番外編 / あとは野となれ、花となれ
同人誌(販売終了)に書き下ろしていた番外編です。
奈枝の祖父母である、「聖女が、壺」のキャラクター、冬馬がメインのお話です。
世界が二つあることは、クロエ・ミドリ・レーンクヴィストにとって当たり前のことだった。
「とーま!」
大好きなツンツン黒髪を自邸の廊下で見つけたクロエは、ぶつかるように男の腰にしがみついた。
突然抱きつかれた男は、よろめきながらもなんとかバランスを保つと、振り返る。
「おうクロエ。いい子だったか」
「もちろん。とーまより、うんとよ」
クロエを腰にまとわりつかせた男――片峰冬馬は、ニカッと笑い、クロエの頭を撫でた。クロエの父であり、冬馬の師でもあるサイードの髪質そっくりな柔らかな銀髪が、冬馬の手の中でくしゃくしゃになる。
――突然だが、クロエの両親は世界を救ったことがある。
母は異世界から訪れた聖女として、父は国の代表魔法使いとして、魔王を討ち滅ぼしたのだ。その際に、クロエがへばりついているこの男、片峰冬馬も勇者として共に戦った。
その縁があり、貧乏くじを引いた冬馬は長いこと、異世界からわざわざやってきて、長引く母の輿入れの手伝いをしている。
「もう、まりょくのほじゅうはおわったのかしら?」
異世界から冬馬が度々やってくる仕組みを、六歳のクロエは完璧に理解していないが、冬馬が何か父と母のために頑張ってくれていることは知っていた。
華奢なクロエを冬馬は抱き上げると、目線を合わせる。
「終わった終わった。っにしても、まーたサイードのやつに似てきたなぁ」
「とうぜんだわ。とうさまの子だもの」
「俺としてはなんか複雑……」
冬馬は微妙そうな声を出すが、その目は優しかった。きゃっきゃと笑い、クロエは冬馬の頬に手を伸ばす。
親愛の証として、クロエは冬馬の頬にキスを送る。
「ほっぺぷにぷにまじ天使……クロエは何歳まで俺にちゅーしてくれっかなあ」
「あら、いつまでもするわ。だってとーまのこと、だいすきですもの」
「ありがとうなあ。おっちゃん泣いちゃうわ」
まだ二十歳前後にしか見えないくせに、親戚のおじさんのようなことを言った冬馬が、グスングスンと泣き真似をする。
遠い異世界から度々現れる、全く年をとらない年の離れた友人が、クロエは一目見たときからずっと――大好きだった。
❖
「なー、まだー?」
「もう少しだけ、待ってちょうだい」
屋敷のソファの背もたれにもたれかかった冬馬が、だるそうな声を出す。
冬馬の隣に座っているクロエは、鬼気迫った顔で彼から借りたスマホを操っていた。
クロエは今年で十六になった。花も恥じらう年頃を迎えたクロエは、大層美しかった。
見るもの全てがため息をこぼすほどの美貌を、父から受け継いでいたのだ。
身分と教養と美しさを兼ね備えたクロエの元には、縁談を求める手紙が毎日届き、ひとたび社交の場に出れば、身動きできないほどの人垣が出来る。
そんなクロエだったが、真剣な顔をしてスマホを睨む姿は、日本の女子高生となんら変わりが無い。彼女の求婚者達は、クロエのこんな姿を見たら仰天するだろう。
天から舞い降りる花のような美しさと揶揄されるクロエの、素の表情を見られるものは少ない。特に、冬馬のお行儀の悪さに倣い、ソファの上に足を上げて膝でスマホを支えている姿なんて、家族と冬馬しか見たことが無い。
「クロエが見慣れないアプリばっか入れたがるから、俺のスマホ、最近名物化してるんだよな……次は何を入れたんだ? って、同期に大人気ぃ」
「あら、お役に立てて嬉しいわ」
「そう受け取っちゃうクロエちゃん、まじチビサイードォ」
豪華な応接間でも、冬馬は全く気負いなどせずにだらけていた。足を好きに伸ばし、体の力を完全に抜いている。
