61 もう一枚の対のカード
洋子さんと道子さん。
閉じ込められた中で、必死に外の世界に行こうと生きて来たふたり。
グッと胸を押さえ、尚香はその歌が過去に歌うのか、それともどこに向かうのか知りたかった。
行き場を失った歌は、ピアノは、バイオリンは、どこに向かうのだろう。
尚香に気が付いたのか、洋子が歌を変える。
ダダダダダダッと弾いて、今度は60年代調。良き古き時代を感じながらも、次に抜け出そうとする手前のアメリカの音。
――Hi Lady? What's with that face?――
まるで話しかけるように。
ニコッと笑って、街のお嬢さんに声を掛ける、気取った紳士?それとも?
今までで一番低い声なのに、高い旋律もカバーしている。途中からシャンソンに入り、ヨーロッパの街並みにカフェで寛ぐ、大人びた、でも化粧もせず髪も服も適当に流しているだけの女性が見える。
たくさんの拍手が起こるも、信じられないのは章だ。
「??」
あれ?この人はジャズピアニストなのか?え?シャンソン?歌??
そして、こんなのは普通のピアニストではない。
洋子はまともに本も読まないし、言葉の語録などないと思っていたので、即興で作詞までするのかと信じられない。
ではなぜ?というと、洋子とて20年以上もの月日を、ただ引きこもりで完全に布団に丸まって過ごしていたわけではない。体は元気なのだ。家にあった映画も見るし、絵本や英語の本をいろいろ読んでいたのである。何せヒマだ。それに、章と同じく何万もの曲や歌を記憶しているので、語録がないわけではない。ただ、章ほど思考や言葉の組み立てができず、会話になると全く活きないが。
完全防音ではないため、締め切った部屋の方から何かの音楽や拍手が聞こえる。近くにいた主要スタッフが気になるが、まだ扉は開かない。
そして、「この曲できる?」と聞いてみると、どんどん弾いていく。作曲家の名前を言えば、流れるようなメドレーでジャンジャンピアノを鳴らし、歌もガツガツ入れる。
騒がしいのに、聴いていて耳障りがいい。
何より、楽しい。
そして、見た目も目を引く。
細いのにしっかりと伸びる首。跳ねる髪。
背が高くてやや背が丸まるが、それすら顔を上げた時の味になる。
少し冷たく不愛想に見える顔が、誰かが曲名を言った時にピアノから顔だけ上げ、合図の意味で笑うと何とも言えないかっこよさになる。
こればかりは、生まれ持ったものだ。
数曲お願いして分かった。
戸羽たちは理解する。
ああ、この人はあれだ。
時々いるタイプ。音楽の理論とか積み重ねた歳月とか関係ない。
楽譜も必要ない。
音か、体か、指で覚えている。
一度目にした風景をそのまま絵にしてしまったり、頭の中のイメージを簡単に立体にしたり、完璧に描けたりする人がいる。言語をそこに住んでいたかのようにあっという間に話せたり、すぐに機械の構造を理解して組み立てたり。練習もするが、習って積み重ねた基礎とは別の能力だ。
功もそうだ。頭の中に最初から何かがあるかのように。
この手のタイプは、特性を把握する前にあれこれ口を出さないほうがいい。特にこの人の場合、既にある程度のスタイルが確立されている。そして、それが人の心に心地よく残るものならまずはそれで十分だ。
曲途中で尚香がバッテンを示すと洋子が演奏を区切り、改まった。
「ではみなさん、この辺でいいでしょうか。」
「それで………」
多少洋子が曲を作れる音楽家と理解してもらえたと思うので、尚香が仕事の顔に戻って、自分のノートタブレットを出した。
フォルダーの中の、さらにフォルダーのフォルダーの、5つのファイル。
その5番目。
「洋子さん、いいですか?」
「何が?」
「道子さんとの歌です。」
「道子?」
「これが一番証明になります。」
「……?」
尚香は、功と、そしてイットシーメンバーの方を向いた。
「間違えてほしくないのは、洋子さんは歌を皆様から取りたかったわけではありません。」
このことに関しては、洋子と事前に話し合っている。
「詳細は後できちんと話し合いまうとして、まず、皆さんに見て頂きたい動画があります。」
実は尚香もこの動画をまだ開いていない。見る勇気がなかったのだ。見たから何なのだと。これからそれぞれの道を歩むのに。
みんなが寄ってきて注目する。真理が少し離れた所からクッションを抱いてソワソワするので、泰が間に入れてくれた。真理には気が付いていたが、尚香は何も言わない。
そしてそのファイルをクリックすると、動画が始まった。
それはいつかの小さなコンサート。
前の曲が終わり大きな拍手で始まる。
既にコンサートは終盤。
「兄ちゃん!?」
功が驚く。サーと映る客席に幼い頃の兄が映っていた。へ?正二君?と尚香も驚くが、動画は一気に二人のドレスの女性に切り替わる。
そう、洋子だった。
そして、章と似た髪色をした、もう一人。
「!!」
信じられない顔で固まってしまう洋子。
道子!
