第309話 湿原に巣食う異変
朝食を終えた一行は、湿原のさらに奥へと歩みを進めていた。
広大な湿原を越え、その先にあるという湖を目指して。
しかし道行きは平穏とは程遠い。昨日と同じように、いや、それ以上に凶悪な魔物が次々と姿を現し、一行の行く手を阻んでくる。この日だけでも、既に何度目になるかわからないポイズントードとの戦闘を繰り返していた。
最新の一体を撃破した後、彼らは小休憩を取り、水筒を回して喉を潤す。
まだ午前中だというのに、辺りは薄暗い。空は厚い雲に覆われ、陽の光はほとんど差し込んでこない。気温も低く、湿原を吹き抜ける風は冷たかった。
「防寒具、作っておいて正解だったね」
レティシアがそう呟く。
彼女の身を包むローブは、かつて討伐した〈火焔熊〉の毛皮を加工したものだ。死してなお魔力を宿すその毛皮は、微かな熱を帯び続けており、防寒具として非常に優れている。ローブだけでなく、ブーツやグローブにも同じ素材が使われており、手足の冷えをしっかりと防いでくれていた。
「これ、ほんとにあったかいね」
イルが満足そうに笑う。
レンリもその恩恵に感謝しつつ、周囲への警戒は怠らない。視線を巡らせた彼女が、ふと足を止めた。
「……レオン。あっちに、魔物らしい気配があるわ」
「またポイズントードか?」
レオンはわずかにうんざりした表情を浮かべる。
「でも……なんか数が多い気がしないか?」
「そうね。五、六体……そのくらいはいそうかしら」
レンリの言葉に、仲間たちの表情が一斉に引き締まる。
湿原の奥、視界の悪いその先で、新たな戦いの気配が確かに膨らんでいた。
当初、レオンは剣に【原初の力】を纏わせ、正面から魔物を斬り伏せていた。
だが相次ぐ戦闘の中で、その所作は次第に変わっていく。
飽きたのか。
あるいは、ただ面倒になっただけか。
いつの間にか、剣は振るわれなくなっていた。
レオンは鞘に収めたまま、【原初の力】だけを解き放つ。空を裂く不可視の刃が魔物を斬り刻み、衝撃の塊が胴体を破砕し、押し潰す。断末魔を上げる暇すら与えられず、魔物たちは湿原に崩れ落ちていった。
それすら億劫になったのだろう。
やがて彼は斬ることも、砕くこともやめた。
ただ一歩、踏み出し、魔物の群れに向けて、手をかざした。
押すような仕草。
あるいは、邪魔なものを払いのけるような、雑な動き。
それだけで【原初の力】が奔流となって解き放たれ、魔物たちはまとめて吹き飛ばされる。
悲鳴も、反撃もない。戦いと呼ぶにはあまりにも一方的な光景だった。
それはまるで、障害物の排除に近い光景だった。
「……レオン一人で片が付くんじゃない?」
レンリが呆れと冗談の入り混じった笑みでそう言う。
「いや、これでも結構疲れるんだぞ」
当の本人は肩を回しながら、軽く笑って答えた。
スライムとトードが焼き切られ、湿原に焦げた臭いが残る。
その光景をじっと見つめていたレティシアが、静かに口を開いた。
「イル。次は、範囲を広げてやってみなさい」
「えっ、やるの?」
イルは思わず目を見開いた。
火魔法の威力が強すぎるからこそ、これまで範囲攻撃は控えるよう言われていたはずだ。そんな疑問が、その表情にははっきりと浮かんでいる。
「まあ、あまり威力を強くしないでね。そうだね……今使っている新しい魔法と、同じくらいの魔力でいいよ。元々の火魔法を、その感覚で使ってみて」
レティシアは穏やかな声で続ける。
「大丈夫。ちゃんとフォローしてあげるから」
「……う、うん。わかった」
戸惑いを隠しきれないまま、イルは小さく頷いた。
まだ不安は残っているが、レティシアの言葉が背中を押している。
「じゃあ次は、イル様の凶悪な火魔法を拝見するとしようか」
そう言って、レオンが笑いながらイルの肩をぽん、と軽く叩く。
