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木村和夫という存在を編み上げているのは、過ぎ去った闇と、手に入れた光、そして二つの景色を繋ぐ、静かで終わりのない時間の流れそのものだった。その心の中には、夜景の輝きと、山の静けさの両方が息づいていた。
電車の揺れは、変わらないリズムを刻む。光と闇が、窓の外でめくるめく入れ替わる。車内の乗客たちは、それぞれの視線で、この対照的な世界を切り取っている。
その中で、二人だけが創り出す、小さな温もりの空間があった。座席に肩を寄せ合い座る、若いカップル、石田健介と佐々木美咲だ。美咲は健介の肩に頭を預け、うつむき加減で穏やかな寝息を立てている。健介は、優しく彼女の頭に頬を寄せ、その存在を慈しむように見つめている。彼らの間に流れる空気は、他の乗客たちのそれとは明らかに異なる、柔らかく、閉じられた世界だ。
電車の窓枠は、二人の世界を切り取る額縁だ。左側の、光が滝のように流れ落ちる夜景を見つめる。まるで、これから二人で歩む未来が、あんな風に眩く、どこまでも広がっていくように思える。一つ一つの灯りが、困難な日々に灯る希望の光に見える。美しい。この景色を、美咲と一緒に見ている。隣に彼女がいるというだけで、世界の全てが輝きを増すように感じる。彼女の柔らかな髪の感触が頬に心地よい。
初めて「好きだ」と伝えた時の、美咲の少し戸惑ったような、でも嬉しそうな顔を思い出す。あの瞬間から、俺の世界は色を変えた。毎日の景色が、以前よりずっと鮮やかに見えるようになった。この光の海は、まさに今の俺たちの気持ちそのものだ。高揚していて、少し現実離れしていて、でもどこまでも広がっていく可能性に満ちている。
ふと、右側を見る。闇に沈んだ、巨大な山の塊。それは、二人でこれから乗り越えなければならないかもしれない、困難や壁の象徴のように、どっしりと佇んでいる。でも、怖いとは思わない。一人じゃないからだ。美咲と一緒なら、どんな山でも越えられる気がする。この道の先に、どんな暗闇があっても、二人でならきっと光を見つけられる。
窓ガラスに映る、寄り添う二人の姿。夜景の中に浮かび上がる、その輪郭。これが、今の俺の全てだ。美咲という存在が、俺の「君」であり、俺たち二人の未来そのものなのだ。この電車が、どこまでも二人を乗せて走っていってほしい。この幸せな時間が、この美しい景色と共に、永遠に続けばいいのに。そんな、少し叶わない願いを、心の中でそっと呟いた。
石田健介の心を満たしているのは、隣にいる愛しい人への想いと、光輝く未来への期待、そして二人でならどんな困難も乗り越えられるという、新しい絆が生み出す確かな力だった。彼の内なる「君」は、隣で穏やかな寝息を立てる、彼女の存在そのものに宿っていた。
石田健介の心を満たしているのは、隣にいる愛しい人への想いと、光輝く未来への期待、そして二人でならどんな困難も乗り越えられるという、新しい絆が生み出す確かな力だった。彼の内なる「君」は、隣で穏やかな寝息を立てる、彼女の存在そのものに宿っていた。
電車の揺れは、変わらないリズムを刻む。光と闇が、窓の外でめくるめく入れ替わる。左には息を呑むような夜景の海、右には沈黙の山の闇。車内の乗客たちは、それぞれの視線で、この対照的な世界を切り取っている。
その中でも、誰に気づかれることもなく、ただじっと窓の外を見つめている少年がいた。新町駅で乗り込んできた、制服姿の藤田悠斗だ。彼はドア近くの壁にもたれ、大きなリュックを抱え込むようにしている。
トンネルを抜けて現れた左右の景色。左側の、光が宝石のように散りばめられた夜景は、あまりに眩しく、自分には関係のない遠い世界のように見えた。右手側の、ぼんやりと稜線だけが浮かぶ暗い山の方が、まだ心の落ち着く場所のように感じられた。誰からも見えない、闇の中に隠れてしまいたい。そう思いながら、彼は右側の窓を見つめた。
電車の明かりが、窓ガラスに彼の姿を映し出す。夜の闇が背景となり、はっきりと浮かび上がったのは、自分自身の顔だった。
次の瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。心臓がきゅっと縮こまる。ゾッとする。
映っているのは、彼の顔だ。見慣れているはずの自分の顔。だが、その顔は、彼にとって、最も見たくないものだった。怯えた目。引きつった口元。何かに耐えているような、歪んだ表情。それは、今日、学校で見た自分と同じ顔だ。教室で、廊下で、下駄箱の前で。自分を嘲笑する声を聞きながら、何も言い返せずに固まっていた、あの時の顔。殴られそうになって、思わず目を閉じた、あの瞬間の顔。
この顔は、弱い顔だ。情けない顔だ。どうして、こんな顔なんだろう。
窓の外では、闇に沈んだ山が、じっと何も言わずに佇んでいる。その静寂は、自分の内側の醜い感情とは無縁の世界だ。美しい夜景の光は、まるで自分のこの汚れた顔を嘲笑しているかのようだ。どこにも逃げ場がない。電車という箱の中に、そして、この顔の中に閉じ込められている。
リュックを抱きしめる腕に力がこもる。その重みが、自分の抱える心の重さと重なった。この顔を見ていると、全てが嫌になる。消えてしまいたい。どこか遠い場所へ。誰にもこの顔を見られない場所へ。
藤田悠斗の中に震えている「君」、それは、自己嫌悪と恐怖に縛られた、傷つきやすい魂そのものだった。その「君」は、窓ガラスに映る、憎悪する自分の顔に囚われていた。