繋いでいた二人の手がすっと離れ、一人はピアノに、一人はマイクに向かう。
『皆様、今日はこのコンサートに来くださり、本当にありがとうございます!まさか日本でもこんなツアーができるなんて!』
ハキハキした声の明るい女性。
ツアーと言っても都内の小さな公演だが、海外でコンサートができるなんて思ってもいなかったロンドンの日々を思うと、ここは二人で得た新たな新天地だった。
『ではラストソングは、もともと私の歌詞にドルティーが曲を付けたもの。これから海外に行くので会えなくなる私の代わりに、ずっとドルティーとお腹の子の横で見守ってくれる歌です!』
そして、会議室のみんな分はかる。
この音、このメロディー。
『あの歌』だ。
しっとりとした曲の始め。
何てきれいな二人なのだろう。ふたりが向かい合うそれだけで、童話の1ページのように一つの作品になる。
ピアノから流れる旋律は、少し違うがLUSH+のものとほぼ同じ曲だ。
そして、間奏で始まる、ドルダムのバイオリン。
「!!」
功の音だ。
功の方が強いが軽快さと重さの比重が似ている。
誰?
このバイオリンの人が洋子ではないのか?と功もみんなも分からない。
道のスマホのフリーペーパーの写真で二人の姿を見た時、洋子は黒髪の方だと聞いた。ピアノ側だろう。では、この女性は?ただのディオのパートナーではなく?半分シルエットで、顔がはっきり映っていなかったあの写真では分からなった。
けれどこの時点では、この人の方が雰囲気は功に似ている。ただ、明らかに功や洋子とは違う目つき。目の感情が違う。親しみやすく、強く、明朗。
それでも笑い合うと、鏡のように同じ顔。
初めてこの二人を見るイットシー側には、どちらがどちらか分からない。
凛々しくも優しい、功のような茶色い髪の女性と、
前髪のある絹のような黒髪の……、おっとりしたもう一人。
だって、分かるわけがない。
本人たちだって、どちらがどちらか分からなくなるのだから。
私がバイオリンを弾けば、あなたが歌を歌い、あなたがピアノを弾けば私はくるくる踊る。
二人が手を合わせれば、それはもう物語。
それなのに、見れば見るほど、どこに行くのか分からなくて。
もう一度見たいというインパクトだけ残して、気が付いたら既にいない。
クスクスと笑いながら、チェシャ猫のように消えて行く。
動画が終わると、驚きで拍手さえなかった。
コンサート会場の大きな拍手でその動画が終わって、信じられないのは洋子だ。
「道子!」
軽く施した化粧も忘れて、顔を押さえてしまう。イットシー側は言葉がない。
「尚香ちゃん!なんでこの動画を尚香ちゃんが?!」
洋子が周りも見えずに声を出す。
「私、このDVDを売っていた、多分最後の時期のコンサートに行ってるんです。」
「え?」
「その時に父が買ってくれたんです。」
尚香が四角いアルバムを出した。
「!」
もしかして洋子なら、当時を覚えているかもしれないと聞いてみる。
「私は、浴衣を崩したワンピースを着ていた小学生でした。『コウって、栄光のコウ?』て、私に言った………」
「!!」
思えている。前髪のある、髪型が自分に似ていた幼い女の子。
「え??尚香ちゃん?お腹触った子?」
コクンとうなずく。
「このDVDは功君が生まれる前です。洋子さんのお腹の中だから。」
ならば、功は幼少期に母の演奏を聴いていたのか、それともこのDVDや録音などを自力で探し出すか、誰か伝いで聴いていたのか。この男なら、幼少期にどころか赤子で聴いていた歌も全て覚えている可能性がある。
「まず、功君に話すことがあって……、家庭のことを会社で最初に伝えるのもどうかと思いますが、彼女も作詞作曲に関わっているし、必要なことなのでお話しします。」
「………」
イットシー側が聴き入る。
「洋子さんと一緒に歌っていた女性は、功君の母方の叔母さんです。」
「……?」
「洋子さんは双子です。」
「!」
「……お兄さんの正二君は知っています。」
「は?何?その人どこ?」
「………」
「章君がお腹にいた時に……臨月の頃に心疾患で亡くなっています。」
「!……」
はじめて聞く話で功は頭が追い付かない。でも、だから何なのだ。
洋子が顔を伏せてしまい、ナオが介抱してくれた。
「そして、私の聴く限り、功君は生まれてからこの曲は聞いていないはずです。」
「………その確証は?」
「あくまで聞いた限りですが、洋子さん、お話ししてもいいですか?道さんや広大さんに聞いています。」
「………」
正直洋子は今の状況が分からない。でも、歌のためにはそうしないといけない気がしてうなずく。
「洋子さんは双子の妹さんが亡くなった頃から、こちらのディオ、『ダムディー』の歌……その他、妹さんに関わる物を全部しまい込んでしまいました。身内で配られたDVDも手元にある物は全部片づけて……」
章が生まれるまでは、もうみんな歌どころではなく。
そして章が生まれてから、なぜか洋子は道子の物は全部片づけてしまった。
歌だけでなく、存在さえも。
誰も触れられない場所に。
それは二人の音楽の原点だったのに。
もうほぼタブーになって、誰も語らなくなってしまった『道子さん』。
洋子が壊れたり、後追いしてしまうかと思ったからだ。あの、バイタリティーのある広大さえ。みんな怖かった。
法事もなく、小さな身内でそれぞれお墓参りに行くだけで。
唯一、道子を引き合いに出したのは、二度目の結婚が破綻しようとしていた頃に、今死んだら道子に叱られると、やせ細った洋子を部屋の扉の奥からすくい上げた時だった。
「で、その人がなんなの?」
だから何なのだ。章はそう思う。