「ちょ、ちょっとレオン!」
そのやり取りに、張り詰めていた空気がわずかに和らいだ。
新たな試みが、いま始まろうとしていた。
「おい……あれ、ゾンビだぞ?」
低く声を落としたレオンの指す先に、フラフラと歩く影があった。
腐臭を漂わせるそれは、まだこちらに気付いていないのか、背を向けたまま湿原を彷徨っている。
「本当だ……まだ昼時なのに」
レンリが眉をひそめる。
昨夜はアンデッドの群れが夜陰に紛れて寄ってきた。だからこそ警戒もしていた。しかし今は昼間だ。曇天で薄暗いとはいえ、本来アンデッドが活発に動く時間帯ではない。
「……想像以上に、アンデッドが出現しているみたいね」
レティシアも周囲を見渡し、緊張を強める。
その瞬間だった。
前方を、大きな影が横切る。
「うわっ、沼竜か?」
次の瞬間、フラついていたゾンビにその影が襲いかかった。
ぬかるみを蹴散らし、巨大な顎が一息に噛みつく。鈍い音とともに、ゾンビの身体はあっけなく食いちぎられた。
沼竜は咀嚼することもなく、そのまま獲物を飲み込み、湿原の奥へと遠ざかっていく。
呆然とその背を見送った後、レンリがぽつりと呟いた。
「……レオン以上に悪食ね」
「やっぱり、沼竜の肉はやめておいたほうがいいな……」
「そこなの?」
レティシアが呆れたように首を振る。
だが、冗談めいた会話の裏で、全員が同じ違和感を抱いていた。
昼間に動くアンデッド。アンデッドを平然と捕食する沼竜。
この湿原で、何かが確実におかしくなり始めている。
「昼間でもアンデッドが活動している。注意が必要だな」
レオンが改めて気を引き締めるように言う。
「そうね……面倒だも──イルッ!!」
言葉の途中で、レンリが叫んだ。
次の瞬間、冷たい気配がイルのすぐ背後に迫る。
「なんだ、こいつッ!」
レオンが反射的に剣を振るう。
だが、剣は空を切っただけだった。確かな手応えが、まるでない。
「ゴーストよ! 物理攻撃は通じない、気をつけて!」
レンリの声が重なる。
「みんな、離れて!」
レティシアは一瞬で魔力を展開する。詠唱を省略、さすがと言える。
「〈風刃〉!」
放たれた風の刃が、霧のようなゴーストを両断する。
声にならない悲鳴すら上げることなく、その姿は空気に溶けるように消滅した。
その場に残ったのは、張り詰めた沈黙だけだった。
イルは硬直したまま立ち尽くしていたが、レティシアに声をかけられて、ようやく我に返る。
「大丈夫?」
「……うん」
小さく、だが確かに頷く。
「油断した……」
レオンが低く呟いた。
「ゾンビや沼竜に気を取られて、まったく気付かなかった……」
「いよいよ、出てきたわね……」
レンリも周囲を見渡しながら、そう呟く。
今のところ、他にそれらしい気配はない。しかし──。
「あいつら、気配が薄いのよね……」
「本当に、厄介だね」
レンリの言葉に、レティシアも静かに頷いた。
湿原の空気は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
「……視覚に頼るしかないかもね」
レンリが低く呟く。
「そうだな。隊列を組んで、注意を払って進こう」
レオンは即座に判断を下し、イルに視線を向けた。
「イル、やれるな?」
「大丈夫! もう油断しないよ!」
イルは迷いのない声で答える。
その表情には、先ほどまでの動揺はもう残っていなかった。
「よし、行くぞ」
短い号令に、全員が頷く。
足取りは自然と速まり、湿原の奥へと向かっていく。
薄暗い空の下、彼らの警戒はさらに研ぎ澄まされていた。
「……群れがいるわ」
レンリが前方の茂みから足早に戻り、声を低くして報告する。
「スケルトンとゾンビね。ゴーストの姿は見えなかったけれど……油断はできない」
