第85話 国境
乾いた風が吹き抜ける、荒れ果てた鉱山跡。岩肌を穿った坑道の口はぽっかりと闇を孕み、かつてこの地に人の営みがあったことなど夢のように思えた。
そこに、重装備の兵士たちの足音が二手から響いた。西の尾根からは王国の部隊、東の峡谷からは帝国の偵察隊。それぞれ二十数騎ほどの精鋭部隊が、さほど時を置かず、ほぼ同時に鉱山跡に到達した。
互いの存在に気付き、緊張が走る。矢を番えた弓兵が身構え、剣を抜いた近衛たちが一歩前へ出る。王国の将校が眉をひそめ、帝国の指揮官も視線を細めた。空気がピンと張りつめ、今にも血が流れかねない空気が漂う。
だが──
「……敵の姿は見えんようだな」
沈黙を破ったのは王国側の老練な指揮官だった。手を上げて部隊を制し、冷静に周囲を見渡す。
それを見て、帝国の若き将校もすぐに呼応するように合図を送り、兵を止めた。
「我々も同じだ。報告では“黒衣の集団”がこの鉱山跡に潜伏しているとのことだったが……姿は見えない」
「ふむ。どうやら我らの目的は──一致しているらしいな」
二人の指揮官は徐々に歩み寄り、互いの距離を測るように視線を交わす。どちらもこの場での無用な衝突が国益にならぬことを理解していた。背後に控える部下たちの緊張は続くが、指揮官たちは理性を選んだ。
「そちらはどうしてこの情報を?」
「匿名の密告だ。我が帝国の辺境監察局に、怪しい集団の動きと共に、鉱山跡周辺で奇怪な動きをしているとの情報が届いた」
「……我らも同様。王都の密偵筋から、闇組織と思しき集団が何かを探している、という報せが入ったばかりだ」
「闇組織、か……厄介だな」
「まったくだ」
数瞬の沈黙のあと、王国側の指揮官が手を差し出す。
「この場では同盟とは呼べぬが、情報の共有くらいはしてもよかろう」
帝国の将校も頷き、その手を握る。
「一時的な協力、ということで」
こうして、敵の気配が消えた鉱山跡にて、王国と帝国の部隊は慎重ながらも歩み寄り、情報交換を始めることとなった。互いの背後に別の思惑が渦巻く中、真の脅威はまだ姿を見せていない──。
岩場の裂け目に、王国と帝国、それぞれの旗が翻る。
情報交換を終えた両部隊は、いまだ見ぬ〈黒翼〉の影を求めて、手分けして周囲の捜索を開始していた。
王国側の目的は、〈黒翼〉と〈暗黒騎士〉の行方であった。
「周辺の地形を再確認しろ。奴らは姿を見せずとも、どこかに潜んでいる可能性がある」
王国軍の指揮官──老練な騎士団員ベルトランは、地図を広げながら副官に命じた。〈黒翼〉は既にいくつかの村落を襲撃しており、〈暗黒騎士〉と呼ばれる存在が王国各地に混乱をもたらしている。今回の情報は、その主導者格が鉱山跡に潜伏しているというものだった。
「……痕跡はあるか?」
「いくつかの足跡が風化しかけています。靴の跡ではなく、獣に近い……いや、違う。これは鉄の靴か……?」
「やはり“あれ”か」
ベルトランは苦い顔で頷いた。〈暗黒騎士〉。〈聖騎士〉スキルを持ちながら、〈黒翼〉に堕ちたエリオット・アルテイル。──この地に現れていたとしても、何の不思議もない。
一方、帝国側の目的は、怪しい集団の調査。そして帝国側では冷静な調査が進んでいた。
「坑道内の空気に異常はない。魔力反応も、現時点では感知されない」
若き帝国将校アンドレアスは、魔術士を伴い鉱山内の調査を進めていた。彼らは帝国の情報機関からの指令で動いており、周辺で不審な動きを見せる“部外者の集団”──密輸団、賊、あるいは〈黒翼〉のような異端者──を警戒していた。
「しかし、この坑道……妙に整っている。通常の採掘跡とは思えません」
「掘削の痕に違和感があるか?」
「ええ。何者かが後から加工したような……」
「ふむ。だが隠し扉などは見当たらん。引き続き調査を続けろ」
彼らの目は、巧妙に隠された遺跡の存在にはまだ届かない。
◆
──両国の動きを察知し、早々と鉱山跡から撤収をしていた、黒きローブに身を包んだ〈黒翼〉の男たちは、歪んだ笑みを浮かべてその様子を窺っていた。
「ふん……王国と帝国が、揃いも揃って鼻を突っ込んできおったか」
「愚か者どもが。貴様らごときに、我らの“聖域”を見抜けるはずもあるまい」
その声には嘲りが滲んでいる。だが、同時に焦燥も隠しきれていなかった。
「だが、これ以上は邪魔だな。放っておけば、いずれは真実に辿り着く……何より、儀式の刻限が迫っている」
「──排除するか?」
「愚か者め。両国の軍事力は強大だ。我々だけでは返り討ちに遭うだろう。本部に連絡はしてある。後はそちらに任せて我々は監視を続ければいい。余計なことはするな」
◆
やがて、両国の捜索部隊は再び合流地点へと戻り、それぞれの報告を共有した。緊張感は残るが、共通の“何か”を感じ始めた者たちの間には、微かな理解の空気が生まれ始めていた。
「……では、どちらも決定的な証拠は得られなかったと?」
「今の所はな。だが、この沈黙こそが逆に不気味だ。何かが“隠されている”とすれば……」
「本命は、既に一歩先を行っているのかもしれんな」
坑道の奥、封印された壁のさらに向こう。〈黒翼〉が用いた古き魔術によって、真実は闇の中に封じられている。
遺跡は、彼らの眼前にありながら、誰にも気付かれていなかった。
鉱山跡の陽は傾き、坑道の口に落ちる影が深くなっていた。
王国と帝国──互いに剣を交える寸前だった両国の部隊は、共通の敵〈黒翼〉の行方が掴めなかったことから、にわかに協力体制を築いたものの、決定的な成果を得るには至らなかった。
王国軍のベルトランは、坑道の奥を見つめながら静かに言った。
「これ以上の調査は徒労だな。奴らは既に姿を消したか、あるいは……」
「あるいは我々の目を欺いて、まだこの地に潜んでいるのかもしれん」
帝国の将校アンドレアスが続ける。どちらの言葉にも確信はなかった。ただ、互いの直感が告げていた。
「このまま全軍を撤退させれば、真に狙われているものを見逃すことになるだろう」
「同感だ。──この地に警戒部隊を残そう。王国からは十騎、夜営のための物資も運ばせる」
「帝国も同数を配備する。あとは……本国に報告し、外交経路を通じて協議するしかないな」
緊張の中に、慎重な均衡が生まれる。
王国軍と帝国軍の指揮官は、互いに一礼すると、それぞれの部下へ撤収命令を下した。主力部隊はそれぞれ引き上げ、残されたのは合計二十名──両国の選りすぐりの警戒兵たちだった。彼らは無言で坑道とその周辺に目を配る。言葉は交わさずとも、彼らの視線は一点を見つめていた。
坑道の奥。
そこに、まだ誰も気付かぬ“何か”があると、直感していた。




