一人歩き(1)
偶然一人でいることに気が付いて、僅かの間、喜んでいいものかどうか悩んだ。
暑さが遠のいた放課後はしんと静まっていた。すれ違う人影も言葉を発さず、足音だけがひそやかに残る。用事があったサトコとユイカちゃんと別れて、図書室でしばらく勉強をして、帰路に着くため下駄箱にいた。ほとんど無意識にふたを開けて、息を呑んだ。一人ということを意識したのはそのときだ。
入れられていたお菓子のからや紙くずが、足元に零れ落ちる。裏に赤いマジックで落書きがしてある。「塵」「カンチガイ」。ああ、そんなことはどうでもいい。今更ごちゃごちゃ考えたりしない。けど、改めて衝撃を受ける。意図通りに喉が絞まる。思考が停止する。
片方、靴が無い。このままじゃ帰れない。
それって、わたしが悪いんだろうか?
「ざまあねえな。お前、憐れんでほしいのか? それとも寝てんのか」
どれくらい突っ立っていたのだろう。誰かが後ろを通って行った様な気もするが、感覚が曖昧だった。声を掛けられてはじめて人間を意識して、わたしは玄関で立ち止まっている御堂を見る。
曇り空が暗示のようだった。
ガラス戸越しの外界の光を背にして、冷たい表情をしている。軽蔑、無感情、嫌悪、全てを含んでいるくせに、妙に目を惹きつける視線だ。
見たくない。
射る、というくらいにまっすぐに見る目が鬱陶しい。見てしまった自分はさらに面倒くさい。でも、他にすることも思いつかないというか。
とりあえず動き出すよりは見ている方が楽で、そのままでいると、あからさまにこちらを睥睨し、御堂は背を向けた。
「うぜえな。カワイソウとも思えねえ、見苦しいだけなんだよ」
「見なくていいのに」
「それなら視界に入る場所に立つんじゃねえよ」
吐き捨てられた台詞と出ていく足音。横暴なのはわたしなのか相手なのか、判らないが気にはならない。しかしこれ以上こうしていることも許されないのだろう。靴箱の蓋を閉めると、唇からため息が漏れそうで、深く息を吸った。
廊下に戻り二、三歩歩く。それ以上は進めない。大体どこに行ったらいいかも分からない。一人ということに慣れていたはずなのに、最近はそうじゃなかったから。
――ガツン、と背後で鈍い音がした。
「なんで帰らねえんだ馬鹿。スリッパでも体育館シューズでも、歩けるだろうが」
無理矢理意識を引き戻す嫌な音だった。背筋がひやりとして、思わず胸のあたりを掴んでいた。近い場所に御堂がいて、顔を顰めた。
「な、に。帰ったんじゃ」
「不愉快で帰る気が失せた。てめえは片方靴が無いくらいで一晩ここにいる気か?」
「一晩くらいならいてもいいかもしれないね」
口先だけで言い返す。以前から思っていたが、行動が読めなさすぎて、近くにいたくない。相手も同じように眉間に皺を刻んでいるというのに。
「誰がやったか心当たりでもあるわけか?」
「ないですよ、そんなの」
「そりゃそうか。お前、何も見てないからな」
「なぜ? 見たければ見るでしょう」
御堂が無言でわたしの靴箱を勝手に開け、片方だけになったスニーカーを取り出す。白にグリーンの模様が入ったスニーカーが地面に置かれる。
わたしが帰れない理由が少し憂鬱な影を帯びた。それ、姉さんから貰ったんだよ。そう言ったらどんな顔をするだろう。
そして何をしているのかと思ったら、急に携帯を取り出して、電話をかけ始める。
「もしもし。お前、十分以内に玄関に来い。近くにいる奴全員集めてすぐだ」
「え? ちょっと……?」
いや、待て待て待て。
「言いたいことなら俺の目の前に来てから言え。じゃあ」
「ちょっと、なにをどうしてるわけ? 待って貸して、電話切るの早いって、余計な事しないでってば」
「して欲しくないならさっさと動けよ?」
「そんなこと……!」
この馬鹿! 大ボケ! アホ野郎! 心に浮かんだ罵倒はいくらでもあるが声にならない。
軽蔑の籠った冷笑を間近で見たのは、久しぶりだった。伸ばした手をあっさりと避けられる。横暴で、意味不明で、最悪で、わざとかき乱される。恨まれてるんだ。わかっているのに。
なのに、引きずられてしまうのは、時々彼が負の感情をふっと消して、純粋にも見える目でわたしを見るからだろう。今のように、微笑みもせず睨みもせず、身体の奥まで届くように。
「帰れねえなら探すしかないだろう。違うか」
「もしかして知ってたんですか。あれが」
姉さんのだったって。
言えなかった。ちょうど玄関からガラの悪そうな後輩たちが入ってきてぎょっとしたから。
「うーす、急ぎましたけどー」
「なんなんすか、センパイ、急に」
「おお? 宮内のネエサン?」
