立、するの」
「はい」
「うちの店、引き継いでくれる気は、ある?」
「あります」
「あんた、見てると、客の話を、ちゃんと聞いてる。最近、そういう若い人、少なくてね」
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
物件は、手頃な値段で、譲ってもらえた。
譲渡の日、前の店主は俺に、店の鍵と、自分の長年の取引先名簿を渡した。
「これ、私の宝物だった」
「いただいて、いいんですか」
「使ってくれた方が、私も嬉しい」
俺は、その名簿を両手で受け取った。
両手で受け取る癖は、ミレイアが俺の業務日誌を両手で受け取った日から、ついていた。
前の店主は、俺の所作を見て頷いた。
「あんた、引き継ぎ、ちゃんとできる人だな」
「お師匠の、おかげです」
「お師匠?」
「向こうの世界に、字を教えた、教え子が、いまして」
「向こうの、世界」
「ええ。話せば、長くなりますので」
前の店主は笑った。
笑いながら、自分のエプロンを外した。
そのエプロンを俺に渡した。
「使えるなら、使って」
俺は頭を下げた。
異世界でライフマートのエプロンを地面に落としたとき、俺はもうエプロンを二度とつけないかと思った。
なのに、別のエプロンが、別の人の手から俺に渡された。
紐の先は、擦り切れていなかった。
新しい、十年が、始まる、ということだった。
開業の届出書類の、店主の欄に、自分の名前を書いた。
「佐倉拓也」
役職は、書かなかった。
書かないまま、開業した。
店は、地味に、続いた。
近所の老人たちが、毎日、買いに来た。子どもが、駄菓子を買いに来た。学校帰りの中学生が、夏は麦茶を買っていった。
俺は棚を数えていた。
毎日毎晩、深夜二時に業務日誌を開いて、棚を数えていた。
棚卸しの癖は、変わらなかった。声に出して数える癖も。
ある日、客の老婦人がレジで、ぽつりと言った。
「ここのお店、安心するわねえ」
「ありがとうございます」
「商品が、いつも、同じ場所にあるの。歳取ると、それが、ありがたいの」
俺は頭を下げた。
頭を下げながら、業務日誌に書いた。
「老婦人、御客。商品の定位置を、評価」
書きながら、十年前、桜井に「お前は、棚を整える以外、能がない」と言われたことを思い出した。
棚を整える「以外」、ではなかった。
棚を整える「こと」が、能だった。
それを、初めて、客に、言ってもらえた。
異世界では、ミレイアに、字を褒められた。
日本では、老婦人に、棚を褒められた。
それで、十分だった。
半年後俺は新しい店員を、一人、雇った。
近所の、高校卒業したばかりの、女の子だった。岸本さんとは、別の人。控えめな子で、最初は、レジ打ちも、震えていた。
俺は彼女の隣で、ゆっくり教えた。
「上から下へ、右から左へ、決まった順で、打てば、誰でも、できますよ」
異世界の書記に、教えたのと、同じ言葉を、使っていた。
彼女は半年もすれば、すっかり、慣れた。
ある日、彼女が、ぽつりと言った。
「店長、お給料、少ないんですけど」
「すみません」
「いえ、文句じゃないんです。逆で」
「逆」
「他の店で働いてる友達と、話してて、いいなって、言われるんです。うちの店、有給ちゃんと取れるし、休憩、ちゃんと一時間あるし、店長、怒鳴らないし」
俺は頷いた。
「当然のこと、ですので」
「他の店、当然じゃないみたいです」
俺は業務日誌に書いた。
「当然のことを、当然に。続ける」
書いて、ペンを戻した。
夏が、過ぎた。
秋が、来た。
近所の老人が、亡くなった。常連の、おじいさんだった。新聞を、毎朝、買いに来ていた人。
葬式に、呼ばれた。
家族が、俺に、言った。
「父は、お宅の店に、毎朝、行くのを、楽しみに、していました。佐倉さん、いつも、優しくしてくれて、ありがとう」
俺は頭を下げた。
