30 あなたの名刺
今月から、各音楽イベントに加え、LUSHの全国ツアー初日が始まる。
白いパーテーションを開けて、端っこの猫足のソファーから楽器を眺める洋子。
「……………」
何も言わず、しかめっ面で手元に置いた薄グレーのバイオリンケースを触った。
そこにピンポーンと玄関が鳴る。
「?」
誰?こんな時間に。しかも、玄関が勝手に開く。
今、この家に来るのは誰?洋子は一瞬おびえるも、インターホンを聴いて駆けだした。
「母さん、ただいま。」
「正二!」
長男だ。洋子は思わず駆け寄って抱き着く。
「正二……」
正二も母に回した手で肩をポンポンとした。
「何度か電話したのに。」
「ほんと?あれ?電源切れてる。」
少し落ち着いてから洋子は聞いてみる。
「ご飯は?」
「食べてきた。母さんはちゃんと食べてる?いろいろ買ってきたから。」
正二は少しだけ総菜を出して洋子にすすめるので、しょうがなくサラダに手を付けた。
「彩香ちゃんは来ないの?」
「忙しいからなあ……」
「私のことが嫌いなんだ……」
「違うってば。」
「章のところには行かないの?いっつもママを放って、みんなでお食事とかしてたんでしょ?」
子供同士で時々会っているのを知っている。
「拗ねないでよ。巻は食事したがてったよ。それに……なんか最近、章に嫌われてる……。」
「正二が章に??そんなこともあるんだ。」
ケンカしたところを見たことがないのに。幼い頃、章が正二を蹴っ飛ばしても、正二はいつも章ファーストであった。
「そんなことっていうか、原因が全然分からないんだけど。章、最近彼女いた?」
「え?彼女?あいつに?……それは……」
と、楽しそうに言いかけて、口に手を当ててストップ。洋子最大の賢さである。
「それは?」
「それは………」
うーんと考える。
「あの子に、彼女なんてできるわけないし。あの性格だよ?」
「……母さん、章はいい子だしモテるよ。一応人気商売だし。」
「まさか。モテても秒で嫌われるんだから。」
「………」
小学生のようなことを言う母に、それでも正二は軽いお酒とおつまみも準備をした。
お風呂に入って出てきた正二に洋子が声を掛ける。
「好きな部屋使ってね。」
「そこのソファーか床で雑魚寝でいい。」
「家なんだからちゃんとベッドで寝て。もう、みんな雑魚寝でいいって言うんだから。」
「……みんな?」
誰がこの家に泊まりに来て雑魚寝でいいと言うのだ。良子なら母とベッドで寝るであろう。巻でも来たのか。でもあの家で育ったら、床に雑魚寝するという発想すら湧くまい。章や大地も、来たとしても泊まることはない。
「………誰か来たの?」
「………来てません……。道さんと笹井さん以外!」
「……そう……。」
母がいつもより口数多いのに口が堅い。
洋子はそう言いつつも、そういえば尚香以外に、調律の業者や里愛、バイオリン太郎たちが来たな……と思い出す。けれどそれを話すという発想に至らなかったためスルーだ。
タオルで頭を拭いていた正二は洋子に聞く。
「あ、母さん、爪切り貸して。」
「好きに使って。」
正二は母の寝室のチェストを開け、3つある爪切りを見て、父の時代から使っていた一番大きい古い物を取り出した。昔のように、特に違和感もなく。
でも、ん?となる。
名刺?
引き出しの中に見たことのない名刺が入っている。
洋子があれこれ変なものに手を出していないか、居間にある書類や封書の住所欄はお手伝いの道や笹井さんも見ているが、詳細は正二が確認をするのでついでにと見ておく。
ピアニスト?……高坂里愛。
……NICHIWA楽器?
楽器の手入れをしたのだろうか……
だから楽器部屋のバイオリンケースが出してあったのか。
正二は叔母が死んでから、母が掃除以外であのバイオリンを出すところを見たことがない。あのケースはいつも、クローゼットの奥にしまったままであった。
というとこで、正二は自分の目を疑う。
え?