薄い眉、長髪、ピアスの跡、香水の香り、苦手かつ関わることもない、制服を着崩した人たちが五人。
ああ、御堂の呼び出しなんて無視してすっぽかせよもう……。
「これ片方探せ」
「ええ? 無いんすか?」
「無いから言ってんだろ」
「どのへんとか、全然わかんねーんですか」
「さあ。燃やされた可能性もあるしな」
「い、いいから! 探さなくて、大丈夫だから」
「え? いいんすか?」
逃げたいが勇気を振り絞って制止すると、一気に注目を浴びて怯む。よくないけど、いいとしかいいようがない。こんな赤の他人に頼むなんて、わたしの人生において考えられない。居たたまれなさが最高潮で、新手の嫌がらせのような気がしてきた。
「そのまま帰るのか?」
「……いや、わたしは探すけど……」
「馬鹿馬鹿しい。しみったれたプライドって、いっそ笑えるよなァ」
御堂がわたしを近い場所から見下ろして、身体の奥に痛みが走った。こいつはこいつでくだらない嘘を言わないから。ユキトより敵意のある言葉が、大嫌いだ。
険悪になりそうな空気を破ったのは、後輩たちだった。
「ま、でもせっかく来たし」
「珍しい先輩の頼みだしな~」
「え? あの……」
気楽に手を振り頷きあい、とりあえず五時まで、と言ってそれぞれの方向へ探しに行ってくれる。少しぼんやりしてしまう。「行けば?」と促され、わたしもようやく足を動かした。
一人掃除用具入れや、ごみ箱、空いたロッカーを見て歩きながら、ため息を吐く。結局助けてもらったのかなと、思う。そういえばあの体調が悪かった時も、まるで助けてくれたみたいだった。わたしが宮内七瀬の妹だから。そして八つ当たりをした罪悪感から。
“イズミちゃんの方が似合うわね。気に入ったんでしょう、あげるわ” 姉さんの綺麗な笑顔がよぎる。
窓ガラスに映った自分の半透明な姿を掌で隠す。
致命的な己の欠点に思いを馳せる。
他人の考えていることが少しも、わからない。
「はあ~、見つかんねかったぁ。結構、川の中とかも見たんすけどね」
「本当にありがとう。これ、気持ちだけで申し訳ないんだけど」
「いえいえ」
五時まで探したが結局靴は見つからず、集合した玄関でわたしは頭を下げた。もう日が落ちて少し肌寒い。傍の自販機で買ってきたジュースをせめて手渡して、後輩たちに笑って見せた。
「残念だけど、十分探して見つからなかったなら、諦められるから」
「あーでも、どっかで見つけたら、絶対教えますから。オレ、海斗ともけっこー仲いいし」
「モテるからむかつくけど、前腹壊したときプリント配るのとかやってくれて。クソ王子め」
「ははは、お前には逆立ちしてもムリ」
「つーか、イズミセンパイもかっこいいからお役にたてて嬉しいっすよ。文化祭のとき、マジファン増えましたよね~。アリス超美少女だったし」
「あー! 俺もアリスとツーショットしたかったわ」
ユキトが聞いたら刺しそうな会話だけど、まあそれはいいとして。
一度深呼吸をして気持ちを整える。そして少し離れた場所で携帯をいじる御堂に、お茶の缶を差し出した。
「はい」
「いい」
ありがとうなんて言えない。自分で飲め、と受け取ってもらえなかった温かいお茶を所在無く抱える。視線も向けなかった男は、ふと顔を上げて呟いた。
「お前、冷静だな」
「は?」
「嫌がらせされて、怒らないんだな。ほとんど苛立ちもしないで」
「怒ったって仕方ないでしょう。疲れるだけ損だし」
「はぁ?」
理解できない、という色が瞳に加わり、わたしは目を逸らした。今更なんなんだ。理解していないのか。
「本当はわたしのことなんてどうでもいいんだって、わかってるから。反発しても意味がない。姉さんか弟の代わりにされてるだけなのに、いちいち感情的になっても仕方ないじゃないですか」
仕方がない。幻に向かって吠えたって馬鹿を見るだけ。事実を口に出すと自虐のようで嫌になる。
だが、御堂は不思議なほど顔色を変え、その端正な口元を歪めていた。
初めて見る表情だった。
「そうか、それでお前、その態度ってわけか……。本当に、最悪だ。この腰抜けが」
「何! そんなのわたしの勝手でしょう?」
肩に伸びた手を避けられなかった。食い込む力に肌が泡立ち、無理やり振り払って背を向ける。
もう振り返れなくて、校内用のスリッパのまま外を走った。雲に隠れた夜空に街灯の光が頼りなく浮かぶ。自転車置き場で立ち止まると、風が吹いて、息が乱れて、暗闇に向かって無性に叫びだしたかった。どうして、独りじゃだめなんだよ。声なんて出ない。全部全部飲み込んで、誰にも見えないように溶かして隠して、死ぬまでそうする。
冷えた足で帰路を辿りながら、いっそ心なんて無くなればいいのにと、強く思った。