混じりものはシノダノモリには還れない ⑦
老婆の声は、ゾッとするほど不快に潮の耳を打った。身体中の毛穴という毛穴が開き、肌が総毛立つ感覚に身震いする。
老婆の声に呼応するかのように突如襖が開き、蒼白い無数の腕が潮たちを絡めとろうとするかのように伸びてきた。
「ギャッ、化け物! 悪霊退散悪霊退散悪霊退散! ぎえっ、助けてぇ!」
「白銀!!」
ジタバタと暴れる少年から視線を外した汐緒がすぐさま白銀を喚ぶと、白銀は伸びてくる腕を噛み千切って応戦した。
「潮さんっ、どうしたんですか!?」
潮は老婆から目を離せないでいた。様子の可笑しい潮の変化に気づいた汐緒が肩を叩いてくるが、しかし潮は食い入るように老婆を見つめた。
やがて老婆の体が歪に歪んだ。ぐうっと丸まるように体を縮めた老婆の背中が、ナニかが這い出るかのようにグニグニと蠢いている。
「……何だあれは」
まるでそれは寄生虫が宿主だった肉塊から産まれ落ちる瞬間のような、そんな悍ましさがあった。ゾッとした様子で汐緒が呟くのを聞きながら、いつしか古びた皮を脱ぎ捨てた化け物は、白い肌を薄桃色に染めてこちらを見ていた。
二十歳そこそこの、少年と青年の狭間にいるような外見をした化け物の顔に、潮は見覚えがあった。
「アンノウンっ!!!」
首から上が、瞬時にカッと熱を持つ。汐緒の制止の声も聞かず、気づけば衝動のままに蠱毒腹を展開していた。グルグルと腹の底から湧き上がる飢餓感と、今まで感じたことのない重苦しい不快感のような息が詰まる激情に身を任せ、潮はアンノウンへと肉薄した。
頭の中にあるのは、この悍ましい存在をこの世から一刻も早く排除しなければならないというただ一つの純粋な殺意だった。
「……随分躾のなってない小童がいるものだね」
「……ぐっ……!?」
「潮さんっ!!」
アンノウンに手が届く前に、潮の細い身体は見えない何かに弾かれ叩き伏せられた。頭を打ったのかキィンと耳鳴りがする。蟲を全て集約してアンノウンに向かわせるが、しかし化け物は石ころでも見るように潮を見下ろすと指先を蟲に這わせた。
牙をたてようとしていた蟲たちはビクリと肉を震わせると、まるで自ら従うようにアンノウンの華奢な肢体へととぐろを巻くように集まった。それはまるで主に懐く下僕のようで、潮は咄嗟に力を解いた。だが、半分は潮の支配下から逃げ出したようで、アンノウンに従うように動かない。
「くそっ、持ってかれた」
「潮さん、怪我は!?」
「ねぇよ……でも蟲たちを半分持ってかれた。今は蠱毒腹は使えねぇ」
「ふぅん? 何か見覚えがあると思えば、ボクの蟲じゃないか。……だとすると、お前は実験の生き残り? とっくに全滅してたかと思っていたのだけど、まさか生きていたとはねぇ。まあ、失敗作には違いないからどうせ邪魔になるならあの時死んでいてくれればよかったのに」
「黙れ呪い屋風情がっ!」
アンノウンの言葉に汐緒が殺気だつ。彼の透明度のある瞳が、暗い室内で激情の炎で爛々と光っていた。
「呪い屋? それってボクのこと?」
不思議そうに首を傾げたアンノウンは、どこか嘲るような仕草で唇を吊り上げた。
「お前たちは本当に好き勝手名前をつけることが好きな生き物だよね。名前なんか何の意味もないというのに」
「化け物のお前にはそうだろうな」
「化け物? 酷いことを言うね、ボクは一応人間でもあるんだよ。それに霊力のない人間からしたら、異形を操るお前たちだって似たようなものじゃないか。ボクと一体何が違うと言うのさ?」
