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異世界の棚卸し~地味なドラッグストア作業員が、世界の「ロス」を止めるまで~  作者: もしものべりすと


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第一章 深夜二時、棚卸し

蛍光灯が、ジリ、と鳴いた。


午前二時。ドラッグストア「ライフマート堀川店」のバックヤードは、店舗の表より一段冷えている。空調が落ちて二時間。古い段ボールの匂いと、湿布薬の香料が、薄く混ざっている。


俺は、棚の前にしゃがんでいた。


右手にハンディターミナル。左手に業務日誌。鉛筆ではなく、ボールペン。改ざんの余地がない方が、後で楽だ。


「鎮痛剤、Aロット。十二、十三、十四……」


口に出して数える癖が、十年でついた。声に出さないと、頭の中で他のことを考えてしまう。考えてしまうと、数え間違える。数え間違えれば、ロスが発見できなくなる。


ロス。


うちの業界では、減耗のことだ。万引き、廃棄、伝票違い、検品ミス。在庫が消えていく原因は、いくつもある。何が、いつ、どれだけ消えたか。それを把握できる人間が、店には一人か二人しかいない。


「佐倉さあん」


声が降ってきた。バイトの女子高生、岸本さん。レジ周りの清掃を頼んでおいた。


「なにか分からないことでも?」


「あの、佐倉さんって、なんでそんな細かく数えるんですか? ハンディだけでよくないですか?」


俺は手を止めず、答える。


「数えないと、消えたものが分からないからね」


「えー、別に消えてもよくないですか? 時給そんな上がんないし」


「そうかな」


俺は、鉛筆ならぬボールペンを動かす。手書きで日付、品目、数量、誤差、推定原因。エクセルにも入れているが、紙の日誌は別に取っている。理由は、自分でもよく分からない。十年前、最初の月から書いている。誰にも見せたことはない。


