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持たざる者は、世界に抗い、神を討つ  作者: シベリアン太郎


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第310話 湖底からの解放

 野営を撤収し、林の中を進むにつれて、木々の隙間にきらりと光るものが見え始めた。空は相変わらず曇っているが、それでも雲の切れ間から差し込む光が、遠くの湖面に反射しているのだろう。


「もう少しだな」


 レオンは周囲への警戒を怠らぬまま、わずかに安堵したように呟いた。


「湖って、どんな感じなのかしらね?」


 レティシアが興味深そうに視線を前へ向ける。


「生息している魔物も、正直よくわからないし」

「予想が正しければ、アンデッドもいるだろうな」


 レオンも率直な感想を漏らす。


「お魚はいるかな?」


 無邪気にそう尋ねるイルに、レオンは苦笑した。


「そりゃあいるだろうが……獲れないぞ。竿もないしな」


 その返事に、イルは目に見えて肩を落とす。


「油断はしない方がいいわよ」


 そこでレンリが口を挟んだ。


「沼竜やトードも、引き続き出てくるはずだから」

「えっ……」


 イルが思わず声を漏らす。


「もともと沼竜は水辺の生き物だし、陸にも上がれる。たぶん、湖の環境が変わって、湿原にも定着するようになったのが今の状況なんでしょうね」

「ってことは……」


 レオンは小さく息を吐いた。


「またあいつらを相手にしなきゃならないわけか。新顔の魔物もいるだろうし……なんていうか、疲れるな」


 しばらく進むと、前方の木々が途切れた。

 次の一歩を踏み出した瞬間、視界が一気に開ける。

 目の前に広がっていたのは、静かに横たわる巨大な湖だった。

 湖面は空の色を映し、曇天の下でもなお鈍く光を放っている。岸の向こうは遠く、その広さが一目では把握できない。少し高い場所から眺めれば、アスラン・ヘイブンの街一つ分くらいなら、すっぽりと呑み込んでしまいそうだった。

 四人は、かつてヴァレク・クロスで海を目にしている。地平線まで続く水の広がりを知っているはずだ。

 それでも──この湖の前では、足が止まった。

 静かに波立つ水面が、逃げ場のないほどの存在感で眼前に広がっている。海とは違い、閉じた地形に収まった水の塊が、圧縮された圧力のように迫ってくるのだ。


「……大きいな」


 思わず、といった様子でレオンが呟く。


「海を見たことがあっても、これは……別格ね」


 レンリが静かに息を吐く。


「うん……なんだか、全部持っていかれそう」


 イルは目を丸くしたまま、湖から視線を離せずにいた。


「一周するだけでも、相当な時間を取られそうね」


 レンリが冷静に告げ、四人は改めて、この湖の大きさに圧倒されていることを実感するのだった。


「……あれが〈沈んだ神殿〉ってやつか?」


 レオンがぽつりと感想を漏らした。

 視線の先、岸と湖の境目には黒っぽい土が帯状に広がり、浅瀬が洲のように突き出している。そのさらに奥、かつては水に覆われていたはずの場所に、遺跡と思しき石造の建造物が姿を現していた。崩れかけた柱や壁面は、長い年月を水中で過ごしてきたことを物語っている。


「少し干上がったのか?」


 レオンの疑問に、レンリは首を横に振った。


「いいえ。干上がったんじゃないわ。たぶん……やっぱり、大地が隆起したのよ」


 彼女は遺跡とその周囲の地形を指し示す。


「見て。湖からほとんど離れていないあの辺りが、丘になっているでしょう? かなり盛り上がっている。あそこも湖の底だったはずよ」


 レンリの指し示す先を見ると、確かに水際から続く地面は不自然なほど持ち上がっていた。湖底からそのまま押し上げられたかのような斜面の延長上──その裾野にあたる位置に、遺跡が据えられている。


「つまり、あの辺り一帯が大きく持ち上がったってことか」

「それに、もう一つはっきりした証拠があるわ」


 レンリは丘全体を示すように視線を巡らせた。


「あの丘一帯、ほとんど植物が生えていないでしょう? 草も低木も見当たらない。あそこは、つい最近まで湖の底だった証拠よ」


 確かに、周囲の湿原や林縁には生命力のある緑が広がっているのに、丘の表面だけが異様なほど剥き出しの土と岩で覆われている。時間をかけて根を張る植物が育つ余地がなかったことは、一目でわかった。


「斜面の形と遺跡の位置関係、そして植生の欠如──これらを考え合わせると、湖底だった地盤が地震で隆起したと考える方が自然ね」


 かつては湖の底に沈み、外界から隔絶されていた石の構造物。

 それが大地の変動によって水面上へと押し上げられ、今はこうして、誰の目にも触れる場所に晒されている。

 静かな湖畔に現れたその姿は、まるで長い眠りから呼び覚まされたかのようだった。

 改めて四人は、丘から遺跡へと続く地形をじっくりと観察した。湖岸から持ち上がった地面は不自然なほど滑らかで、その延長線上に、かつて湖底にあったはずの石の建造物が鎮座している。


