第15話 穏やかな水面の下④
「……ど、どうしよう?」
手にした皿が、心の動揺と共に、わずかに震えているのを感じた。
「どうしようもないでしょ」
「白瀬(笹原)」は俺を一瞥し、きっぱりとした口調で、立ち上がった――
「仕方ないから、必要な物の位置を分かってる私が先に必要なものを取りに行く。あんたは……体育倉庫で着替えなさい、この時間なら誰も来ないはず」
う……別行動か?
これから、白瀬のワンピースを着て、一人で通学路を歩くことを考えると、強烈な不安と羞恥で胃がひっくり返りそうになるけど……。時間がない以上、他に選択肢もない。
ああ、こうなるんだったら、いっそ、あいつと一緒に、トマトを生でかじっていた方が、まだマシだった……。
「……じゃあ、そういうことで。鍵を閉めるのを忘れないで」
顔が青ざめた俺なんて完全に無視して、「彼女(彼)」は冷たくそう言い放った……。
いつの間にかすっかり出かける準備を整えていた、俺の鞄を肩に無造作に引っかけ、まっすぐ玄関へ向かう。
「ま、待って……」
「……まだ、何かあるの?」
「白瀬(笹原)」はそこに置いてあった俺の靴を、履き慣れない様子で、少し不器用そうに履きながら、顔には、不機嫌さを滲ませていた。
「……気をつけて。また、後でな」
「……」
やっぱり、余計だったか……。
「彼女(彼)」は答えず、ただ黙って背を向けドアを開けた。
晴れ渡った光が、瞬時に流れ込み、見慣れたその背中を浮き彫りにした。
けれど、俺が苦笑いを浮かべながら、その背中がドアの向こうに消え、ドアを閉めようとした、その瞬間――
「……いってきます」
確かではないが、その蚊の鳴くような声が、独り言だったのか、それとも、俺に向けられたものだったのか……。
だが、俺は確かに、期待していた返事を聞いた。
「……っ、ぼーっとしてる場合じゃない、急がなきゃ」
その返事に残された余韻を、じっくりと味わう暇もなく、俺ははっと我に返り、慌てて柴犬の柄のエプロンを外し、手にした皿を持って風のように、キッチンのシンクへと駆け込んだ。
ざーざーという水の音が、余計な考えを洗い流すと同時に、俺はふと、隣に……あいつの失敗した朝食デビューのせいで、残された、パンの袋に気づいた。
時間、まだ間に合うよな?
壁の時計を見上げ、俺は改めて何かを決意し、袖をまくり上げた……。
『服とカバン、もう準備できた。約束の場所で待ってる』
「……」
俺が慣れないワンピースを着て、息を切らしながら、校門の前に現れ。
震える指で、スマホを取り出し……その簡潔で、冷たく、それに独特のスタンプで構成された、白瀬らしいメッセージを、じっと見つめていた時、それを受け取ってから、すでに、15分が経過していた。
これから、どんな嵐が待ち受けているのかを考えると……まだ始まったばかりの一日が、すでに、暗雲に包まれているように感じられた。
――「あれって……白瀬さんじゃないか?」
――「なんであんな格好で学校に来てるんだ?それにスカート……なんか、ちょっと乱れてないか……?」
――「体調でも悪いのか?汗、すごいかいてるぞ」
――「あんな、色っぽい……じゃなくて、元気いっぱいな白瀬さん、初めて見たかも」
「……最悪だ」
良くも悪くも、さすがは、学校の人気者、白瀬というべきか……。さっき、通学路を走っている時から、周りからのちらちらとした視線をそこはかとなく感じてはいたけれど——
こうして校門前でほんの数分立ち止まっただけで、通りすがりの生徒たちが男女問わず足を止め、その視線を一斉にこっちに集中させている。
その目には、驚きや困惑、そしてほんの少しの興奮まで混じっているように見えた。
気づいた時には、引き寄せられた生徒たちが、校門の前で、輪を作りかけていた。
「うぐっ……視線が痛ぇ……!っ、じゃなくて!こんなとこで観賞植物になってる場合じゃねぇ!」
こんな格好で、教師に見つかったら、面倒なことになる……。
もはや、通学ラッシュと他人の視線を避けるという目的は、達成不可能となってしまった。それでも、覚悟を決めて探しに行くしかない。
