元妻が敵側弁護士になった日
この裁判で「敗北」は、ただの負けではありません。
その声は、空気の中からではなかった。
空間そのものが、低く震えているようだった。
「勝てば――全能神の寵愛を取り戻す」
アダムの手が止まった。
机の上には、無数の証拠書類が積み上げられている。
何千年にもわたる、人類の罪と弁明。
「ゼンタイの恩寵が、再びお前に与えられる」
その名を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。
ゼンタイ。
全知全能の神。
そして――かつて自分たちを「善きもの」として創造した存在。
アダムはゆっくりと息を吐いた。
「……負けた場合は?」
短い沈黙。
そして。
「何も残らない」
その一言は、妙にあっさりしていた。
だが、それで十分だった。
この裁判において、敗北とは単なる負けではない。
人類という存在そのものの正当性が、否定されるということだ。
アダムは視線を落とした。
手元の書類に記された言葉が、やけに重く感じる。
(俺たちは、本当に“善”なのか?)
その疑問は、ずっと昔から胸の奥にあった。
だが明日、それに答えが出る。
いや――出てしまう。
そのときだった。
「……トントン」
扉を叩く音。
アダムの肩が、わずかに揺れた。
そのリズムを、彼は知っている。
忘れるはずがない。
ゆっくりと顔を上げると、苦い感情が胸に広がった。
「……入れ」
扉が開いた。
そこに立っていたのは――
記憶とまったく変わらない女だった。
挑発的な衣装。
強調された胸元。
そして、すべてを見透かすような微笑み。
リリス。
かつての妻。
「久しぶりね、ダーリン」
軽やかな声。
まるで、明日が宇宙裁判の日であることなど関係ないかのように。
アダムは目を細めた。
「……本当に久しぶりだな。この悪い魔女め」
リリスはくすりと笑った。
「ひどいわね。元妻にその言い方?」
「元妻だからだ」
即答だった。
リリスは肩をすくめる。
「私たち、いろいろあったじゃない。いい思い出も」
「浮気された記憶しか残ってないな」
「ふふ。私はただ、男を愛する女なだけよ」
その言葉に、アダムの指先がわずかに強張る。
変わっていない。
何一つ。
「帰れ、リリス。明日は裁判だ。お前に構っている暇はない」
「ええ、分かってるわ」
あまりにもあっさりとした返答に、アダムは眉をひそめた。
「……分かってる?」
リリスはゆっくりと一歩、部屋の中へ踏み込んだ。
その動きは静かだったが、空気が変わるのが分かった。
彼女は微笑む。
どこまでも楽しそうに。
「私ね、明日の裁判で――」
一瞬の間。
そして。
「悪魔側の弁護士に任命されたの」
沈黙。
時間が止まったようだった。
アダムの思考が、一瞬遅れる。
「……何だと?」
リリスは楽しげに首をかしげる。
「聞こえなかった? ダーリン」
そして、唇をゆっくりと歪めた。
「あなたと戦うのよ」
その言葉は、甘く――そして残酷だった。
次回、ついに裁判開廷です。




