64 消え行く私と
「道子!」
そう叫んだ洋子は気が付いたら、子供を抱いたまま棚に押し倒されていた。
「はっつ!」
痛い。
そして、もぞもぞ動いてその間を抜けて行ってしまう子供。
「…!?章!!」
慌てるも今度は自分が動けない。棚が重いから?どうして?棚が動かせないのだ。無垢の木材だが中身が落ちているので、重くても動かせそうなのに。家具や落ちた引き出し、雑貨が間にありバタンと倒れきれてはいない。なのに……。
本棚やクローゼット、一部の机は作り付けであったが、その棚は重心が低いので普通に置いていたものだ。
しばらく洋子はそのままで、どうにか棚を動かしてそこから這い出た。あの子供は今度は何をしているのか。
どこにいるのかと取り乱して探してみると、何も言わずに玄関で、玄関のドアノブを見てずっと立っていただけだった。
全く動かず。
ずっと、ずっと……
「……ぅ………」
親がこうなっても外に遊びに行きたかったのかと、なんとも言えない思いになる。道子なら、すぐに駆けよって抱きしめてくれたであろう。
洋子がすすり泣きながら正一に電話して病院に駆け込むと、捻り方が悪く、多少後遺症が残るかもしれないと言われた。ピアニストだと言うと、先生はもっと大きな病院に紹介状を書いてくれる。
日常生活には支障がないほどにはなったが、一般の人には分からないくらいの動きのズレが生じてしまった。
何度かの通院に付き添いながら、若葉は震える洋子にお願いする。
「よーちゃん。章のこと怒らないであげてね。」
「……別に……」
洋子は別にいい。どうせ一人で演奏家としての生き方を再開できるなんて思っていなかったから。それに、道子と一緒だったから楽しかったのだ。
「あの子なんて、本当に嫌だって思ってた……。どうなってもいいって……。だから罰が当たったんだ……」
「よーちゃん、あのね。章はもう普通の子だって思わなくていいから。そんな子を頑張って育てたんだって、自負していいから。」
「違う……嫌なの。私みたいで嫌いなの!」
今はヘッドホンとポータブルDVDでミュージカルを聴かせているので、病院の椅子に素直に座っている。
そんな問題児。
でも、若葉は知っている。
洋子が章を嫌いになれるはずがない。
だって、洋子に似ているっていうことは、『道子』にも似ているんだよ。
洋子は知らない。
あまりにも違うように見えたから、お互いがそっくりなことに。
それに、道子は誰よりもこの子の誕生を楽しみにしていたのだから。
「…………」
全部聞いて、唖然としてしまう皆さん。それは尚香も知らなかった。
「……章。よーちゃんのこと、親としてでなくていい、でもいろいろ仕方ないこともあったんだと思ってあげてほしいの。」
「………。」
功は思わず洋子の左手を見てしまうが、洋子が大切なのは周りの家族や道子さんであって、自分ではない。同時に、まだ母親の何かを期待してるのか?と、自分が許せなかった。
「…………功君。今すぐ結論を出せとは言わないから。」
尚香は静かに言った。
この問題は、洋子さんがこういう姿勢である故に、状況と持って行き方次第でいろいろな解決ができる話だ。もちろん、洋子さんがあまり頭が回らないからと、そっちのけにされるようなにもしたくない。この歌の最初の持ち主が洋子であることに変わりはない。
そして今いるのは、事務所と功の近い身内。
もう、こればかりはここにいる人たちの人間性を信頼するしかなかった。事務所の社長やマネージャー、メンバー同士で搾取や不正をする世界だ。
でも、政木率いるイットシーだからこそ……
「……あとは皆さんで話し合ってください。」
尚香は静かにナオに笑う。
「洋子さん、疲れていると思うので、お茶を出してあげてくれませんか。」
功がどこかに行こうとするが、一旦政木と三浦が止めた。
「功、行くな。それから尚香さん、そのデータ、必要以外では他と共有しませんので今一旦頂いていいですか?」
