その9 故郷……帝国の人?
「チェスの遺言出しぃあなた達も一緒に連れて行ってあげる」
どこへ逃げるのか不安になる。というか山越えしかないな。村に降りれば騎士団に補足されることになる。というか既にこの山へと追撃隊を出しているかもしれない。
ならば西側の山脈を越えて帝国側に逃げるということになるのだろうけど、大丈夫なのだろうか……。トラステア帝国……単一神サン・ジールのみを信仰する国。そしてこの国の仮想敵国。
「まさか帝国へと逃げるんですか?」
「そのまさかよぉ。山越えはきついでしょうけど、彼らも山脈を越えられるほどの権限はないでしょうからねぇ」
人狼がせわしなく荷物の整理をしている横で魔女がそう言った。
「まぁ私にとっては、故郷に帰るだけだからなんの問題はないのよぉ。安心しなさい」
「故郷……帝国の人?」
「そうよぉ。うふっ、自分の血縁にねぇ『危険な実験はやめてくだされ』って追い出されちゃったの」
「まさか!」
ハッとして人狼の方を見た。こいつは明らかにこの大陸にいない種族である。
その視線に気づいて魔女は言葉を発した。
「どうかしらねぇ。まぁ失敗はしなかったわよぉ」
失敗してたらどうなっていたんだろうか……。もしかしたら村を焼いたのが盗賊ではなく人狼に成り代わっていたかもしれない。
「でも、その前にミカミとシャン、あなた達にぃ言っておきたいことがあるわぁ」
少し黒い感情が湧き上がっていると、魔女が何かを要求してきた。
「なんでしょうか?」
「私は魔女じゃなくてマリースよぉ。そしてこの子はチャッピー。間違えないようにぃ」
「ふあ?」
シャンが困惑な表情を浮かべている。俺も口に出して魔女とは呼んではいないはずだ。まさか心を読まれたのだろうか?
「別に心を読んでいるわけじゃないわぁ。あなた達くらいの子が思ってることくらい簡単に分かる。それだけよぉ」
それは読んでいることと変わらないのではないのだろうか?
妙齢としか言えないその見た目から年齢を想像するのもよしたほうがよさそうだ。この人は多分、年齢のことになると本気になる気がする……。マリース様が聞いていないところで、シャンにも忠告しておいたほうがいいかもしれない。
◆ ◆ ◆
四つめの山を越えた。マリース様の話では山をもう一つ越えれば北側に帝国の城塞都市が見えてくるらしい。
ここまでは順調だった。チャッピーとシャンが狩りに行くと必ずと言っていいほど獲物を捕らえてくるので食料には困らない。これでは狩人の息子の影がないのだが。
また山越え用の毛皮のコートなどはマリース様の家に置かれていたものを、着させていただいている。ただ、かび臭いのが難点だ。今は気にならなくなってはいる。
さて、シャンとチャッピーが帰ってきたようだ。チャッピーの肩にシャンが腰をかけているのだが……獲物は見当たらない。
「おかえりシャン、どうした?」
シャンがチャッピーの肩から飛び降りて、焚き火の前まで来てチョコンと座った。
「動物たちがいないんだ……」
「そんな日もあるんじゃないかな」
「がう」
「んー?」
岩に腰をかけていたマリース様人差し指を何かを考え始めた。
「マリース様、どうしたんです?」
マリース様の銀色の瞳がチャッピーへと向けられた。
「この子はね灰銀の狼を元にして造ったんだけど、そのときの山の状況に似てるかもねぇ。なんかピリピリしてるよぉだしぃ」
「灰銀の狼?」
「……ああ、あなた達には狼の魔獣って言ったほうがわかりやすいかしらァ。ミカミの父上が仕留められなかった魔獣よぉ」
「それで造ったというのは……」
「気がついてるでしょぉ? チャッピーはこの世界に存在しない生物よ。私が創造したのぉ」
このとき多分俺はポカンとしていただろう。チャッピーの正体は予想はしていたが、本当に狼を人型にするということができるなんて……。
「ま、この研究のせいで帝国から出ることになったんだけどねぇ。研究が完成したからにはもう文句は言わせないわぁ」