岸本さんはあくびをして、レジに戻った。


俺はバックヤードの空間を、ぐるりと見回した。


棚の上段、中段、下段。それぞれの段で、商品の動きが、まるで違う。


一番上の段は、補充の頻度が低い。重いものか、回転の遅いもの。中段は、目線の高さで、よく動く。下段は、かさばる商品か、家族用の大袋。


人は、無意識に、目線の高さの棚に、手を伸ばす。


俺は、その動きを、十年、観察してきた。


データは、エクセルに残してある。本社の若い社員が、たまに、参考にしたいと、データだけを持っていく。会議に出すと、得意げに、自分の発見のように、語る。


俺の名前は、出てこない。


それでも、いいと思っていた。


数字が、誰のものでも、棚の現実は、変わらないからだ。


俺は、ふと棚の奥を覗き込む。


何かが、ある。


奥の段、消費期限切れで処分予定だった胃腸薬の箱の、さらに奥。古い段ボール。ラベルが剥がれかけて、黄ばんでいる。記憶にない。


引き出すと、軽い。けれど、中で何か硬いものが転がる音。


開けた。


中に、金属の球。


握りこぶし大。表面に、知らない文字が刻まれている。


何だこれ。在庫管理してない。仕入れの記録もない。なのに、棚にある。


おそらく、十年以上前から、ここにある。代々の店長の引き継ぎから、漏れているのだ。


俺は、業務日誌に書き込もうとした。ボールペンを、構えた。


「在庫外の物体、一点。鉛色の金属球。径――」


そのとき。


店の前のガラスが、割れる音がした。


「動くな」


裏口の扉が蹴り開けられた。


黒い目出し帽。包丁。男の声は、上ずっていた。


「金、出せ」


俺は、ハンディターミナルを置いた。手のひらを見せて、立ち上がる。岸本さんを庇うように、半歩前へ。


「分かりました。落ち着いて。お金は、レジに」


「早く!」


男はレジへ走った。岸本さんが、震えている。俺は彼女の肩を引いて、バックヤードの奥へ押し込んだ。


「裏口から出て。警察、呼んで」


「佐倉さん――」


「いいから」


岸本さんは、転がるように消えた。


俺は男の背中を見ていた。レジを叩き、引き出しを引く。レジの引き出しは、夜は空だ。閉店時にすべて金庫に移してある。当然だ。商売をやっていれば、当然のことだ。


「ねえな! 金、ねえぞ!」


男が振り返った。包丁が、震えている。俺の方へ、踏み出してくる。


「お前、店長か?」


「いえ、ただの作業員です」


「うそつけ、夜中に一人で何してた」


「棚卸しを」


男の目が、迷った。


「なんだそれ」


「数を、数えていました」


俺は、両手を上げたまま、ゆっくり後退した。背中に棚。さっき開けた段ボール。金属球。


男が叫んで突進してきた。


俺は反射的に、後ろに手を伸ばした。掌に、冷たい金属が触れた。


その瞬間。


世界が、白く、消えた。


蛍光灯のジリという音も。湿布の匂いも。岸本さんが裏口で泣きそうな声で番号を伝える、その遠い声も。


すべてが、消えた。


代わりに。


土と、草の匂いがした。


俺は、自分の頬に何かが当たっているのを感じた。湿った草。


目を開けた。


空が、青かった。日本の空ではない、と直感的に分かった。雲の形が違う。流れる速度が違う。


業務日誌が、傍に落ちていた。エプロンのポケットから転げ出ていた。社員証が紐で首から下がっていた。ボールペンも、ある。


包丁の男は、いない。岸本さんも、いない。蛍光灯も、レジも、棚も、ない。


ただ、草原が広がっていた。


俺は、ゆっくり起き上がった。


「……夢じゃ、ないな」


土の匂いは、夢では嗅げない。


風が吹いた。遠くで、聞いたことのない鳥の声がした。


俺は、業務日誌を拾い、開いた。


最後のページ、最後の行に、書きかけの文字。


「在庫外の物体、一点。鉛色の金属球。径――」


径の続きは、書かれていない。


俺は、ボールペンを胸ポケットに戻した。


立ち上がって、辺りを見回す。


森の縁が、見えた。森を抜ければ、何かあるかもしれない。少なくとも、いま立っているのは、知らない場所だ。


知らない場所に、長く居てはいけない。


それが、夜勤の鉄則だった。


俺は、エプロンの紐を結び直した。


ライフマートの紺色のエプロン。胸元に、社員番号と「佐倉」の刺繍。十年前に支給されて以来、使い続けている。何度も洗って、色が抜けて、紐の先が擦り切れている。


不思議と、これが手元にあるだけで、少し落ち着いた。


俺は、自分の手のひらを見た。


特に、変わったところはない。指先のささくれも、左の親指の小さな傷も、いつものまま。


胸ポケットを探る。社員証、ボールペン、業務日誌、それから、いつも持ち歩いている小さなメモ。中世経済史の単語帳のようなもの。ハンザ同盟の交易品リスト、十字軍時代の物価表。


「俺は、まだ俺だ」


声に出すと、自分の声が思ったより低く、落ち着いていた。


森に向かって、歩き始めた。


夜勤明けの足取りは、いつだって重い。けれど、ここの空気は、どういうわけか、軽い。湿度が低い。日本の梅雨明けの森に近い乾き方だ。


森の入り口で、低木の葉に触れた。葉の縁が、見たことのない形をしていた。鋸歯の角度が違う。葉脈の走り方も、違う。


「植物が違う」


俺は、業務日誌の余白に書いた。日付の代わりに「異界・森林・第一日」と。それから「葉の鋸歯角、約四十度。葉脈、対称網状」と。


仕事の癖だった。気づいたことを、書き留める。書かないと、忘れる。忘れれば、後で困る。


森を進むうちに、獣道らしき細道を見つけた。人か、獣か、何かが通った跡。腐葉土の踏み跡が、一定の間隔で凹んでいる。歩幅で考えれば、人間に近い。


俺は、その道をたどった。


しばらく歩いて、一つの確信が生まれた。


「俺、この世界の知識、全然ないんだよな」


魔物が出るのか、出ないのか。日が暮れたらどうなるのか。水はどうやって確保するのか。何も、知らない。


ただ、棚卸しのときと同じだ、と思った。


知らない棚に当たったら、まず数える。数えれば、何があるか分かる。何があるか分かれば、次に何をすべきか、見えてくる。


俺は、足元の小石を数え始めた。意味はない。けれど、数えていれば、足が止まらなかった。

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