ここでこんな格好をするのは冬馬ぐらいなものだ。使用人達も、世界を救った勇者であり、館の女主人の恩人でもある彼に、細かく注意などはしない。それに、この屋敷の誰もが冬馬を愛していた。
「冬馬、ありがとう。この猫も、こっちのカードのも。レベル上げしてくれていたのね」
「まあ、多少は面白かったし」
クロエは異世界――常世の文化にかなり興味を持っていた。傾倒していると言ってもいい。冬馬が来る度に、彼のスマホを奪っては、新しいゲームやアプリを遊ばせてもらっていた。
母に連れられ、幾度か訪れた常世は、クロエが住む現世とは全く異なった文化が発展している。
「きゃっ! これ、これがやってみたかったの。冬馬、入れてくれてたのね。ありがとう!」
喜びのまま、アプリを指で押す。クロエが起動したアプリは、動画を撮影するアプリだった。同系統の他のアプリをしているときの広告で興味を持ち、冬馬に「次はこれをやってみたい」と強請っていたのだ。
初期操作を終えると、軽く髪を整え、腕を突き出して、自撮りのポーズをとる。その動作は慣れたものだった。逆に、隣にいる冬馬の方がそわそわとし始める。
「俺、見てていいの? 席外したほうがい?」
「かまわないわ」
「自分の顔に自信あるってすげえ……」
「あら、だって私の顔。とても可愛いでしょう?」
スマホの内カメラから視線を外したクロエは、隣に座った冬馬に体を向けた。冬馬は呆れたように、「はいはい」と首を縦に振る。
「お綺麗お綺麗。とっても可愛い可愛い」
冬馬の返事に満足したのかしていないのか、クロエはにこりと微笑んだ。そしておもむろにスマホをちょちょいと操作すると、ずいっと冬馬の真横に移動する。肩と肩がぴったりとくっつくほど近くに。
冬馬がぎょっとしているのには気付いていたが、クロエは素知らぬ顔でスマホを見ている。
「ほら冬馬。これやってみましょ。二人で撮るんですって」
クロエがやっているアプリは、右上に小さく表示されるお手本の通りに動いて動画を撮るというものだった。一分にも満たない短い動画だが、何ポーズもお手本があり、中々面白い。
「ゲッ……それ、プリクラみたいなやつだろ。無理無理無理。誰か他の呼んで来いって」
「冬馬がいいの」
真っ直ぐに見つめたままクロエが言うと、冬馬がひるんだ。どんな大きな魔物にだって恐れることの無い冬馬が、クロエの真っ直ぐな感情には戸惑うのだ。
ここ最近生まれた彼の戸惑いの表情を見るのが、クロエは大好きだった。
「ほら、始まるわ」
逃げられないように冬馬の腕を組み、スマホを持った手を突き出すと、冬馬は観念したように内カメラを見た。画面の中には顔を寄せ合うクロエと冬馬が映っている。
スマホの画面に映る冬馬は、かなり視線をさ迷わせている。
「冬馬、右上を見ていて。そこに表示された通りに動けばいいだけだから」
「真似? 何? スコアとかあんの?」
「無いと思うわ。……あ、始まる」
「おわっ」
撮影開始告げる、明るいアナウンスが響く。右上の動きに合わせて、クロエはするするとポーズを変えていくが、冬馬はかなり焦っているようだ。ギクシャクとした動きが、くっついた体から伝わってくる。
その全てが、クロエは愛おしかった。
ふと、冬馬の体が完全に硬直した。何事かと、冬馬のぬくもりに意識を持って行かれていたクロエは、右上のお手本を見やる。
その小さな画面に映る二人のお手本は、次のポーズを指定していた。突き出した頬に軽く口づける、他愛もないポーズを。
クロエは冬馬を見た。
冬馬は「まさか」という顔をしてクロエを見ている。
「言ったでしょう? いつまでだってするわ」
だって冬馬が――と昔、いつも言っていた自分の言葉を思い出しながら、クロエは冬馬の唇に自分の唇を重ねた。
