第16話 思いもよらぬ暗流①
「……はぁ」
ため息が、潮のように次々と押し寄せてくる。
もういいや、余計なことは、考えるのをやめよう……。
「昼休み」にでも、改めて「彼女(彼)」と話す機会を探そう。
今はとにかく、早く服を着替えることが先決だ。そうしないと、後で外に出た時に……またあいつにどんな皮肉を言われるか、分からない。
しかし……心の中では、そう自分を急き立てているのに、手の動作は徐々に、動きが遅くなっていた。
「白瀬の……制服……ごくり」
できるだけ気にしないように、努力していたが、喉から思わずごくりと、音が鳴った。
そして、ますます速くなる心臓の鼓動と共に、俺の視線はまるで、磁石に引き寄せられたかのように、柔らかな生地の制服に、釘付けになった。
最初に入れ替わった時に、身につけていたワンピースとは違う……。これは、俺が初めて「自らの意思で」、白瀬が以前着ていた服に、触れるということだ。
「……」
俺はそっと周りを見渡し、この薄暗い空間に、自分しかいないことを、何度も確認してから、ようやく勇気を振り絞り、慎重に手を伸ばし、その清潔に洗濯された制服を、手に取り目の前でゆっくりと広げた。
途端に体の匂いと、似ているようで、どこか違う清らかな香りが、鼻腔に流れ込んできた……。ドクン、ドクンと、激しく鼓動する心臓の音が、まるで倉庫全体に、響き渡るかのように、絶えず耳元で鳴り響いていた。
手に握っているのは、学校でどこでも見かける、見飽きてしまうほど普通の制服に過ぎないというのに
だが、この服があの「白瀬(笹原)」――普段教室の隅から、遠く眺めることしかできない、学校でもトップクラスの美少女の肌と体温に、ぴったりと密着していたのだと思うと、何とも言えない、興奮と緊張に襲われる。
今、俺自身が、その「白瀬(笹原)」だというのに……それでも、魂の奥底から湧き上がる、この本能を克服することは、できなかった。
――可愛いは正義だ!
もしこの服が、白瀬応援団のオークションに出されたら、一体どれほどの恐ろしい高値がつくのだろうか?
いやいやいや……俺、一体何を考えているんだ!?
神聖な制服が、もたらす誘惑……。まさに、悪魔の囁きだ!
慌てて頭を振り、混乱した考えを追い払うと、俺はあまり慣れない手つきで、ぎこちなくその、白瀬の制服を身につけた……。
大体は問題なさそうに感じたが、鏡がないせいで確認もできず、仕方なくその場でくるりと一回転し、手探りで裾とスカートを引っ張り、裏返っていたり皺が酷いところがないかを確認した。
そして、ようやく深呼吸をして、まるで闘技場へと向かうかのように、震える手で自信なさげに、半開きの扉をおそるおそる押し開けた。
「い、一応、着替えたぞ……白瀬……」
先ほどのワンピースよりもさらに短いスカートの裾をつまみながら、少し気まずそうに顔を上げる――が、外は妙に静まり返っていた。
「……白瀬?あれ?いない!?」
周りを見渡して、初めて、外には既に見慣れた人影が消えていることにふと気付いた。
あいつ!散々、外で見張りをしてやるって、言ってたのに……。あっという間に、俺を一人で置き去りにしたのか!?
焦って、ポケットからスマホを取り出し、尋ねようとしたが……そこに、表示されていたメッセージは、現実よりもイライラさせてくる――
『世界を救いに行くから、あとは、自分で頑張って』
――白――瀬!?
お前、服の下にマントを隠し持っているヒーローか!?
「くそっ、自分の体を気にもしないなんて……」
幸い、この時間は周りにほとんど人がいないが、万一誰か入ってきたら、どうするつもりだったんだ!?
