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持たざる者は、世界に抗い、神を討つ  作者: シベリアン太郎


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第306話 妖炎、湿地を照らす

 危険な魔物が生息すると言われる湿地帯へ、一行は慎重に足を踏み入れた。寒空の下、空気は重く、肌にまとわりつくような湿気が嫌というほど伝わってくる。吐く息は白く、しかし冷え切った身体に湿り気が加わるせいで、体感温度は実際以上に低く感じられた。

 足元の地面は水を含んで柔らかく、踏み出すたびにぬかるみが靴底を引き留める。


「歩きにくいな……」


 レオンが小さく呟く。

 わずかな油断でも体勢を崩しかねず、思うように速度も出せない。静まり返った湿地には、水音と湿った草を踏む音だけが響き、見えない何かに常に見張られているような、不快な緊張感が漂っていた。


 足元のぬかるみにばかり気を取られているわけにはいかない。この湿地帯には、明確な害意をもつ魔物が潜んでいる。先行するレンリは歩みを緩め、視線と感覚を周囲へ張り巡らせて索敵を行っていた。そのすぐ後ろを、彼女を守る位置取りでレオンが続く。イルは左右の茂みや水溜まりに注意を払い、レティシアは最後尾で背後を警戒する──自然と役割分担が出来上がっていた。

 湿った空気が張り詰める中、不意にレンリが足を止める。


「いたわ、〈ポイズントード〉よ」


 前方を指し示すその声は低く、だが確信に満ちていた。視線の先、水辺に潜む影がもぞりと動く。異様に膨れた体躯が露わになる。


「でかいな……」


 レオンが息を詰めたまま呟く。警戒を崩さぬまま、彼は静かに剣を抜き、鈍く湿地の光を反射させた。

 レオンが言葉にした通り、前方に姿を現した魔物はイルの背丈をゆうに超えていた。

 〈ポイズントード〉──その名に違わず、全身は青黒く淀んだ色合いで覆われ、ぬるぬるとした粘膜が湿地の薄光を受けて鈍く反射している。水を含んだ巨体がわずかに動くだけで、粘つく音が耳にまとわりつくようだった。それが、二体。


「触れると強い毒で、激痛が続くわ。あの体で素早く跳躍して、長い舌で攻撃してくる」


 淡々としたレンリの説明に、レオンは思わず顔をしかめる。想像しただけで厄介さが伝わってくる相手だ。


「遠距離攻撃が一番なんだろうが……」


 呟きながら、彼は湿地に足を取られぬよう重心を低く保ち、剣を構え直した。ぬかるんだ地形と毒を持つ魔物──下手な判断は、そのまま致命傷になりかねない。

 後方を警戒していたレティシアが、視線を前に向けたまま口を開いた。


「イルなら、ここからでも先制攻撃できるわよ。そのために訓練していたしね」


 その言葉に、レンリがわずかに眉を動かす。


「火魔法? でも威力が強すぎない?」


 派手な魔法は周囲を巻き込む危険もある──そう思った瞬間、レオンは足元のぬかるみと水を含んだ草地を見渡した。


(この湿り具合なら、火を使っても燃え広がる心配は少ないか)


「ここは湿地だ。火が延焼することはまずないだろう」


 レオンの低い声に、張り詰めていた空気がわずかに変わる。視線が自然とイルへ集まり、先制攻撃という選択肢が現実味を帯びてきた。


「そこまで広範囲にする必要はないよ。あの〈ポイズントード〉に当てるだけで十分だから」


 レティシアが落ち着いた口調で補足する。


「新しい魔法か? いつの間に」


 レオンは一瞬、意外そうな表情を浮かべてからイルを見る。


「イル、いけるか?」


 短く問いかけると、イルは即座に頷いた。


「大丈夫だよ。いっぱい練習したから」


 その顔には迷いがなく、胸を張る仕草からも確かな自信が感じられた。仲間たちはその表情を見て、自然と次の行動へ意識を切り替えていく。


「よし、じゃあ、それでやってみるか」


 レオンの言葉に、イルは小さく頷いた。深く息を吸い込み、体内の魔力を静かに高めていく。


「あたしが後方を警戒しつつイルをフォローするから、レオンは念のために討ち漏らしに注意して。レンリは周囲を警戒して」


 レティシアの的確な指示に、レオンとレンリは即座に配置を変え、それぞれの役割へと動いた。

 イルは足場の悪さに意識を割きつつも、魔力の流れを丁寧に制御し、詠唱に入る。


「……〈妖炎乱舞・改〉!」


 詠唱が結ばれた瞬間、イルの頭上に人の頭ほどの大きさの火球がポッと現れた。揺らめく炎はただ赤いだけではなく、どこか妖しく、意思を持つかのように静かに回転している。それは、これまでイルが使ってきた火魔法とは明らかに異なる気配を放つ。