この人は底が知れない。“剣神”と合わせた俺の経験では全く足りないくらいの物をもっている。
話についてこれないシャンは焚き火に薪をくべる作業をちまちまと繰り返していた。
「それで本題だけどぉ、もしかしたら近くに大物がいるかもねぇ」
「動物たちは敏感だから逃げ出したってことですね」
「そういうことねぇ。で、どうかしらチャッピー?」
「ガルルルル……」
チャッピーが唸り声を上げた。こちらは見ていない。木々の間を見つめている。
耳を澄ませると何かが木々を押しのけながら来るような音が聞こえてきた。
「あらあら話し合いをしている暇もないのねぇ……。あとは頼んだわぁ」
「ミカミくん、頑張って夕飯獲って来てね!」
「あ、ああ……頑張ってくるよ」
マリース様には逆らえないし、毎日のように獲物を狩ってきていたシャンにこう言われたら素直に、はいと言うしかない。
さて何がいるのか……。まさか村長さまの武勇伝クラスの巨熊は出てこないだろうな。
剣を抜いて薄暗くなってきた森を少し進む。
チャッピーが先行していたのだが、先に戦闘になったようだ。
駆け足でその現場に向かうとそこには猪がいた。ただ、チャッピーよりも背が大きく体長はちょっとした小屋ほどもある。
それはまさしく主だった。
「ふーふー!」
「グルルル!」
猪は目が血走り既にいくらかの裂傷を負っている。チャッピーがやったにしては不自然な傷も見られた。何より矢が刺さっているのだ。
「手負いの獣か。厄介だな。どこかの狩人が仕留めそこなったのか」
手負いの獣は生きるために必死だ。生存本能に従って何をしてくるか予想がつきにくい。
こう考えているうちもチャッピーと猪の攻防が続いている。
猪の突進を、チャッピーが横に避けると同時に鋭い爪で皮を裂く。しかしそれだけだ。分厚い毛皮に阻まれてそれ以上はダメージを与えることはできない。
俺が参戦しようとすると猪はその矛先をこちらへと向けた。突撃しか知らないかのように、こちらに向かってくる。
正面に見据えるとその威圧感は凄まじかった。見上げなければ全体像が見えない巨体がこちらへ突進してくる。それを避けると、背後にあった巨木が根っこからなぎ倒され地響きが起こった。
「ここだあ!」
猪が態勢を崩したところへ後ろ足を狙って切りつける。
「ぐぁ!」
足を切り落とすつもりで思い切り振りぬこうとしたのだが、刃が毛皮を切り裂いたところで止まってしまった。慌てて剣を戻して引き抜く。
これは鋼の鎧を断ち切るよりも厳しいかもしれない。
自分より大きい相手を倒すときは、まず足を潰すのがセオリーなのだが……。
「ガルっ!」
チャッピーもただ見ていたわけではない、跳躍して木を蹴り猪の背中へと飛び乗るとそこから首筋へと噛み付いた。しかし立ち直った猪が身体を震わせると弾き飛ばされてしまう。
「足もダメ、首もダメか……」
足が千切れるまで剣を叩き込んでもいいが、それでは剣の方が先にダメになってしまう気がする。
ならば……。
猪を正面に見据える。猪は突進突撃を繰り返すのみ。動きは見切り安い。
突きの構えで突進してくる猪を待つ。
「どりゃあ!」
どんな生物も目は鍛えることができない。そして目は脳へと繋がっている。一撃必殺を狙える場所だ。
そして剣は猪の血走った瞳を貫き、俺は剣を刺したときの衝撃で後ろへと大きく跳んだ。
これが止めになればそれでよかっただろう。しかし、猪は足を止めなかった。
「浅かったのか!?」
まずい完全に態勢を崩している。このままでは猪の突進を受けてしまう。
もろに喰らえばどうなるかはなぎ倒された木が語っている。
死ぬかなと思ったとき、灰色の影が俺の横を通っていった。
チャッピーが俺と猪の間に突っ込んできたと思うとその勢いのまま、掌底気味の一撃を剣の柄へと叩き込んだ。それにより眼孔の奥まで差し込まれ、残った目が白目を向くと一歩二歩進んだあとに猪は絶命した。