第320話 講和への下準備
重厚な石壁に囲まれた帝国軍総参謀本部。天井近くに設えられた高窓から差し込む淡い光が、長卓の上に広げられた地図と報告書を静かに照らしている。
空気は張り詰め、沈黙すら命令の一部であるかのようだった。
「──以上が最新の聖教国の内情です」
〈灰色の眼〉諜報局長官ハルベルトは、抑揚を排した声でそう締めくくった。痩身の男は一礼し、そのまま微動だにせず立ち続ける。
彼の報告を受けていた帝国軍総参謀クラウディア将軍は、肘を卓につき、指先を軽く組んだまま視線を落としていた。
しばしの沈黙。
窓越しに寒風の微かな音だけが、部屋に残る。
「……それで」
やがて、低く澄んだ声が沈黙を切り裂く。
「〈聖女〉が実権を握る可能性は?」
ハルベルトは一拍置いて答えた。
「現時点では、まだ何とも。〈聖女〉に同調する聖職者や民衆は増えつつありますが、枢機卿会議の壁は厚い。主導権を奪うには、材料が足りません」
クラウディアは小さく息を吐いた。
その表情に感情は読み取れない。ただ、次の一手を盤上に描いていることだけは明らかだった。
「……ならば」
彼女は顔を上げ、灰色の瞳でハルベルトを射抜く。
「もうひと働き、してもらおうか」
ハルベルトの眉が、わずかに動く。
「聖教国内にて噂を撒け」
淡々とした口調で、だが内容は刃のように鋭い。
「教皇の責任放棄と枢機卿会議の腐敗、についてだ。事実である必要はない。民衆が信じれば、それで足りる」
卓上の地図に指先が落ちる。
聖教国の中心部。人口が密集する都市群。
「加えて、反戦の空気を作れ。〈聖女〉であれば戦争を終わらせられる。しかし枢機卿会議は継続戦を譲らぬ構えだ、とな。このままでは民衆が苦しむだけだと、繰り返し、執拗に」
ハルベルトは即座に理解したように、静かに頷いた。
「〈聖女〉自身の意思は問わず、ということですね」
「そうだ」
クラウディアの声は冷え切っている。
「望む望まないに関わらず、表に立たざるを得ない状況を作る。それが肝心だ。英雄は、選ばれてなるものではない。押し出されて立たされるものだ」
再び沈黙。
だが先ほどとは違い、それは既に動き出した策謀の余韻だった。
「承知しました」
ハルベルトは深く一礼する。
「噂は祈りの形で広めましょう。聖教国では、それが最も自然で、最も疑われません」
「任せる」
クラウディアは椅子に背を預け、目を閉じた。
「歴史は、勝者が書く。そして民意は、我々が整える」
クラウディアはしばし黙考した後、再び口を開いた。
「もう一つ」
その声に、去り際だったハルベルトの動きが止まる。
「民は戦に飽いている。それは聖教国だけではない。帝国も同じだ」
その言葉にハルベルトは内心驚きを隠せない。まさか総参謀の本心ではないだろうことは確かだ。となると、何かを考えているということだ。
クラウディアは静かに立ち上がり、窓際へと歩み寄る。遠く訓練場の方角から、微かに兵の掛け声が届いてくる。
「帝国は、戦の原因となった教皇や枢機卿会議の言葉に、もはや耳を貸していない。だが」
振り返り、冷ややかな瞳がハルベルトを捉える。
「戦を望まぬ〈聖女〉が相手であれば、交渉の余地はある。そう考えている、と」
ハルベルトは一瞬だけ目を細めた。その意図を正確に測り取ろうとしている。
「これは、ラドニアに展開している帝国軍、ならびに旧ラドニア諸都市の市民の間で広がっている、信憑性のある噂だ」
「……あくまでも、噂として、ですね」
「そうだ。公式見解ではない。だが、民が囁き、兵が酒場で語る程度には、現実味を持たせろ」
クラウディアは卓上の書類に視線を落としながら続ける。
「それが〈聖女〉陣営の耳に、あまりにも自然に入るようにしろ。帝国は敵意一辺倒ではない。話す相手次第では、剣を置く用意がある。そう思わせることが重要だ」
ハルベルトはゆっくりと頷いた。
「〈聖女〉が表に出る後押しに、というわけですね」
「そうだ」
即答だった。
「こちらから講和を持ちかけるのではない。向こうから、そうせざるを得ない、いや、そうしたいという空気を作る」
その言葉の裏にある意図を、ハルベルトは理解していた。
聖教国側からの講和提案。それこそが、帝国にとって最も都合の良い形だ。
「だが、王国が間に入る可能性は高い」
クラウディアは低く付け加える。
「単なる仲裁だけならともかく、余計な正義感で、事を複雑にされては困る。動きに注意しろ」
「承知いたしました」
ハルベルトは深く頭を下げる。
「噂は人の希望に寄り添う形で流しましょう。戦が終わるかもしれない、という期待ほど、広まりやすいものはありません」
「任せる」
クラウディアは再び椅子に腰を下ろし、書類へと視線を戻した。