クスクスと品良く笑うアンノウンに、汐緒の首筋にビキリと青筋が浮かんだ。潮の身体を好き勝手に弄り回したその口で嘯く化け物に怒りが抑えられないようだった。代わりに怒ってくれる相方を見て、スウッと昂っていた感情が落ち着いていく。
なるほど、どうやら自分はこの化け物のことを殺したかったようだ。殺意も怒りもどこか他人事のように思っていたが、案外潮自身この人格破綻者を憎む気持ちが心のどこかにあったのだ。
それを自覚して、そして代わりに怒ってくれる親しい人間の存在を頼もしく思うと同時に嬉しくも思った。
今潮は一人ではない。共に戦う彼がいるのだ、激情に任せて動いたりするなどそれこそ自殺行為だと冷静になれた。
「何が違うかわかんねぇからてめぇは化け物なんだよ。大体普通の人間は何百年も同じ姿で生きられねぇし、衣替えみてえにコロコロ容姿も性別も変えらんねぇんだわ」
「……本当に人間は自分勝手だね。都合の良い時は神のごとく崇めたかと思えば、次の瞬間には化け物だなんだと。まあ、好きに呼んだらいいさ、皆ボクのことをいつも好きに呼ぶんだから。昔は陰陽師だなんだと呼んでいたけれど、今は呪い屋と呼ぶんだから、使用している力は同じだと言うのに」
一緒だけ深い黒曜石のような瞳が長い睫毛で覆われる。しかし次の瞬間にはアンノウンの手には頭蓋骨が現れ、ふざけるように頭蓋骨の顎をパカパカと開閉させた。
「お前たちは要らないから花嫁たちの新しい婿になるといいよ」
楽しげに笑うアンノウンの背後、部屋の奥から花婿の格好をした無数の骸骨たちがよろよろと這い出てきた。
うああぁぁぁぁぁと反響する髑髏の声に顔を歪める。
「ボクが欲しいのはその子だけだからね!!」
「うぎゃあっ!」
アンノウンが発した声に呼応して伸びた腕が後ろで泣き喚いていた少年の手首を掴んだ。拘束された少年の可哀想な声に振り向いてすぐに札で祓おうとするが、他の腕に邪魔をされる。
数が多すぎて汐緒も少年を救出することができないでいた。
「ヤダヤダヤダヤダっ、助けて円くん!!!」
少年が叫んだ瞬間激しい雷鳴が轟き、眩しい閃光がバリバリと少年を拘束していた腕を焼き払った。
バチバチと激しい電光に、雷が落ちたと気づいて瞠目する。閃光の中から現れたのは、背の高い一人の少年だった。
「環っ」
「……ま、円くぅんっ!!!」
「怪我は?!」
「し、してない、してないぃ~。こ、こわかったぁぁ」
息を切らして現れた端正な顔立ちの少年に抱き付いた環と呼ばれた彼は赤子のようにびええと泣いた。鼻水だらけの彼が怪我をしていないとわかると少年はホッと安堵したように息を吐いてから、環のまろい頬をきつくつねった。
「っの馬鹿がっ! あれほどイタチから離れるなと言っただろう!!」
「違うよぉ、離れてないぃ気づいたらここにいたんだよ~! 怒らないで、怒らないでぇ」
怒声を浴びた環は見ているこちらが可哀想に思うほど哀れっぽく涙を溢す。
「え、円くん?」
困惑しながら名前を呟いた汐緒に遅まきながら潮もハッとした。
土御門円──土御門家当主その人である。
「……汐緒さん? 何故貴方がここに?」
汐緒の声に他にも人がいることに漸く気づいたのか、少しだけ驚いた様子で円は呟いた。ここに辿り着くまでに力を使いすぎたのか、涼やかな美貌には汗が滲んでいる。
「まったく、呼んでいないのに無駄に人が増えるね。面倒だから、その子だけ置いてお帰り頂こうかな」