 それに反応したのは、前方の〈ポイズントード〉だった。ぬめる巨体がびくりと震え、黄色く濁った眼が火球を捉える。次の瞬間、後脚が大地を蹴り、粘つく水音とともに戦闘態勢へ移行した。巨体に似合わぬ跳躍で、一気に距離を詰めようとする。

 二体の〈ポイズントード〉が、湿地のぬかるみを蹴ってこちらへ向かって跳びかかってきた。青黒い巨体が低く身を揺らし、長い舌を振り回す。恐ろしいスピードで迫るそれを、イルは冷静に視界に捉える。


「いくよ! 〈狐火〉!」


 イルの声と同時に、頭上の火球が二つに分かれ、迫り来る〈ポイズントード〉へ向けて放たれた。湿った空気を切り裂き、妖炎が一直線に飛翔する。

 通常、いわゆる魔術師たちが用いる火球魔法であれば、着弾と同時に激しい爆発と轟音を伴い、周囲をまとめて吹き飛ばす。だが、イルの放った火球は違った。


 ドンッという鈍い命中音はあるが、大きな爆発はなく、衝撃波も生まれない。ただ、触れた瞬間から炎が静かに染み込むように広がっていく。命中箇所を起点に、妖炎が青黒い巨体を静かに包み込み、ぬるぬるとした粘膜ごと炎に包まれ、まるで蝋が溶けるかのように形を崩していった。

 肉は溶け、骨格すら形を保てなくなり、身体はまるで蝋が溶けるように崩れていく。〈ポイズントード〉は苦悶の声を上げ、必死に跳ねようとするが、魔法の浸透力の前にそれも叶わない。

 湿地に低く掠れた断末魔が残るだけで、妖炎は最後まで荒ぶることなく燃え続け──やがて二体の巨体は、跡形もなく燃え尽きた。


 剣を構えていたレオンは、深く息をつき、ようやく肩の力を抜いた。目の前で繰り出された魔法──これまでイルが使っていたものとは全く異なる炎──がもたらした結果を前に、レンリとレオンの表情には驚きが隠せない。


「以前とは全く別物ね……こんなことができるようになったの?」


 レンリが、まだ興奮気味にイルへ問いかける。


「うん。レティシアに教えてもらいながら練習したんだよ」


 イルは胸を張り、誇らしげに答える。


「今までの魔法を改良したんだよ。効果範囲を極力まで絞って、必要な分だけを放出する。対象を限定しているだけだから、威力は変わらない……いや、むしろ上がっていると思う。イルが自分で考えて相談してきたからね。あたしは少しだけ協力しただけだよ」


 レティシアの声には、穏やかで誇らしげな響きが含まれていた。イルが訓練で積み上げた成果を、実戦で確かに発揮できたこと──それが、彼女に小さな喜びをもたらしているのだろう。


「……まったく、大した奴だな、イルは」


 レオンは素直に賞賛の言葉を口にした。


「本当にね」


 レンリも深く頷き、仲間同士で共有する静かな感動が、湿地帯に漂う緊張感を一瞬だけ和らげた。


「だが、これじゃあ、素材も魔石も取れないな」

「あっ!」


 イルは思わず顔を手で覆し、やってしまったという表情を浮かべる。

 緊張が溶けた空気の中で、思わず皆が笑い声をあげた。湿地帯に響くのは、戦闘後の安堵と、仲間たちの明るい笑い声だった。


「……さあ、進みましょうか」


 レンリの言葉に、皆が小さく頷く。再び肩に力を入れ、視線を巡らせながら湿地帯を進む一行。ぬかるんだ地面に足を取られつつも、彼らの動きには無駄がない。まだこの湿地には、数多の危険な魔物が潜んでいるのだ。

 非常に高い咬合力を持ち、強靭な顎で獲物をいとも簡単に粉砕してしまう〈沼竜〉。丈夫な鱗に覆われ、尾での攻撃も得意とするその巨体。

 普通の木に見えて近づけば枝で絡め取り、鋭い根で獲物の身体を貫き血液を吸い取る魔物。

 そして、通常よりも遥かに巨大で攻撃力を増したスライム。属性を持ち、魔法攻撃もしてくる。


 彼らは次々と待ち構えているかのようだ。一般の冒険者なら、湿地の深みに足を取られ、襲い来る魔物の前に恐怖と焦燥だけを抱えるに違いない。命を落とさないまでも、逃げるのが精一杯だろう。だが、レオンたちならば冷静に対処できる。

 そして、まだ姿を見せてはいないが、ギルドに報告されたアンデッドの影も近づいている。湿地の奥で、いつか彼らの前にその不気味な姿を現すだろう。

 一行は互いに目配せを交わし、警戒心をさらに高めながら、静かに、しかし確実に前へと歩みを進めていった。


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