ヒューゴーの企み
グラーツ領では他領とは異なり、平民同士はもとより貴族と平民との交流も盛んだ。だがそんなことは他領には知られていない。
そのため、クラウディアがお菓子を差し入れに港に向かったその日、素振りの怪しい男が一人領内に侵入したとの一報は、すぐにアントンの耳に入った。
「ヨハン。クラウディア様が朝から港へ向かわれているはずです。念の為、港へ行って不審人物がうろついていないか様子を窺ってください。この屋敷の体制は完璧ですが、もし侵入者の目的がユリウス様でないとすれば……。少し気になりますので」
「承知しました。すぐに参ります」
「ええ。頼みましたよ」
ヨハンが出ていくと、執務室の主人であるユリウスが入室した。
「なんだ? 何かあったのか?」
「不審な男が何やら嗅ぎ回っているようで」
「は? あの妹君の手の者か?」
数日前にやって来た、インスブルック公爵の後妻の娘の件を思い出して、ユリウスはこめかみを押さえた。
「さあ。そこまで差配するような人物にはみえませんでしたけど……」
「そいつは今どこにいる? 誰かつけて見張っているんだろう? 俺も見ておくとしよう」
「またそのようなことを。いちいち領主が出張ってどうするのです。もっとどっしりと構えていてください」
だがユリウスが本気で何かをしようと思ったならば、それを止められる人間などいない。
「今どこにいるんだ」
「まだ目的はわかりません。とりあえずヨハンを港へ向かわせましたけど」
「そうだな。最近の出来事を考えると……」
「ええ。ですが、さすがに考えすぎかもしれませんし」
「行けばわかるさ」
結局のところ、アントンも侵入者という珍しい存在を見てみたかったのだ。
その日の書類仕事は後回しにし、ユリウスとアントンは港へと急いだ。
港に駆けつけたヨハンは、遠巻きに怪しい男を観察して苦笑していた。
壁がないので、建物内のどこにいても男の様子がよく見える。男は、初対面の人間に遠慮なく声をかけてくる領民に驚いているようだった。
作業中の者たちが、いちいち手を止めては、男の顔をじいっと見て声をかけている。
「あんた。見ない顔だね? こんなところに観光かい?」
「道を間違えたんだろ。よそから来た人間が来るような所じゃねえよ」
「土産物屋もないところだよ。何しに来たんだい?」
皆、わざとらしく、これみよがしに「よそ者」と連呼している。
中には、「面白いなりをしているねえ」と、暗に人相風体は覚えたからなと忠告めいた言葉を投げる者までいた。
目も合わせていないのに、ことごとく話しかけられるのだ。
その男はたまらず、「い、いやあ」と、しどろもどろの返事をしながら、足早に逃げるように建物を抜けて海の方へ走り去って行った。
ここにいる者たち全員が、不審者に目を配っている――そう安心してしまったのがよくなかった。
ヨハンは駆け出した男に追いつくよう走るべきだったのだ。
ヨハンが港に出て目にした光景は、スローモーションのように見えた。
不審者が踵を返して、足早に港を去っていく。
馬車から降りたユリウスが、そのまま海に向かって走っている。
そのユリウスを止めようとアントンが大声を出して後を追っている。
スザンナは金切り声をあげて海に身を投げようとしている。
ザッパーン!
ユリウスが海に飛び込んだ瞬間、ヨハンの目の前の全てのものが動き出した。
「ゆ、ユリウス様! いったい何で……」
「ヨハン! 何をしていたんですっ!」
「え? あの――」
「早く二人を引き上げな! 早くっ!」
スザンナが小舟の船頭に怒鳴りつけるまでもなく、舟の上の男たちは、すでに海から人を引き上げていた。
「二人? え? え?」
ヨハンは事態が把握できず、ろくに返事ができない。
舟の上に女性が引き上げられ、続いてユリウスが自力ではい上がった。
「あっちに逃げたぞ!」
どうやら逃げた不審者を数人の男たちが追いかけているらしい。
舟の上では、ユリウスが女性の鼻をつまんで口移しで息を吹きこんでいる。
岸に群がった者たちが見守る中、女性は水を吐き出し、「ごほごほ」と咳き込んだ。
その様子を見て、その場にいた全員が胸を撫で下ろして、互いに「よかった」と肩を叩き合っている。
「アントン様。あれは、もしや……。クラウディア様ですか?」
アントンは押し黙ったまま、ヨハンの方を見向きもせずに舟の上の二人を凝視していた。
「申し訳ありません! オレは。オレは――」
「今更悔やんだところで遅い! ……まあ。命は助かったようですが。それより、不審者を追っている者がいるはずです。二人ほど連れて、至急、追いかけてください。どこへ逃げ込もうと見失うんじゃありませんよ」
「はい!」
スザンナは、すぐ隣にいたクラウディアが突然海に落ちて心底驚いたと証言した。
見知らぬ男が近寄ってきたので注意しようとした矢先、その男がクラウディアにぶつかったと思ったら、もう彼女の体は海に落ちていたというのだ。
屈強な男に体当たりされれば、か細いクラウディアなど、ひとたまりもない。
ユリウスは、「この件は全て私に任せろ」とだけ言い残し、クラウディアを抱き抱えて馬車に乗せ、屋敷に連れ帰った。
幸い海水をそれほど飲んでいなかったようで、明日になれば起き上がれるだろうと医師が保証した。
執務室では、ユリウスとアントンが向かい合って座っていた。
ここまで沈痛な面持ちのユリウスを、アントンは見たことがなかった。アントンの胸も痛む。
「申し訳ございません。私の不手際です」
アントンは素直に詫びた。
「いや。私も迂闊だった。まさかこんなことになるとは。せいぜい何か嗅ぎ回るくらいだと軽く考えていた」
ユリウスが、拳でテーブルを叩いた。
「だがなぜだ。クラウディアは命を狙われるような何かを握っているのか。そんな風には見えないが。インスブルック家の者かどうかわからんが、敵はここまで汚いことを躊躇なくやる奴だということだ。そんな奴らに、クラウディアは陥れられたということだな」
(私の領地で、よくもこんなふざけた真似を!)
「絶対に許さない」
ユリウスの瞳には正義の炎が静かに燃えていた。