ピロン、と動画の撮影終了を告げる音がする。動画が保存された旨が、画面に表示された。
顔を離し、ゆっくりと目を開けて冬馬を見ると、彼は唖然としていた。瞬き一つ出来ない様子だった。そんなに驚くことないのにと、クロエは唇をつり上げる。
「知っていたんでしょう?」
問いかけに、返事は貰えなかった。
驚きの速さでスマホを奪った冬馬は、脱兎のごとく応接間から逃走したからだ。
❖
「冬馬が来ているの?」
中庭で使用人から報告を受けたクロエは、眉根を寄せた。
その顔が父サイードに似ているためか、使用人が「ヒッ」と小さな悲鳴を上げる。
「も、もうすぐお帰りになられるようで――」
「教えてくれてありがとう。助かったわ」
手がけていた刺繍をガーデンテーブルの上に置くと、クロエは庭を突き抜けた。最短距離で屋敷に戻ると、父の書斎に向かう。
バンツ――と大きな音を立てて書斎の扉を開く。椅子に腰掛けたサイードが、憮然とした顔でこちらを見る。
「あら、間違えましたわ。失礼致しました」
冬馬がいないことを確認すると、クロエはサイードの言葉を待たずに、扉を閉めた。
他に冬馬がいそうな、書庫や実験室や調理室までも探し回ったが、その何処にも彼はいなかった。
身のうちに沸く怒りで、クロエの顔はどんどんと無表情になっていく。
これまで、冬馬が訪れる時は必ずクロエにも前触れがあった。都合がつかず会えないことはあったとしても、帰還間際まで教えてもらえなかったことなど、ただの一度もありはしなかった。
ようやく冬馬を見つけたのは、母――笑美の私室だった。
基本的に客は屋敷内の何処を歩いても問題ないが、私室となると別だ。まず招かれなければ、入ることは許されない。
クロエは一瞬、勢いをそがれてしまった。冬馬にあれも言ってやろう、これも言ってやろうと考えながら探していたのに、いざ母の部屋にいることがわかると、ドアをノックすることさえ出来ない。
部屋の前に出されていた母付きの侍女と共に、クロエも壁に背をつけて待機する。微かな声だけでは、会話の内容までは聞こえない。けれど穏やかな、そして親密な空気が流れているのはわかる。
冬馬にとって、笑美は特別な存在だろう。何しろ冬馬は、笑美が現世と常世を行き来するための協力を――現世の暦では――もう二十年以上もしているのだ。
二人にはクロエには入り込めない、そして手も出ないほどの絆があった。異界の地で、窮地を支え合ったたった二人の同胞――考えれば考えるほど、切なく胸がうずいた。
この間のことを、言いつけられているのかもしれない。クロエは項垂れた。
言いつけられるくらいなら、まだいい。だけど、大人の責任で謝罪なんてされてしまったら――そう思うと悔し涙が滲む。
扉が開く音がして、クロエはハッと顔を上げた。
驚いた顔をしている冬馬が、ドアノブを持ったまま硬直してこちらを見ている。その後ろから顔を出した母が、にやーと口の端を上げた。
母が何か言う前に、クロエは冬馬の腕を取り、母の私室へと踏み入る。
「お母様。ちょっとお借り致します」
母を追い出し、返事も聞かず、扉を閉める。母の訳知り顔の顔を、とにかく今は見たく無かった。
冬馬の腕を引き、窓辺に近付く。できる限りドアから離れたかった。二人の会話の一片さえ、誰にも聞かれたくない。
手を振り払えば、クロエなんて庭まで吹き飛んでしまうほどの力があるくせに、冬馬はされるがままについてくる。
「冬馬」
ギクリ、と言わんばかりに冬馬の体が強張った。目線は合わない。失いかけていた怒りが、またクロエに沸いてきた。
「この間の返事を、ずっと待っているのだけれど」