頭を下げながら、業務日誌に、書きたいことを、書けない自分を、知った。
葬式から帰って、業務日誌を開いた。
最後の頁の、ミレイアの字の隣に、新しい一行を書いた。
「人を、見送る、ということ。あちらの世界でも、こちらの世界でも、ある」
書きながら業務日誌の角を、指で、撫でた。
ミレイアはいま何をしているだろう。
教会のあとの、新しい仕組みを、作っているはず。彼女は書ける。だから、書いている。書けない人々のために、書いている。
俺はそう、思うことに、した。
冬の終わりが、近づいた。
雨の多い、季節だった。
ある夜。
冬の終わりの、雨が降った夜。
蛍光灯が、ジリ、と鳴いた。
棚の前で、俺はしゃがんでいた。
右手にハンディターミナル。左手に、業務日誌。
ボールペンで、品目を、数えていた。
「鎮痛剤、Aロット。十二、十三、十四……」
口に出して、数える癖は、変わっていなかった。
業務日誌の、最後の頁の、その先の頁。
ミレイアが書いた、丁寧な文字。
その隣の頁の、引っ掻き傷の、竜の文字。
それを、店主の机の、引き出しに、しまっていた。
たまに、開いた。
開くたびに、丘の上の風景が、思い出された。
その夜、店のドアベルが鳴った。
午前二時の、深夜営業に、客が、来ることは、ほとんど、なかった。
「いらっしゃいませ」
俺は棚から、立ち上がった。
入ってきたのは、長い銀色の髪の、女性だった。
頭巾の代わりに、白いマフラー。コートの色は、深い青。
雨を、避けてきた、ようだった。
肩のあたりに、雨粒が、ついていた。
棚から、薬を、一つ、手に取った。
子どもの、咳止め薬だった。
レジに、持ってきた。
「これ、ください」
「はい」
俺はレジを、打った。
「あなたの帳面の、文字、丁寧で、美しい」
女性は俺のレジの脇に、置いてあった、業務日誌を見ていた。
俺は顔を上げた。
女性の目は、深い、青、だった。
ミレイアの目と、同じ青、ではなかった。
ただ似ていた。
ふと思った。
似ている、というのは、別人だ、ということだ。同じ人ではない。
それでも、同じ気持ちを、持っている人は、世界に、何人もいるかもしれない。
俺の業務日誌の、文字を、丁寧で美しいと、感じてくれる人は、世界に、ミレイア一人ではない、かもしれない。
そう、思いたかった。
そう思うことが、ミレイアの言葉を、特別に保つ、唯一の方法でもあった。
俺はゆっくり頷いた。
「お子様の、咳ですか」
「ええ。寒くなって、急に」
「これは、こちらの方が、効きが早いです」
俺は別の咳止め薬を、提案した。
「ありがとう。じゃあ、これも」
女性は二つ、買って、店を出た。
ドアベルが鳴った。
雨の音が、一瞬、店内に入って、また、消えた。
俺はレジに、立ったまま、しばらく、動かなかった。
業務日誌を開いた。
最後の頁の、ミレイアの文字。
その隣の頁の、竜の文字。
その次の、空白の頁に、俺はペンを置いた。
書こうかと、迷った。
書かなかった。
書かないまま、業務日誌を閉じた。
書かないまま、置いておくのも、悪くない、と思った。
棚卸しの世界には、確定していない欄が、ずっと、あっていい。確定しないということは、続いている、ということだから。
蛍光灯が、ジリ、と鳴いた。
棚の前に、しゃがんで、俺は続きを、数え始めた。
「鎮痛剤、Aロット。十五、十六、十七……」
声に出して数えた。
数えないと、忘れる。
忘れれば、後で、困る。
俺の棚卸しは、千年前の誰かから、続いている。
俺の棚卸しは、千年後の誰かへ、続いていく。
「続く者の、手に」
俺はぽつりと呟いた。
呟いた声は、誰にも届かなかった。
それでも、口に出さないと、忘れる気がした。
俺は佐倉拓也。地方都市の、小さな商店の、店主。
肩書きは、書かない。
ただの、作業員。
けれど、誰よりも丁寧に数を数える。
棚卸しは、終わらない。
続く者が、いる限り。
了




