をばれうと鳴き声⑦
彼女は多分山の奥にいる。その毛皮を返してやってくれ。繁雄はそう言うと、疲れたように座り込んだ。
「返してやってくれって、今から燃やそうと思ってたんだが」
「……それを返したら、彼女はここからようやっと解放される。そしたらもう子供を拐ったりはしないはずじゃ」
「それはどうでしょうか。この毛皮、村の人たちが剥いだんじゃないんですか? 村に繋ぎ止めるために。だとしたらその怨みは村に住む人全てに向かう可能性がある」
汐緒の言葉は最もだった。無理やり服従させられ村のために搾取され続けていた永い年月は、怨みを濃縮させるには十分だ。たとえ剥いだ当事者たちがもうこの世にいないとしても、村の人間というだけで復讐対象になりえる。知らなかったとしても、繁栄や安寧を享受していただけで、妖怪からしたら当事者と変わらない、加害者だ。
「そうなったらなったで、それが神の決めた神罰じゃろう。報いを受けることになっても、仕方がない」
「仕方ないだって?」
鶏ガラのような老人の胸倉を掴んで引き寄せる。あまりに勝手な言い分に、先ほどからしている胸の悪さが悪化した気がした。
「無知は罪だっていう奴もいる。でもな、隠された罪を知らなかっただけで連帯責任にすんのは違うだろ。怪異は人間側の事情なんか関係ない、皆殺しにされる。こっち側の理が通じない相手に対抗する手段があるのに、てめえの感情優先して全滅しても仕方ねえってか?!」
無知は罪。潮もそう思っている。だがそれは知らないことが罪なのではなく、そこにあるのにあえて知ろうとしないことが罪なのである。
「見たこともねぇ神のせいにすんなよ、ジジイ。てめえが罰を受けて楽になりてぇだけなのに、他人を巻き込むんじゃねぇよ」
低く吐き捨て、軽い老人の体を無造作に離した。人形のように力なく項垂れながら俯く繁雄から視線を外すと、黙って成り行きを見ていた汐緒を呼んで歩き出す。
汐緒はここで待っていてください、とだけ繁雄に告げてから潮の隣に並ぶ。そして潮の手にある毛皮をチラリと見た。
「それ、燃やさないんですか」
「……いざとなったら燃やす」
そうですか、と呟いた汐緒に何だよと振り向こうとした瞬間、ムワッと漂う強い潮と磯の香りにバッと顔を正面に向けた。
「何だこの臭い」
村で最初に感じた磯の香りに混じる潮の香りは、暴力的なまでの悪臭を漂わせていた。山全てに、海の気配を感じる。海藻とプランクトンの死臭は、濃厚な海の生と死を感じさせた。
「潮さん」
「あぁ、急ぐぞ」
おおよそ山を歩く格好ではないので、歩き辛いそれに舌を打つと、汐緒が足を止めた。
「この靴だとこれ以上は危ないですね。……仕方ない、潮さんちょっと待っててください」
それだけを告げると、汐緒は慣れた様子で犬神を呼び出した。
「乗ってください」
「いや、ダメだろ」
馬にでもするような気軽さで汐緒が促すのを、潮は思わず目を剥いて首を左右に振った。
犬神は主以外にはその体に触れることは許さないし、何より凶暴である。良くて振り飛ばされるか、最悪頭を喰い千切られて殺されるだろう。彼らは気難しく気位が高い生き物なのだ。
「大丈夫ですよ。潮さんのことは絶対傷つけさせません、俺が許しませんから」
その名の通り白銀がキラキラと輝いて美しい犬神は、真っ直ぐ主だけを見つめている。気高い気品さえ感じる。
「白銀、潮さんを落とさないでね」
汐緒の言葉に、白銀はその琥珀色の美しい瞳を潮へと向けた。仕方ないなと諦めに近い色が宿っている気がして、どこか人間臭さを感じる。
何となく申し訳ない気持ちになりながらヒラリと飛び乗ると、それに続いて汐緒も潮を囲むように背後に飛び乗った。
大の男を二人乗せても安定感のある乗り心地に、思わず感嘆の声が漏れる。目まぐるしく通り過ぎ去る風景に、しっかり白銀の首辺りにしがみついていると、ふいに足が止まった。
「多分この近くに居ますね」
少し開かれた場所で白銀から降りて、小さく礼を述べると少しだけ尻尾が揺れた気がした。
「白銀も潮さんのこと気に入ったみたいですね」
「白銀もって何だよ」
「俺も潮さんのこと気に入ってるからですね」
「はいはい、言ってろ」
