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100人の電車  作者: どどんこ


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佐々木美咲の心の中に漂う「君」、それは、長く続く関係性の「曖昧さ」と、そこから生まれる「未来への不確かな不安」だった。その「君」は、彼女の隣にいる恋人の温もりの中で、静かに、しかし絶えず揺らいでいた。


美咲は、彼の腕に頭を預けたまま、そっと目を閉じた。電車の規則正しいリズムは、心の奥底で揺らぐ不安を、かろうじて押しとどめているかのようだった。


その時、これまでずっと響いていた、電車の低く唸るような走行音が、ゆるやかに、しかし確実に遠ざかっていった。車体の揺れが小さくなり、やがて、滑るように静止する。


車内は、にわかに静まり返った。これまで背景に溶け込んでいたはずの、乗客一人ひとりの存在が、不意に鮮明になる。遠くから聞こえる微かな話し声や、スマホの画面を滑る指の音さえも、妙に耳につく。窓の外を流れていた夜景は、ぴたりと動きを止め、遠くのビルの明かりが、まるで絵のように固定された。右手の真っ暗な山も、その輪郭をはっきりと浮かび上がらせたまま、息を潜めている。


いくつかの座席では、眠っていた乗客が、その不自然な静けさに目覚め、ゆっくりと顔を上げた。スマートフォンを見ていた者たちは、一様に画面から視線を上げ、窓の外や、あるいは運転席の方へと、その理由を探るように視線を向ける。停車駅ではないことは、誰もが知っていた。


小林吾郎は、手にしていた文庫本から顔を上げ、じっと前方を睨みつけるように見つめた。彼の眉間には、再び深い皺が刻まれている。山田綾子は、膝の上のノートパソコンに手を置き、静止した電車の中で、思考もまた一時停止したかのように、じっと前を見据えていた。伊藤花は、友人と顔を見合わせ、何かを言いかけ、そして口を閉じた。


夜景の光も、闇の山も、微動だにせず、ただそこに在る。


静止した車内は、それぞれの乗客の内面に宿る「君」の存在を、より鮮明に、そして重く、浮き彫りにするかのようだった。彼らは皆、一瞬、日常の流れから切り離され、それぞれの心の奥底に目を向けることを強いられていた。


車内に、穏やかながらもはっきりとした声が響いた。


「お客様にお知らせいたします。ただいま、信号待ちのため、一時停車しております。恐れ入りますが、しばらくお待ちください。」


多くの乗客が、顔を上げた。規則的な揺れにまどろんでいた者は、その不自然な静けさにまぶたを開き、ぼんやりと周囲を見回した。スマホを眺めていた者たちは、一様に画面から視線を外し、窓の外や、あるいは前方の運転席の方へと、理由を探るように視線を向けた。誰もが、これが停車駅ではないことを知っていた。


この予期せぬ静止は、乗客たちを、忙しない日常の流れから一時的に解き放ち、否応なしに自身の内面へと意識を引き戻す。誰もが、まるで真空の容器に閉じ込められたかのように、それぞれの心に潜む「君」と、ただ向き合う時間を強いられていた。そこには、希望の光を掴もうとする者も、過去の闇に囚われる者も、明日への漠然とした不安を抱く者も、そして今この瞬間をただ受け入れる者もいた。電車内の誰もが、それぞれの心象風景の中で、静かに立ち止まっていた。


その静止した空気の中で、誰よりも冷静に、しかし鋭い視線を周囲に向けている人物がいた。窓から三つ目の通路側の席に座る、村田聡むらた・さとしだ。彼は、腕を組み、口元に薄い笑みを浮かべながら、車内の乗客たち一人ひとりを、まるで標本を観察するかのように見つめている。その目は、感情を読む訓練を積んだかのように、人の心の機微を捉えようとしている。


面白いな。人間ってやつは、こうも簡単に素顔を晒す。電車が止まる。ただそれだけのことなのに。

あのサラリーマンは、さっきまでスマホに夢中だったのに、今は不安そうに窓の外を見ている。多分、仕事のノルマとか、上司の顔とかが頭をよぎってるんだろう。眉間のシワが、その証拠だ。


あの女子高生二人組もそうだ。さっきまではケラケラ笑っていたのに、今は気まずそうに目を合わせている。共有する話題が尽きたか、それとも、この静寂が、表面的な関係の薄さを露呈させたか。きっと、スマホの画面がないと会話もできないんだろう。


前の席の女性。じっと前を見つめている。あの顔は……何かを決断しようとしている顔だ。あるいは、決断を迫られている。唇を噛む癖があるな。これは、強いストレスの兆候。

隣の男性。疲れた顔で天井を見上げている。家族写真でも見てたんだろう。離れて暮らす者特有の感傷。孤独を嫌う人間は、こうしてすぐに感情を表面に出す。


俺は違う。感情は、見せるものじゃない。特に、こんな不特定多数の視線が交錯する場所では。人は、見えないものを恐れ、見えたものに安心する。だから、俺は、常に「普通」を装う。興味がないふり、眠っているふり。だが、内側では、常に観察している。


この夜景も、あの闇の山も、俺にとってはただの背景に過ぎない。重要なのは、その中で蠢く、生身の人間だ。彼らの表情、仕草、呼吸。そこから読み取れる情報の全てが、俺の「君」だ。この世界は、常に情報に満ちている。


村田聡の心を支配する「君」、それは、他者の本質を読み解く「冷徹な洞察力」と、それを通して人間関係の裏側を暴こうとする「知的好奇心」そのものだった。その「君」は、彼の瞳の奥で、静かに、しかし絶えず光を放っていた。

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