ようこそグラーツ領へ
「それでは、私も今日はこれで失礼いたします」
「ああ」
アントンはそれだけ言って、急いで執務室を出た。
先に執務室を出たネリーを捕まえて確認したいことがあったのだ。
(ユリウス様の言う通りだ。グラーツ領に来て数日の娘を、どうして皆がそこまで気にかけるのか。「皆」というのは本当にみんななのか)
ドアを開ければすぐそこにいるだろうと思ったネリーは、すでに階段を降りて一階の廊下を歩いていた。
(歳の割には歩くのが早いんだから)
アントンは、大きな声を出さなくても聞こえる距離まで近づいて声をかけた。
「ネリー。少しいいかな? 先ほどの提言について聞きたいことがあるんだけど」
アントンの改まった口調に、ネリーが怪訝な表情を浮かべた。
「おや? なんですか?」
「私の部屋で話そうか」
アントンはネリーを部屋に招き入れると、単刀直入に尋ねた。
「クラウディア様だけどさ。本当に使用人たちから好かれているの? あなたのことだから、数人の声を『皆の声』などとは言わないと思うけど」
「何がおっしゃりたいんです? とても気立ての良いお嬢さんじゃないですか。素直で頭もいいし。好かれるのは当然ですよ」
「随分と買っているねえ。でも、私は先代に誓ったんです。『グラーツ領とユリウス様をお守りする』と。王都の人間なんかに――」
「グラーツ領の人間ですよ」と、ネリーが鋭い眼差しで、アントンの言葉を訂正した。
「クラウディア様は、グラーツ領の人間ですよ。あなたが守ると誓ったグラーツ領の領民なんです。先代のおっしゃっていたことをお忘れですか? 『ここで暮らす者たちは、みんな家族だ』と。口癖のようにおっしゃっていたではないですか」
「だから私は――」
「クラウディア様に、ここ以外に行くあてなどないではありませんか。ここで暮らしているのですから、立派な領民です」
アントンはムッとして、「それは今だけのこと。王都の人間をいつまでも預かるつもりはない」と言い返した。
「それはアントン様のお考えでしょ。……はあ。まったくもう。女性嫌いなのはユリウス様ではなくてアントン様の方ですよね。ユリウス様は、女性と接する経験が少なすぎて、女性がお菓子やお花の話をすることが理解できないんでしょうけど」
ネリーは困ったものだとため息まじりに言った。
「だいたい、ユリウス様のところにきた縁談を片っ端からお断りをしているのはアントン様ですよね。なんだかんだと理由をつけてはバッサリお切りになられて。冷酷だの、溶けない氷像だのという噂の半分は、アントン様が原因なのでは?」
「……な、なにを。私は、ユリウス様に相応しいお相手を吟味しているだけで。――って。そんな話をするために呼んだんじゃないのに。……もう。あなたには敵わないなあ。なんだか私が間違っているような気にさせられる」
なおも小言を言いたげなネリーを、アントンは半ば強引に部屋の外に出した。
翌日から、アントンは些細な用事でも、すぐにクラウディアを呼んだ。
「すみませんね。こちらのテーブルクロスですが。ほら、ここ。ここが少し汚れているんです。今すぐ洗ってもらいたいんですが」
「は、はい」
クラウディアがテーブルクロスを折りたたんで部屋を出ていくと、その後をアントンがついていく。
洗濯所へ持っていって洗い始めても、彼はそのままクラウディアの様子を観察している。
(私のこれまでの仕事ぶりが気に入らなくて、チェックしているのかしら……?)
「あ、あの。洗い終わりましたけど。汚れが落ちているか確認されますか?」
「いえ。結構です」
「はあ」
そばで二人の様子を見ていた使用人たちも、意味がわからず困惑していた。
「クラウディア様。あの窓の右上ですが。あそこだけ曇っているように見えるんです」
「では、すぐに拭きます」
いったん下がったクラウディアは、ハシゴを持った男性使用人二人を伴って戻ってきた。
「アントン様。ハシゴの上の作業は危ないんで、俺たちが拭きますが構いませんよね?」
「え? ええ。別に構いません。よろしくお願いします」
「よ、よろしいのですか?」
自分に言いつけられたのにと、あたふたするクラウディアに、
男性たちは、「いいから、俺らにまかしとっけって」と、さっさと仕事を始めてしまった。
そんな様子を、アントンは黙って見ている。
「クラウディア様。ここを引っ掛けて割いてしまったんです。繕っていただけますか?」
「はい」
アントンが持ってきたシャツの裾を繕っていると、彼はクラウディアの手元をじっと見ている。
クラウディアはアントンの視線が気になり、チラチラとアントンの顔色を窺いながら針を刺す。
「あー。私のことは気にせず続けてください」
「は、はい」
そんなことが続き、クラウディアがネリーに相談しようと思った頃、アントンは彼女に構うことをやめた。
(ふーん。使用人とは普通に接するのに、立場が上の者に対しては、なぜか必要以上に卑屈な態度をとるんだな。とはいえ……)
アントンがそんなことを考えながら廊下を歩いていると、ネリーにすれ違いざまに尋ねられた。
「どうですか? クラウディア様は?」
ハッとして立ち止まると、ネリーが微笑んでいる。
「バレていたか」
「当然です。それで?」
「まあ認めてもいいかな。王都で生まれ育った貴族なのに、私の記憶にある者たちとは違うようだし」
「わかっていただければいいんです」
ネリーは満足そうな表情で去っていった。
アントンは思い立って厨房へ向かった。厨房を通り抜けて外に出ると、裏庭が何やら騒がしい。
使用人たちが楽しげに盛り上がっている。その輪の中にクラウディアもいた。
(わかったよネリー。王都の有力貴族の娘というだけで、私はクラウディア様自身を見ようとはしなかった)
「……クラウディア様。ようこそグラーツ領へ」