見知った企業名と業務範囲が書かれた1枚。名刺の裏側だ。
逸る気持ちで…………表に返す。
まさか………
「!?」
株式会社ジノンシー・コンサルティング
コンサル企画主任
金本尚香
それは尚香の名刺であった。
***
功は大きな仕事が終わってから、現地のホテルで寝ろと言われシャワーをして今日は素直に横になった。
今まで小さい部屋の代わりにいつも個室にしてもらっていたが、去年あたりからメンバーや三浦となら同じ部屋で寝られるようになった。
与根が部屋に戻ってくる。
「……功、大丈夫か?」
「何が?俺、LUSHになってから一番仕事量多くて頑張ってんだけど。」
「知ってる。」
ここ1か月ほど、かなり予定を詰め込んでいるが、昔ほど混乱していない。
なのに言われる。
「ファンが心配してる。」
「……なんで?めっちゃ元気なんだけど。」
「いつも婚活状況を語るのに、今回何も言わないから。」
「………?俺そんな馬鹿な事言ってた?」
「言ってた。」
冗談でも毎回、「順調です!」とか「あと一歩!」とか「振られました!」とか「モテません」とか「最低らしいです!」とか報告するのにそこに触れない。アンチやファンに、「幻滅した」とか「冷めるからやめてほしい」と書かれるので言うなと言われても毎回言っていったのだ。
「婚活する前に、一人前の人間になるって決めたからもう言わない、そうやってSNSに書いといて。」
「………一人前になる前に人生終わると思うけど?」
「とりあえず、税金の計算くらいできるようにしとく。」
「安心しろ、それは俺もできない。」
そこに来るレイン。
ソンジからである。
『お姉さんに送っても何の返信もないし、既読にもならないんだけどどういうこと?』
日本語で来て、why?とスタンプも貼ってある。
「…………」
ジーと見てから与根にスマホを投げる。
「与根が打っといて。」
「え?なんて。」
「こっちはみんな繁忙期だから邪魔せんでって。」
やさしい言葉に変えながら与根が返す。
「………てかソンジって、忙しくないの?暇なの?」
「ひま?」
「なんでこんなに送ってくるの?」
ダーーーとものすごい一方的に送ってきている。トークルームの最初に辿り着かない。
ベッドに伏せたまま功が答えた。
「多分友達がいない………」
「え?それはないっしょ。」
「奴は普段遊ぶ友達がいない。」
「え?」
ものすごく交友関係が広そうであるのに。何せ世界的人気だ。こういう人たちこそ普段は世界中でクラブとかに行って騒いでいるのかと思っていたのに。トーク番組でも、お友達になりましょう!とみんなと仲がいい。
「多分、忙しすぎてメンバー以外と戯れる時間が仕事しかない……」
「え?ほんと?」
「多分。だから、いちいち約束して会わなくてもいいレインしてくる。」
功も尚香もたいして怒らず無視なので、遠慮なく送ってくるのである。
「……え?………ええ?まじで?」
「この時代だからまだいいけど、数代前の先輩たちは1日毎に2回以上普通にライブしてたそうだし。そこまでいかなくてもアイドルってめっちゃ忙しい。あとは疲れてダウンか寝させられる。ソンジがいてまだ若手に見られてるから、上の兄さんたち大変だと思う。」
デビューが早かったので活動期間はそれなりだが、ソンジはまだ20歳。飛び抜けて人気が高いのでソロの仕事も多い。
「………っ!」
与根、おびえる。ネット個人時代の自分たちには耐えられない。
そして暇がないのに暇な人から連投で返信が来る。
『こー君!』
『今日、どうしたの?』
『なんでこんなに返信早いの?!』
『なんで優しいの??』
『僕のこと好き?』
『お姉さん、焼肉の話してた??』
『今度の日本ライブの時こそ焼肉ね!』
「セプテンバー!」
『日本ならうな重でもいいけど!』
『この後、ヨーロッパツアー始まるからその前に絶対ね。↙丸かわいい。』
『返信ちょーだい!』
『電話していい?』
『声を聴かせて。』
『もう寝た』
恐ろしくなって与根は寝たよスタンプを返しておく。
『寝てない!』
『絶対寝てない!!』
『コウジンマル!』
と、いろいろ返信が来るので、ボーと与根を見ている功の横で、延々と寝たよスタンプをするのであった。
***
優雅にストレッチをしている母に、正二は手に持った名刺を示す。
「母さん、この人誰?」
「あ、尚香ちゃん?」
「尚香ちゃん??」
なんだ、その気安い呼び方は。
「!……違う、どっかの人。」
息子に詰められて適当にごまかすのは洋子である。
「……もしかして母さん、この人と知り合いなの?」
と名刺を揺らす。
「違う、街角で名刺配ってて、おしゃべりしてその時だけ仲良くなったの。」
「………」
今の時代、街でティッシュやチラシは配っても、名刺を配ることはあるまい。しかもきちんとした会社員が。
「なんで、この名前がコウカって読むって分かったの?」
「そこに名前あるじゃない!」
母が怒る。
一応英語表記もあるものの、KOKAという少し変わった名前をコウカといきなり分かるのもおかしい。漢字が苦手な洋子はすぐ読めないし、一般的には尚をコウとは読まない。
「……なに?その、ママを疑う顔!おしゃべりしてたからだし!」
「……なんで隠すの?なんか買わされたの?」
「あー!そうそう。カチャカチャとか買わされたから、もうその人とは会わない、騙された!水色出なかったし!」
「……………」
尚香の商売は物ではない。副業でも始めたのか。
「母さん。この人、俺の知り合いなんだけど。」
「え?!」
そこで洋子、驚きで自分を繕えず、素が出てうれしそうに笑ってしまう。
「ほんと?!どこで会ったの?」
「…………」
ここで母を脅してはいけない。
そして名刺の向こう側は今まで逃げてきた人。気配を悟らせてもいけない。
「大学からの知り合い。」
「え!」
またしても洋子が驚く。なんて縁だ。
「……母さんはどこで?」
あくまで自然に聞き返す。
「………お手伝いさん。」
「……お手伝い?」
「コップ洗ってもらってるの。」
「…………そうなんだ……。誰から紹介されたの?」
「………道さん。仕事先で知り合ったって。」
「ふーん。」
お手伝いなら道関係と言っておく。でも洋子、そう言えば何が初めか覚えていない。
「でも、いろいろ聞かないでね!尚香ちゃん、自分のこと詮索されるのは嫌だし、ママの家族にも関心ないって。そういうの知りたくないみたい。しかも、もうお手伝いさんやめちゃった。」
「………分かった……。」
よくわかった正二。いや、分かりすぎている。
母に口止めをしておかねばなるまい。
「……………」
そして、これは一体なんなんだと考えこんでしまう。
「え?これ何?なんなんだ?」
「………何が?」
「…………」
「何がってば!私、変なことは言ってないよ?言ってないでしょ?」
「………言ってない。」
「でしょ?」
分かるが分からないことだらけの正二であった。