「あれだけの地震だったんだもの」


 レティシアが、どこか呆れたように呟く。


「こんなことが起こっても、不思議はないということね」


 規模こそ比べものにならないが、大地を操る土の精霊魔法を使う彼女にとって、地形そのものが変わる現象は決して想像の外ではないのだろう。その声音には、妙な納得が混じっていた。

 一方でイルは、信じがたいものを見るような表情のまま、先ほどのレンリの説明を頭の中で反芻しているようだった。湖の底が持ち上がり、遺跡が姿を現した──その事実を、まだうまく飲み込めずにいる。


「で、だ」


 レオンが視線を遺跡に戻し、現実的な問いを投げかける。


「俺たちが目指すのは、あの遺跡ってことでいいんだよな?」

「そうね」


 レンリは短く、しかし迷いなく頷いた。


「どうしたって調査は避けられないでしょうし」


 こうして目的地は定まり、四人の視線は揃って、湖畔に姿を晒す〈沈んだ神殿〉へと向けられた。


「まあ、ちょっと休憩しようぜ」


 レオンが肩を回しながら言った。


「腹も減ったしな。昼飯を食って、それから考えよう」


 確かに、空を見上げればもう昼時だ。湿原を越え、林を抜け、湖まで辿り着いた疲れも、じわじわと身体に溜まっている。

 誰からともなく異論は出ず、四人は湖と遺跡が望める場所に腰を下ろすことにした。

 簡単な昼食を取り、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。温かい飲み物を口にしたところで、自然と話題は再び湖と遺跡のことへ戻っていった。


「神殿、といっても……そこまで大きなものじゃないんだな」


 レオンは湖畔に姿を晒す遺跡を眺めながら、そんな感想を口にした。

 規模としては、ヴァレク・クロスにある連盟評議会の建物を、もう一回り大きくした程度だろうか。神殿と聞いて思い浮かべるような、圧倒的な巨大さはない。それでも建造物としてはそれなりの大きさだとは言えるだろう。


「もっと無駄に大きくて、無駄に豪奢で、無駄な存在──って印象だったがな」


 皮肉気に笑うのは、これまで目にしてきた聖教の神殿や教会の記憶が強く残っているからだろう。


「中は、どうなっているのかな?」


 イルが首を傾げる。神殿や教会とは縁遠い彼女には、内部の様子がまったく想像できないようだった。


「神殿っていうからには、祭壇やら神像やらがあるんだろうな」


 レオンは肩をすくめる。


「まあ、入ってみて確認するしかない」


 その言葉に、三人は揃って頷いた。


「あそこに行くまでに、魔物も片付けないとな」


 視線を向ければ、湖岸から遺跡へと続く途中の浅瀬や土の洲に、沼竜らしき影がいくつも確認できる。今は動きを見せていないが、甲羅干しでもしているのか、無防備に見えるのがかえって不気味だった。

 さらに、少し離れた湖岸には、アンデッドと思しき魔物の姿もある。水辺を徘徊するその影を見て、イルがぽつりと疑問を口にした。


「あのアンデッドって……やっぱり、あの中から出てきたのかな?」


 遺跡を見つめたまま、続ける。


「でも、今までどうしてたんだろうね? ずっと……水の中だったんでしょ?」


 その素朴な疑問は、湖と遺跡が抱える異変の核心に、静かに触れているように思えた。


「確かに、水中で活動していたとは考えにくいよな」


 イルの疑問を受け、レオンは湖岸に目を向けたままそう呟いた。


「アンデッドってのは、基本的に地上を徘徊するもんだ。ずっと湖の底に沈んでたってのは、さすがに無理がある」

「私もそう思う」


 レンリも小さく頷く。


「水中で動けないとは言わないけれど……少なくとも、あの数が自然発生したとは考えにくいわね」


 そのやり取りの傍らで、レティシアは黙ったまま遺跡を見つめていた。

 表情は真剣で、眉間にわずかな皺が寄っている。


(アンデッドが現れた理由……)


 これまでの状況が、頭の中で静かに繋がっていく。

 大地を揺るがすほどの地震。

 湖底の隆起。

 そして、長い間水の底に沈んでいた神殿の出現。


(もし、あの中に何かが“封じられて”いたのだとしたら……)


 神殿とは、信仰の場であると同時に、封印や結界を施すための施設でもある。

 地形そのものが変わるほどの揺れがあったのなら、精巧に張られていた結界が壊れても不思議ではない。

 レティシアはゆっくりと息を吐き、視線を三人に向けた。


「……たぶん、偶然じゃない」


 静かな声だったが、迷いはなかった。


「地震で大地が隆起したことで、神殿に施されていた封印や結界が壊れた。そこで、何かが解放された──その結果が、アンデッドの出現なんじゃないかな」


 言葉を選びながらも、その瞳には不安が滲んでいる。


「“何か”が、まだあの中に残っている可能性もあるよ」


 湖畔に流れる風が、一瞬冷たく感じられた。

 四人は無言のまま、再び〈沈んだ神殿〉へと視線を向ける。

 調査は避けられない──だが、その先に何が待っているのかは、まだ誰にもわからなかった。


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