尚香がうなずくと与根もお願いする。
「俺もいいでしょうか。今、少し観たいです。」
尚香は与根と政木にデータをあげ、功は別室に連れて行かれ何か話し合っていた。
「尚香さんも何か飲みます?」
「大丈夫です。洋子さん、こういう時フルーツティーやフラワーティーとか香のはっきりした物がいいと思うので、そういうの淹れてあげてください。」
「はい、若葉さんも同じでいいですか?」
「あ、はい!」
ここまでは本当に核のメンバーしか入れてもらえなかったが、一旦終わったので真理のマネージャーも駆けてきていた。ラナと目が合った尚香は、礼だけするのでラナも戸惑いながら返すしかなかった。
真理がチラッと尚香を見ると、尚香はナオとお茶を淹れに行ってしまった。
飲み物だけ準備して、カフェコーナーで尚香はお礼をする。
「ナオさん。今日は、ありがとうございました。」
「いいえ…こちらこそ!」
あの後尚香は、ナオとも電話で少し話し合っていた。ナオは申し訳なく思う。
「あの、ナオさん。……えっと、真理ちゃんに……これしかないけど渡してください。ツアーお疲れ様、これらも頑張ってねって。1個はナオさんに。」
尚香はカバンに入っていた飲む栄養ゼリーを2つ渡す。
「…………」
「尚香ちゃんも何か飲んでいって。そこのお菓子も食べていいし。」
「私はもう行きます。」
「!」
洋子は、若葉が今夜は泊まってくれるらしいので大丈夫であろう。
「でも!……」
様々な分野のプロが揃い、親戚や一歩離れた立場の知り合いもいる。きっと大丈夫だ。
「……洋子さんはどのみち一人で音楽活動もできないし、多分細かい何かもできません。でも、あの歌の作曲家として、洋子さんの立場を大切にしてあげてください。」
「尚香ちゃん……」
「後は皆さんでお願いしますね。」
尚香はそれだけ言って、イットシーを後にした。
***
もう今日は、自分できちんとイットシーを出た。
逃げることも、追われることもなく。
全員に挨拶はしなかったけれど、今日来たのは誰かの代わりだったから。
流れる東京の風景に混じり、章も洋子も乗れない地下鉄に入る。
たくさんのことがあった。
ジノンシーに再就職し、仕事が軌道に乗り始めた時、過去が過ぎ去ったことに感謝した。
もう際沢の件や、心が生きているのかも分からない、あの下宿暮らしまでのような日々ほどの衝撃など、ないだろうと思っていた。
けれどまさか、あのとにかくノルマのようなお見合いで、こんなふうにまた自分だけではどうにもならない渦の中に飲み込まれていくなんて思いもしなかった。
楽しいこともたくさんあった。
社会人になってからの生活で、寝泊まりしたり、夜中でも連絡しあえたり、駆けつけて抱きしめたり、そうしてもらったり。こんなに親しくなれる人たちができるなんて考えてもいなかった。
お父さんとお母さんにいつも気を遣ってくれた道さん親子。
暗いトンネルしか映さない地下の車窓を見ながら、目に溢れるものをグッと堪える。
自分に敵意を向けていた章に、申し訳なく思うもホッとする。自分はもう、彼の人生に踏み込めないであろう。
二股だと思われていたことも、思った以上に傷が大きかった。いろいろ言い訳がしたかったが、彼らが横に話を漏らさないなら、何も言わない方が気を使ってくれた人たちに報いれる気もした。
洋子さんが今後どう生きていくのかは分からない。
歌を歌うのか、また静かに暮らすのか。
よく見ると地下の風景より、自分の情けない顔の方が窓に反射してはっきり見える。けれど意識して視線をまた地下に移した。
堪えても溢れてくる涙を拭って、乗り換えもありながら、繰り返される駅の明るさと暗いトンネルの中をただじっと眺めていた。
***
それから尚香は、もうメディアの向こう側でしか彼らのことを知らない。
ここでいったん、これまでの大きなお話は終わりです。