「歴史の転換点は、いつも静かな囁きから始まる」
重厚な扉が開き、そして閉じられる。
諜報局長官の足音が遠ざかるにつれ、執務室には再び静寂が戻った。
だがその静けさの下で、既に一つの講和への道筋が、形を成し始めていた。
扉が閉じ切り、足音が完全に消え去った後も、クラウディアはしばらくその場に立ち尽くしていた。
沈黙が、重く執務室を満たす。
先ほどまで交わされていた言葉の余韻が、まだ空気の中に残っているかのようだった。
やがて彼女はゆっくりと椅子に戻り、背もたれに身を預ける。視線は天井でも書類でもなく、どこにも焦点を結ばない。
「……聖教国がどう動くか」
独り言のように、低く呟く。
「それは結局、〈聖女〉がどのくらいやれるか、だな」
民意を集める力。
枢機卿会議を押し退ける胆力。
そして、象徴として担ぎ上げられる覚悟。
そのどれが欠けても、計画は歪む。
「だが……」
クラウディアの口元に、ほんのわずかな苦笑が浮かぶ。
「やり過ぎてもらっても困る。聖人でも革命家でも、こちらの望みではない」
彼女が欲しいのは、戦を止めるための“顔”であって、制御不能な信仰の奔流ではない。
〈聖女〉が理想を掲げ過ぎれば、民は熱狂し、熱狂はやがて刃となる。
「……とはいえ」
小さく息を吐く。
「こればかりは、さすがにどうにもならん、か」
人は追い詰められた時、想像以上の力を発揮することがある。
ましてや、救いを求められる立場に立たされた者なら尚更だ。
クラウディアは机上の地図に手を伸ばし、聖教国の領域を示す部分を指でなぞった。
「選ばれたのではなく、押し出された存在が、どこまで行くのか……」
その行き着く先が、講和か、あるいは新たな混乱か。
それを決めるのは、もはや帝国の手の内ではない。
再び沈黙。
だがそれは、迷いではなく、覚悟の沈黙だった。
「……運命に任せる、というのは」
瞳が、冷ややかに光る。
「参謀の仕事ではないのだがな」
そう呟き、彼女は再び書類を取り上げた。
歯車は既に回り始めている。止める理由も、止める術も、もうどこにもなかった。
◆
「それでは次の議題ですが」
会議室の空気を切り替えるように、文官が静かに声を上げた。整然と積まれた報告書の一束を手に取り、頁をめくる乾いた音が響く。
「軍務院軍技研究局、および資源管理局からの報告です」
卓を囲む将官や高官たちの視線が、一斉に文官へ向けられる。
「軍務院軍技研究局が構想しておりました新兵器に関してですが……進捗状況は、芳しくありません」
わずかな間を置き、文官は続ける。
「研究に必要な資源が確保できず、代替となる素材もいまだ見つかっておりません。資源監理局からも、同様の報告が上がっております」
その瞬間、場の空気が目に見えて重くなった。
「……結局、計画倒れというわけか?」
低く押し殺した声が響く。将軍の一人が腕を組み、苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。
「あれだけ大口を叩いておきながら、なんとも情けない話だ」
「しかも、だ」
別の将官が冷笑混じりに続ける。
「連盟にすべてを嗅ぎつけられ、我が国の威信を傷つけるとはな。失敗だけならまだしも、交渉の場で無様さまで晒すとは」
「……最初から、大して期待はしておりませんでしたがな」
乾いた嘲笑が漏れる。
失望、怒り、軽蔑。そうした感情が絡み合い、会議室を満たしていく。
多額の研究費。
国家予算の中でも無視できぬ額を投じておきながら、この結果。
誰もが胸中で同じ思いを抱いていた。
「連盟はいまだ態度を硬化させたままだ」
誰かが吐き捨てるように言う。
「小国のくせに、生意気な連中よ」
その言葉を制するように、玉座の前から低い声が落ちた。
「……その件に関しては、もうよい」
皇帝だった。
不機嫌さを隠そうともせず、鋭い視線で一同を見渡す。
「両局に対しては、引き続き研究を重ねろ。そろそろ成果を出せ、と伝えよ」
簡潔で、有無を言わせぬ命令。
「……承知いたしました」
文官は深く頭を下げる。
「必ず、その旨を伝達いたします」
それで会議は終わった。
形式的な挨拶の後、重臣たちは次々と退室していく。
やがて皇帝は執務室へと戻った。
重厚な扉が閉じられ、ようやく一人きりになる。
不機嫌さ。
苛立ち。
そして、どうにもならぬ怒り。
それらが胸の内で渦巻いていた。
だが、問題は一つではない。
戦争、外交、内政、資源、反乱の芽。
どれもが待ったなしで迫ってくる。
「……儘ならぬことばかりよな」
皇帝はそう一言、吐き捨てるように呟いた。
その声は、広い執務室の中に虚しく落ち、やがて静寂の中へと溶けていった。