「数は?」
レティシアが即座に尋ねる。
「合わせて、十体くらい。どうする?」
戦うか、迂回するか。
一瞬、判断の間が生まれる。
「レティシア。イルに火魔法を使わせるんじゃなかったか?」
レオンが思い出したように言う。
「そうだね……ちょうどいい数かもしれない」
レティシアは頷き、イルに視線を向けた。
「イル、さっき言ったとおりにやれそう?」
「任せて。ちゃんとやれるよ」
イルは自信たっぷりに頷いてみせる。その目には、もはや迷いはなかった。
「じゃあ、やってみようか」
レティシアは静かに方針を決める。
「あの茂みまで進んで様子を窺う。準備が整ってから仕掛けてもいい。焦らなくていいからね」
四人は互いに頷き合い、足音と気配を殺して前方の茂みへと進んだ。
湿原の空気が、再び張り詰めていく。
すぐ先にいるアンデッドの群れを視界に捉え、イルは静かに息を整えた。
(大丈夫。ちゃんと制御できる)
自分に言い聞かせるように思い直し、魔力を展開していく。
レオンは前方に意識を集中させ、レンリは周囲を鋭く警戒する。いつまたゴーストが現れてもおかしくはない。
その間に、イルは魔力の流れを丁寧に制御しながら、詠唱を開始した。
「……よし」
短く息を吸い、そして──。
「〈妖炎乱舞〉!」
呪文が放たれた瞬間、前方の魔物の群れを巨大な炎が包み込む。
天へと立ち上る炎柱。圧倒的な熱量が、湿原の空気を一気に歪ませた。
「うおっ!」
レオンは思わず腕を交差させて顔を庇う。
自分に向けられた魔法ではないと理解していても、身体が反射的に回避の姿勢を取ってしまう。
(とんでもない火力だな……。これで、まだ抑えてるってのが恐ろしい)
畏怖にも似た感情が、レオンの胸を満たした。
やがて炎は嘘のように収まり、辺りには静寂が戻る。
そこに残っていたはずの魔物の姿は、どこにもない。
「……終わったよ」
イルがそう告げる。
文字通り、アンデッドの群れは跡形もなく焼き尽くされていたのだろう。焦げ臭い匂いが辺りを漂っていたが、それも次第に薄れていく。
レティシアは慎重に焼け跡を見渡し、足元の黒くなった草を拾い上げる。
指先で触れた途端、それはぼろぼろと崩れ落ちた。
「かなり湿っていたはずなんだけどね……」
湿原の水分をたっぷり含んでいたはずの植物ですら、この有様だ。
範囲を絞り、魔力も抑えた状態で、これほどまでに燃やし尽くす火力。
「……魔力は抑えられていたし、制御もできている。範囲も、きちんと限定できていた」
レティシアは顔を上げ、イルに優しく微笑んだ。
「──合格だね」
その一言に、イルの表情がぱっと明るくなる。
湿原に生息する魔物、そして近頃出没するようになったアンデッドとの戦いを繰り返しながら、四人は湿原を南へと進んでいく。
ぬかるんだ地面は足を取られ、戦闘の合間にも体力と集中力を削っていった。
「……今日のうちに湿原を抜けたいが」
レオンは足を止め、前方に小さく見える林を見据えて呟く。
「まだ、遠いな」
地図の記憶が正しければ、あの林を越えた先に湖が広がっているはずだった。
「最低でも、林までは行きたいわね」
レンリの言葉に、レティシアも同じ方向を見て、静かに頷く。
この調子では、今日中に湖まで辿り着くのは難しいかもしれない。
それでも、湿原を抜けられるだけで状況は大きく変わる。
視界は開け、足場も多少はましになる。魔物との遭遇も、今よりは抑えられるだろう。
野営をするにしても、少しでも安全な場所を選びたい。
その思いは、レティシアだけでなく、皆が同じように抱いていた。
四人は改めて気を引き締め、遠くの林を目標に歩みを進めていく。
薄暗い湿原の向こうに、わずかながら出口の気配が見えていた。