クロエにとっても、なんてことがないわけではなかった。勇気を振り絞って、初めてキスをしたのだ。それも好きな人に。告白のつもりで。
なのに相手は逃げるし、避けるし、当てつけのように母と一緒にいるし、もう散々だ。泣いてもいいと思う。
クロエから滲み出る怒りに気付いたのだろう。冬馬は手を掴まれたまま、もごもごと口を動かした。
「いや、やっぱ無理だろ……」
何が無理だと言うのか。クロエはカッとなって冬馬の腕を強く引いた。ふいに顔と顔が近付くが、冬馬がぐっと足踏みをして、顔を離す。
「……わかったわ」
「そ、そうか。ならよかっ――」
簡単に「よかった」と言う冬馬に、胸をぐちゃぐちゃにされた。
最後まで聞きたくなくて、クロエは、またぐいっと手を引いた。先ほどよりも、強く。
二度目が来るとは思っていなかったのか、冬馬の体は力が抜けていて、今度は簡単に顔を寄せられた。鼻と鼻が近付きそうな距離で、睨み付ける。父によく似た藍色の瞳が、冬馬を貫く。
「スマホを貸して」
「――えっ」
顔を引きつらせた冬馬に、クロエはただ静かに言った。
「スマホに無ければ、もう二度と困らせたりしない。それならいいでしょう?」
冬馬はひどく狼狽えた。渡したくなさそうだったが、クロエが引き下がらない様子を見ると、観念したように、彼はポケットからスマホを取り出した。
クロエの目的は一つだった。パスコードを打ち、目的のアイコンをタップする。画像フォルダ――そこに、先日の動画がきっとあるはずだ。
冬馬にとって不愉快な行為だったなら、きっと動画は既に削除されている。けれどもし、動画が残っていたら――冬馬とクロエがキスをした映像を、大事に残してくれていたのなら。クロエはもう、何が何でも冬馬から離れないつもりだった。
スマホを取り出したくなさそうな冬馬の様子を見て、クロエは確信していた。
きっとクロエと同じ気持ちで、冬馬も幾夜を切なく過ごしてくれていたのだと。
――だが、クロエの期待は外れた。
どこまで遡っても、冬馬の画像フォルダには、あの時の動画のデータが無かった。ソシャゲのスクショ、自転車の駐輪所のナンバー、ぐちゃぐちゃな机の上、晴れ渡った空――そんな彼の人生を切り取った画像フォルダの中に、クロエは一欠片も存在しなかった。
彼の人生の中に一瞬だけでもいたはずのクロエは、ポイとはじき出されてしまっていた。
ポト、ポトポト――
スマホの画面に、水滴が落ちる。
慌てて拭うが、拭う側から、また落ちた。
冬馬にとっては、こんなに簡単に消してしまえることなのだ。
「……わかったわ。ありがとう。困らせて、ごめんなさい」
冬馬の前で泣いたのは、いつぶりだろうか。八歳の頃にはもう、彼が好きだった。子どもだと思われたくなくて、その頃にはもう、彼の前で子どものように泣くことは無かった。「子ども」と、「それを慰める大人」でいられたくなかった。
だけど、何も意味は無かったのだ。それどころか、クロエの変化を冬馬は疎んでいたかもしれない。
彼の戸惑いが、自分を意識してくれているのだとばかり思っていたクロエは、その事実にもまた恥じ入った。
スマホを突き出すと、冬馬はすぐに受け取ってくれた。
「迷惑ばかりをかけたわ。もう、心配しなくてもいいからっ……」
最後の方は震えて、言葉にならなかった。みっともない姿を見られたく無くて、後ろを向く。
冬馬は言葉を探すように、しばらく沈黙した後、口を開いた。
「……実は、魔力はもう十分貯まってる」
は? クロエは、泣いていたことも忘れ、ぽかりと口を開けた。
聞きたくは無いが「ごめんな」と言われる覚悟をしていたのに、何故、魔力?
今、クロエは一世一代の告白をして、振られたのだ。その後に振った人間が振る話題として、魔力の話が適当だと本気で思っているのだろうか?
