第66話 言葉届かず
静養所とされた離宮は、王都の北端にある古びた館だった。壁を這う蔦が年季を物語り、石造りの回廊には冷たい風が吹き込む。
王子──ラグナルは、薄闇に沈む書斎の椅子に深く身を沈めていた。燃え尽きた蝋燭の香りが、空気に微かに残っている。
「……なぜだ、レオナード。なぜ、俺では駄目なのだ」
宰相は黙っていた。だが、その沈黙は否定でも嘲りでもなく、ただ静かに受け止める色をしていた。
「俺は……王子として、剣も学び、戦術も修めた。……父上の期待に応えるため、努力もしてきた。なのに……なぜ、奴にばかり目を向けられる」
ラグナルの声音には、苛立ちと悔しさ、そして言葉にしきれぬ痛みが滲んでいた。
「確かに……俺は失敗した。だが、あれは……状況が悪かっただけだ。情報が乏しく、兵が動揺していた。俺だけの責任じゃない……はずだ……」
声が次第にかすれていく。彼の手が震えていた。
「……レオンを見た時、思ったんだ。なぜ、あんな男が、民にあれほど慕われるのか。なぜ、あんな目で父上は奴を見るのか。俺には……わからなかった」
ふと、宰相が歩み寄る音が、静寂に混じった。彼は小さく息を吐き、そしてゆっくりと口を開いた。
「……殿下。妬む心を持つことは、人として当然のこと。だが、それを恥じる必要はありません。問題は、それをどう扱うかです」
ラグナルは顔を上げた。宰相の瞳は、深い湖のように静かだった。
「レオン殿が民に慕われるのは、血筋でも戦の手柄でもなく──ただ、彼が民を見ているからです。自らの名誉ではなく、他者の痛みに目を向け、歩み寄ろうとしている。それが人の心を動かすのです」
「……俺は、違うと?」
「現時点では。ですが殿下にも、本来それは出来るはずなのです。ただ……今は、焦りが目を曇らせている。自らを証明しようと急ぐあまり、周囲が見えなくなっているのです」
宰相は静かに椅子を引き、王子の隣に腰を下ろした。
「戦での失敗も、恥じるだけで終わらせてはなりません。兵を失った痛みを、忘れぬことです。そして次は、誰よりもその命を守ると、誓うのです。──それが、真の王たる姿です」
ラグナルの視線が宙をさまよう。拳を握る音が、微かに聞こえた。
「……それでも、レオンの影は消えない。あいつは……俺の中に、棘のように刺さっている」
「ならば、殿下がすべきは、影に怯えることではなく、自らの光を灯すこと。影が濃いほど、光もまた強くなる。……そう信じております」
窓の外では、夜が深まり始めていた。揺れる燭火の中、ラグナルの瞳にほんのわずかに、揺らぐ光が宿っていた。
宰相が退室すると、書斎には再び静寂が訪れた。
◆
廊下に出た宰相は、足を止め、深く静かな吐息をついた。
(……なぜ、あの方は、いつまでも自分のことばかりを見るのか)
忠言を重ねる度、同じ想いが胸を刺した。
民も兵も、周囲の者も見えぬまま、自分だけを守ろうとし、自分だけが正しいと信じ込む──それが、いかに危ういか。幼子のような傲慢さに、彼は歯痒さを覚えずにはいられなかった。
(……王子であろうと、誰であろうと、人は周囲に生かされている。だというのに、なぜあの方は、そこから目を逸らし続けるのか)
けれど同時に、宰相は痛いほど分かっていた。それは幼少の頃から「王たる者」として育てられた宿命だ。誰よりも上に立ち、誰よりも強く、誰よりも正しくあれと叩き込まれたゆえに、あの王子は「己を守ること」が最優先になってしまったのだ。
(……それでも、気付いてほしい。周りを見ず、己の正しさに酔うままでは、やがて滅びの道を歩むだけだ)
そう願いながらも、心の奥底にある“諦め”もまた拭えなかった。
(次こそは……次こそは、と思っているうちに、私は何度も裏切られてきた……)
それでも、信じるしかない。老臣とは、最後の最後まで、主君の成長を信じるものだと、自らに言い聞かせながら。
宰相は、わずかに口元をゆるめた。
「……信じておりますぞ、殿下」
誰に聞かせるでもなく、呟くと、彼は再び歩き出した。石造りの回廊に、足音が静かに消えていった。
◆
蝋燭の火はゆらりと揺れ、壁に伸びる影が王子の背を飲み込むように長く伸びていた。
ラグナルは椅子に座ったまま、じっと床を見つめていた。指先は膝の上で静かに組まれている。だが、その内側──胸の奥底では、激しい葛藤が渦を巻いていた。
(……光を灯せ、だと……? 俺に、レオンと同じことをしろと?)
その言葉が、喉の奥で引っかかるように残っていた。
民を思え。兵の命を背負え。焦らず、自らの道を歩め──
理屈は分かっている。宰相の言葉には確かに理があった。長年王に仕えてきた賢臣の忠言。それを愚かと言い捨てる気はなかった。
だが、それでもなお。
(……俺は間違っていたか? 本当に?)
ラグナルの脳裏に、焼け出された村の光景がよみがえる。傷ついた民に手を差し伸べ、泥にまみれながら作業にあたるレオン。その姿を見て、自分は言葉も出なかった。ただ、冷たく見下ろすことしかできなかった。
(あれは、演技だ。……そうに決まっている。民心を得ようとする芝居。雑草のような身のくせに、己の境遇を武器にして同情を集める卑劣な真似……だが、父上は……まるで本物の英雄を見るような目で、奴を見ていた)
怒りではない。哀しみでもない。ただ、どうしようもない「喪失感」が、心を締めつける。
(俺は……王子だ。生まれながらにして、王になる資格を持つ者だ。……それなのに)
静かに目を閉じた。
(俺は間違ってなどいない。間違っているのは……奴だ。……俺を貶め、王家の威信をかすめ取ろうとしている。そうだ、あれは──脅威、敵なのだ)
己の中で、理性と劣情がせめぎ合う。だが最後に残ったのは、薄く澱んだ水底のような思念だった。
──正しいのは、自分だ。
その結論に辿り着いたとき、ラグナルはようやく立ち上がった。
窓の外を見やると、まだ月は上がっていなかった。
闇夜の中、彼の表情は誰にも見えない。
重く吐息をつき、静かに書斎を後にする。
誰に見られるでもなく、誰に語るでもなく。
彼は「静養」に努める王子として、規律を破ることなく日々を過ごし始めた。
だがその瞳の奥に、宰相の言葉が灯した「光」はなかった。
あるのは、静かに形を変えながら沈殿する劣等感と──それを燃料とした、冷えた嫉妬心のみ。
静養所の石壁は、その沈黙を守るかのように、今日も冷たく佇んでいた。