どうか、すでに忍耐の限界を迎えていそうな「白瀬(笹原)」が、まだあの場所に残っていてくれますように。
「……」
周囲のひそひそ話をすべて無視して、ぎこちなく背筋を伸ばし、少し皺になったスカートの裾を引っ張る……。
そして、俯いたまま、できる限りの速さで人だかりの中を駆け抜け、好奇の視線をすべて背後に振り切った――
『ごめん、もうすぐ着く』
何の役にも立たないであろう、謝罪のメッセージを送り、もう一秒たりとも無駄にはできないと、少し遠回りしながら周囲に人がいないことを確かめ、記憶の中のルートを辿って、学校で最も人目につかない場所――体育倉庫へと急いで向かった。
俺も一応は運動部に所属してるけど……体育倉庫なんて場所、プールしか使わない水泳部とはまったくの無縁なんだよな。
そのため、体育の授業以外で、ここに近づくことは、ほとんどなかった……。
古い倉庫の鉄の扉は、少し開いており、その隙間から、薄暗い光が漏れていた。
「……白瀬、まだいるか?」
その、きしむ音を立てる扉を開けると、古い木と、埃が混じった匂いが、鼻をついた。
倉庫の中は、薄暗く、わずかな日差しが、高い窓から、斜めに差し込み、空中を舞う、無数の埃を、描き出していた。
その薄暗く雑然とした中で、見慣れた人影が、積み重ねられた跳び箱に、もたれかかっていた。
よかった……「白瀬(笹原)」、まだいる……。
今の「彼女(彼)」は、不機嫌そうに腕を組み、俺の平凡な目で、ぼんやりと光るスマホを、無表情で見つめていた。
そして、足元のマットの上には、見覚えのある女子の制服と鞄が、きちんと畳んで置かれていた――
「……遅い」
俺が遅れて入ってくるのを見て、顔すら上げようとしない「白瀬(笹原)」の声は、まるで、氷室の中の、冷たい風のようだった。
「……いったい何をぐずぐずしてるの?知らないおばあさんが道を渡るのでも手伝ってたの?」
「う、ちょっと……想定外のことが」
頬が微かに赤い俺が息切れし視線を逸らし、それに加え、慣れないスカートで太ももを擦りながら、みっともなく立っているのを見て……「彼女(彼)」は元々きつく顰めていた眉をふと緩め、悟りと呆れが混じった、ため息をついた――
「……あー、なるほどね。発散しきれない思春期の好奇心ってやつ?でも、朝からの自己鑑賞タイムも、ほどほどにしなさいよ」
「……うん、うん?」
じ、自己鑑賞タイムって何だよ!?
「なんでそんな、訳が分からないって顔してるの。違うの?てっきり、私が出て行ったあとで部屋に戻って、その体を存分に『堪能』してたんだと思ったけど」
は、はああああっ!?な、何を言ってるんだこの人は!?
「そ、そんな暇あるかっ!」
「へぇ……じゃあつまり、『興味がない』んじゃなくて、ただ『時間がない』だけってこと?」
「……」
そんな、誘導尋問には、一切答えない!
「答えたくない?まあいいでしょ。どうしようと、あんたの自由なんだから……ただし、私の時間を無駄にしないで。さっさと制服に着替えて。脱いだワンピースは、その鞄に入れればいい。まだ、十分なスペースがあるから……」
そう言うと、スマホをポケットに戻した「彼女(彼)」は、まるで、俺に興味を失ったかのように、くるりと背を向けて、倉庫の外へと歩いていった。
「待てよ……どこ行くんだ?」
「なんだ、朝はあんなに『早く出てけ』ってせかしてたくせに……」
足を止めた「白瀬(笹原)」は、口元にうっすらと嘲るような笑みを浮かべながら振り返った。
「外で見張ってるだけだよ。それとも、私がここに残って、直接着替えを手伝ってやった方がいい?」
「……あ、いや……それは、結構です」
喉まで出かかった言葉を、慌てて飲み込む……。俺のそんな歯切れの悪い態度に、ますます不機嫌になった「白瀬(笹原)」は、目を伏せ舌打ちをした。
「……フン、ほんと煮え切らないやつ」
吐き捨てるように言い残して、「白瀬(笹原)」の背中は振り返ることなく倉庫の外へと消えていった。