白けた様子のアンノウンが指を鳴らすと、潮から奪った蟲がとぐろを巻いて一匹の大蛇へと変化した。大蛇の身体は蟲の細かな脚がはみ出ていて、見るに耐えない。環がそれを見て吐き気を催したように嘔吐いた。
「穢らわしい蟲ごときが」
印を結んだ円から素早く結界の箱が生み出され、前方にいた腕や髑髏ごと囲んで押し潰した。
盾にも武器にもなる異能力の汎用性に感嘆しつつ、しかし数が多すぎて結界から逃れた残りの髑髏を札で滅する。
一匹の肉の塊になった毒蟲は身体中から穢れと毒を撒き散らしながらこちらへと突進してきた。
すぐに円が結界を張るが蟲たちは潰されながらもすぐさま再生し、キリがなかった。
「蟲は蟲でも人の中で長く喰らった蟲たちだからね、そこらの蟲とは性能が違うよ」
「くっ……このっ」
「円くんっ、ダメだよ、力を使いすぎちゃう!」
円の手首に巻かれていた数珠が光を放ち、目の前に式盤のようなものが現れる。それを見て環が焦った様子で円の腕に縋りついて止めようとするが、円は構わず唱えた。
「北方を守護する水神よ、荒れ狂う水を操り雷を振り下ろせ──土御門の血と名を持って命ずる玄武よ顕現せよっ! 急急如律令!!」
閃光が命なきモノを焼き払う。バリバリと激しい落雷と共に蟲共々全ての穢れが神の一撃をくらい、消失した。
「……すっげ」
これがかの安倍晴明が使っていたとされる安倍家に伝わる秘術か。流石安倍家を祖としている家の当主の霊力ではあるが、まさか嫡流とはいえ直系ではない人間がその力を使いこなせるとは思ってもいなかった。
まさしく神すら従わせる力。
人間の身で奮うにはあまりにも規格外である。
黒い体に亀と蛇が共存している玄武は、のっそりと重たい首をもたげた。
「……なるほど、懐かしい気配だと思えばお前土御門の人間か。だけどこいつを使いこなすには力量不足のようだね」
「負け惜しみ言ってんじゃねぇよ。てめぇの手下は皆消えたぜ、この屋敷も直に消える」
「負け惜しみ? ふふふ、あはははははっ。たかが人間風情が可笑しなことを。お前たちが一体ボクに何をできるって? そこの人間は玄武一体顕現しただけで随分辛そうだって言うのに、お前には目がついていないの?」
確かに円は疲弊していた。蒼白な顔で立つ彼は、しかし環が支えようとする手を拒んで気丈にも一人でしっかりと立ってアンノウンを睨んでいた。
「玄武、その男を滅殺しろ」
玄武が咆哮し、その身から激しい放電がアンノウンに降り注ぐ。
「……誰が主人か忘れたか」
しかしアンノウンに雷が落ちる直前で、その力はふっと霧散した。
「なっ……」
潮も汐緒も何が起きたのかわからなかった。背後で円の鋭い舌打ちが聞こえ、彼だけは状況を呑み込んでいた。
「おいで、玄武」
それは不思議な声だった。ただ一言、アンノウンがそう言うと、玄武はゆったりとした動作でアンノウンの傍に寄ると頭を垂れた。その姿はまさしく恭順な下僕のようで、潮たちは瞠目する。
何故土御門の十二天将の一体である玄武があの化け物に服従するのか。
「何を驚いているの? これは元々ボクの使役していたモノなんだから、ボクに従うのは当たり前でしょ?」
昔は陰陽師と呼ばれ、玄武に対して誰が主人か忘れたかと嘯く。まさか、奴は──。
一つの答えに辿り着いた瞬間、眩暈がした。
そんなことありえない。だとしたらアンノウンは千年も昔から生きていることになる。
千年前の陰陽師、十二天将を使役し、人々を守り異形を祓った祓い屋の在り方を築いた男──。
「やはり貴様、安倍晴明か」