仕方がない。
倉庫の前で立ったまま、空に向かって愚痴をこぼしても意味がない……。
俺はがっくりと腕を垂らし、消えた画面に映る不機嫌な顔は、まるで、自分の無能さを、嘲笑っているかのようだった。
誰からのアドバイスもなく、優しい励ましの言葉も、一つもない。
初めての「俺女子制服ver.」に対する、自信はとっくに、地の底まで落ちていた。
喉から溢れるのは、今朝から何度目かも分からないため息で、結局、覚悟を決めて、白いストッキングを履いた、やけにひんやりと感じる足を前に出し、渋々教室の方向へと進むしかなかった。
向き合いたくはないが、俺が「白瀬(笹原)」として過ごす最初の学校生活に対する、本当の試練は、まだ始まったばかりだった。
先が思いやられるな……。
「……教室、着いちゃったか……」
予鈴が鳴るまでにはまだ少し時間があるけど、普段なら一瞥するのも面倒なクラスのプレートの下で……俺は今回ばかりは、「二年A組」という文字を食い入るように見つめて、足が糸にでも絡まったみたいに、その場から動けずにいた。
そんな、ドアの前でため息をついている俺とは対照的に、一枚のドアを隔てたクラスの中は、とても賑やかな雰囲気だ。
――「ねぇ、昨日のドラマ見た?マジ神回で、お腹痛くなるくらい笑ったんだけど!」
――「それより宿題見せて!昨日の夜、ダーリンと深夜までラブラブトークしてて、すっかり忘れてたんだよ」
――「ああ!十連ガチャ、また爆死した!これで何回目だよ!マジでクソゲーだろ!なあ、もうちょっとだけ貸してくれねぇかな?」
――「またかよ。先週借りた分もまだ返してねーだろ。まずそっちからな」
――「……うう、こうなったら、もう体で返すしかないってこと!?い〜や〜ん」
――「男には興味ねーって!白瀬か天川さんなら、まだ話は別だけどな」
今、白瀬の名前が聞こえたような……!?
やっぱり、クラスのやつらにとって、白瀬の存在って特別なものなんだな。
うっ、急にプレッシャーが……。
「……ダメダメダメ!」
しっかりしろ、笹原准!初日からこんなんじゃ、この先どうやって過ごせって言うんだ?
「俺は白瀬……いや!私は白瀬、私は白瀬……!」
そう俯いて何度も繰り返し、まるでその言葉を骨の髄まで刻み込むように、強烈な自己暗示をかけて……俺はようやく勇気を奮い起こし、バシンと両頬を叩いた。
よし、行くぞ!
しかし、決意を固めた俺が、引き戸に手をかけた、その時だった……。
「……千紗ちゃん?ドアの前で突っ立って、どうしたの?」
「ひぃっ!?」
予想外に背後から鈴の音のように響いた声に、俺は思わず飛び上がりそうになるほど驚いた。
恐る恐る振り返ると、そこにいたのは、可愛らしい顔立ちと、驚くほどおしとやかな雰囲気を併せ持つ、美少女だった。
少し吊り上がった目尻は茶目っ気のある笑みをたたえ、透き通った瞳は空全体を映し出せそうなほど澄み切っている。
その一つ一つの仕草は、春風のように柔らかく、見る人の心を温める。
もし、気高く近寄りがたい白瀬が、深い谷に独り咲く鈴蘭だとすれば……。
明るい性格で人を心地良くさせる彼女は、盛夏に咲き誇る向日葵のようだ。
ただ隣に立っているだけで、心も体も癒やされていく気がする。
「……あ、天川さん!?」
「え?うん……天川だけど。どうして急にそんなよそよそしいの?いつもみたいに『琴音』って呼んでくれればいいのに」
いきなり名前で呼び捨て!?そ、そんなの、俺にできるわけ……。
そうだ、目の前の向日葵……じゃなくて、彼女こそ、俺がずっと、片想いしてきた相手――天川琴音さんだ!
今、彼女は不思議そうな顔で俺を見つめている。自然に小首を傾げる動きに合わせて、蜂蜜色のサイドテールが流れる砂金のようにさらりと揺れ、艶やかな光を反射させながら、ドキッとするほど甘い香りを漂わせた。
「な、なんでもない。ちょっとぼーっとしてただけだから。あま……いや……琴音……」
「ふふ、珍しいね。いつも真面目で集中してる千紗ちゃんがぼーっとするなんて。でも、もうすぐ授業が始まるから、ちゃんと頭切り替えなきゃね」
そう言って彼女は、ぱちりとウインクしながら、腕に抱えた重そうな教材の山を軽く揺らして見せた。