「箪笥の準備はもう終わってるんだ。こんなに再々、来る必要もなかった」
しかし冬馬は、クロエの困惑に気付く様子もなく、話を続ける。
「クロエが憧れてる勇者は、たまたま一回やっただけで、普段の俺は別に強くも凄くも無い……ただのサラリーマンだ」
一瞬、クロエの胸に期待が膨らんだ。
「勇者じゃ無い俺は、お嬢様のクロエと並べるような男でもないし……俺は虎屋の家族をまた引き剥がす勇気もねえよ」
膨らんでいた期待は、瞬時にしぼんだ。「だから、ごめん」そう続くのだろう。
振るのなら、さっさと振ってしまえばいいのに。
クロエは冬馬の不器用な優しさを憎んだ。冬馬はなんとか、クロエを振る理由を作り、教えてくれようとしているのだ。クロエ自身に魅力が無いわけではないのだと。
次に何かを言われれば「もう困らせない」といった自分に嘘をついてしまいそうで、クロエは割り込むように口を開いた。
「ありがとう。冬馬。本当に。とてもお気持ちは嬉しいわ――でも、ごめんなさい。そういうのは、もういらないの」
優しい愛では、兄からの愛では、見守る勇者の愛では、もう足りないのだ。
「……クロエ」
「ごめんなさい」
それしかもう、言える言葉は無かった。冬馬はガシガシッと頭をかくと「じゃあ」と、言う。
これでお別れなのだ。次に会うときは、社交場で会うかのような顔で彼を迎えなければならない。特別になりたいと彼にすがる権利は、クロエ自ら捨ててしまった。
「ここに置いておくから」
コトン、と音が鳴って、窓枠にスマホを置かれた。クロエは驚いてそれを見た。
置いて行くと、いうのだろうか? 日常的に使う道具だと聞いていた。これが無いと困るはずだ。
慌てて、返すためにクロエがスマホを手に取った。その拍子に、画面に指が触れ、再生ボタンを押してしまう。
『……あ、始まる』
『おわっ』
始まった動画の音声には、聞き覚えがあった。クロエは動きを止めた。パチパチと瞬きをすると、長い白銀の睫毛から、涙が滴り落ちた。
動画には見覚えがあった。当然だ。先ほど、必死に探していた動画だったからだ。
唇が触れあうシーンは、残念ながら角度が変わっていて、見られなかった。それでも、冬馬の息を呑んだ音で、二人が何をしていたのかはわかった。
「……なんで」
「画像フォルダに入れたままだと、同僚に見られたりするから……パス付けられるアプリに移動させてた。さっき、そう言うのも変な気がして」
「じゃあ何故、今言ったの」
「クロエが泣くからだろ」
クロエはむっとして唇を引き結んだ。冬馬には、何も伝わっていなかったのだろうか。この動画に賭けたクロエの意気を何一つ理解していなかったというのか。
ごめんと振るつもりなら、この動画は決して見せてはいけなかった。
「冬馬、だから、もうそういう……優しさは、もう」
辛いのだ。何一つ特別では無いのに、彼の特別だと誤解し続けるのは、心から辛いのだ。
「だから、クロエが泣くぐらいなら、見せてやるよ。泣かれるのは、無理だ。何でもやるから、頼むから泣かないでほしい」
慰め方なんて知らないんだよ。と告げる冬馬は、ひどくしょげている。困惑したクロエが返事も出来ずに立ち尽くしていると、冬馬が勢いよく蹲った。
「だーーもう、わかれって!」
髪の隙間から見える耳が、真っ赤に染まっている。
そんな色を見てしまったら、期待するではないか。もう来る必要もないのに、何度も来てくれていた理由を。クロエのためにソシャゲのレベル上げをしてくれた理由を。個人的なものと言いながらも、クロエがスマホの何処を触っても怒らなかった理由を。
――そして、この動画を見せる意味を、きちんと理解しているのではないかと。
「……なんでもって」
「だから、なんでも、だよ」
「冬馬、ちゃんと言って」
床に手をつき、蹲る冬馬の顔を覗き込む。冬馬はやけっぱちだとでも言うように、顔を上げると大声で言った。
「だから! 虎屋に泣かれて、サイードに氷づけにされた上に破門される勇気もだよ!」
ぎゅっと、思わず抱きついた。
冬馬は常通り、クロエを振り払うことは無かった。
- あとは野となれ、花となれ -