こんな時だというのに気の抜けることを言いながらニコニコ笑う男に、呆れて右手をヒラヒラと振った。
「白銀ってお前が名付けたの?」
「そうですよ。最初は色から銀か白どっちかにしようと思ってたんですけど、ペットじゃないんだからって上から怒られちゃって。面倒臭くなって、だったらどっちもくっつけてしまおうってなって、白銀にしました」
「面倒臭いって言うなよ……」
気のせいか白銀の尻尾が力なく先ほどよりも下がった気がする。何となく可哀想に思い、それ以上その話題は広げなかった。
「にしても、まじで臭いヤベェな」
人間なので海の中で呼吸したことなどないが、もしできたとしたら、きっとこんな臭いがするのだろう。活動的な人間ではないので海で泳いだこともないが、海の腕で囲われているような気持ちになる。
「荒れた海の臭いを悪化させたみたいな臭いですよね」
鼻の良い犬神である白銀も、この臭いには不愉快そうにしていた。
「……! くるぞ!」
殺意と深い憎しみを纏ったナニカが、勢いよく頭上から攻撃してくるのを、身を低くして避ける。
甲高い鳥の鳴き声が鼓膜を震わせる。
「白銀っ、引き裂け!」
高い跳躍で白銀が攻撃するが、身軽なそれは難なく躱してしまう。飛ぶ羽などとうにないというのに、それは誰よりも空を支配していた。
『カエセ……カエセ……』
潰れたような女の声が、怨嗟を吐く。
下半身は猛禽類のようなそれに、上半身は人型の女の形をした姑獲鳥の腰からは、不似合いな悍ましい色をした尾鰭がついている。ヘドロのような色をした尾鰭は、鱗が不揃いに生えている。まるで腐敗しているような歪な形は、見ているだけで痛ましい。
「お前が探しているのはこれか?」
持っていた毛皮を見せれば、姑獲鳥の目の色が変わった。獣の唸り声を発して突っ込んできた姑獲鳥の鉤爪がその身に届く前に、すぐさま札を取り出して弾いた。
鉤爪と結界が激突して生まれた激しい突風に目を細めていると、汐緒に命じられた白銀が潮の前に躍り出て次の攻撃から庇ってくれる。
山の中で激しく戦闘を行えば、下手をすれば土砂崩れを引き起こす可能性がある。このまま長引くのは、潮的にもよろしくはなかった。
「おい! お前少し前に女を拐っただろう! そいつを返せばこの毛皮を返してやる!!」
話が通じるかはわからないが攻撃を躱しながら大声で怒鳴る。しかし案の定姑獲鳥は動きを止めなかった。落ち窪んだ眼窩にあるのは、深い怨みと憎しみだけである。やはり毛皮を燃やすしかないかと、視線を手元に落としたその一瞬を、姑獲鳥は見逃さなかった。
「潮さん!!!」
「っ……!」
気づいた時には姑獲鳥の鋭い鉤爪が眼前に迫っていた。
(ヤられる!!)
結界を張り直す時間はない。せめて致命傷になる部位は避けようと両腕をクロスして衝撃に耐えようとしていると、ふいに大きな何かが潮に覆い被さった。
「つ……うっ……!」
「汐緒!?」
汐緒の切り裂かれた肩から、パタパタと鮮血が滴り落ちて潮の頬を濡らした。
主を害された白銀の怒りの咆哮が大地を揺らす。
「お前っ、何で庇った!!」
「……はぁ、はぁ、そんなの、潮さんの綺麗な顔に、傷つけたくないからですよ」
ふざけたように片目を瞑って微かに笑みを浮かべる汐緒の息は荒い。傷口から嫌な穢れが漏れでているのを見て、それが普通の怪我ではないことを悟る。
姑獲鳥の毒に犯された傷を、このまま放置する訳にはいかない。
(オレは何をやってんだ!!)
一瞬の隙や躊躇が命とりになることなど、この仕事では当たり前だというのに。
できれば毛皮を返してなるべく穏便に事を進めたかったが、最早そんな猶予も余地もない。毛皮を燃やして弱めてから祓うよりも、全て腹に納めてしまった方が早い。息を吸い、呼吸を整えてから口を開こうとしたその瞬間──しかし、眩い光がその場を覆った。
「何だ!?」
キィエエェェェェ!!
苦しみに悶える姑獲鳥が、木々に体をぶつけている音がする。その一瞬の隙を見逃さず、潮は叫んだ。
「白銀っ!」
その言葉だけで全てを理解したのか、素早い動きで白銀は潮たちを背中に乗せると、もうスピードで駆け出した。姑獲鳥の絶叫を聞きながら、今はただ距離をおいて逃げることが最善の策だった。




